狐火の章5 牡丹楼
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狐火の章5 牡丹楼
典雅な夜とは、一体誰が名付けたものか、それとも名に惹かれて遊郭が出来たのか。
蕭洛の歴史を繙く気の無い紅子には、仮に第三の可能性が有ったとしても関心は無かったが、見世の間の細い路地が典夜の名から程遠い事は事実だった。
見世の正面は目抜き通りに面し、下位の妓楼の下位の遊女が見世先で客の袖を引く。その喧しさは、妓楼の者が使う通用口に面した路地にも届き、更には何処ぞの御大尽の豪遊か、或いは無い金を掻き集め、一生に一度のどんちゃん騒ぎを楽しむ者でも居るのか、頭上から見世毎、座敷毎に異なるお囃子が降り注ぎ、笑声と嬌声がそれ等を猥雑に掻き回す。
白粉の匂いはその混沌を嗅覚に訴え、昼の様に明るい灯火の群れが視覚を刺激する。
しかし、刹那でも音を外した三味線の音まで聞こえるのは、矢張り昨夜の箕松屋を受けて、自重した向きもあるからだろう。
長一郎は旦那衆の寄合には出ても、こういう場所には無縁だった筈だ。
如才無い付き合いの範囲でも、知己が非業の死を遂げた翌晩に登楼する者は、流石に少ないと見える。
それでも目抜き通りは大した混雑で、紅子は人波を器用に泳ぎながらも、歩調は常より抑えてやらねばならなかった。
歩く動きに合わせ、髪の合間から陶器の様な頰が覗く。
灯火の橙を頰紅に、とある一角に差し掛かった時、主よ、と呼ばれもせぬ声が。
『――尾けられているぞ』
「……わたしが?」
紅子は真顔で聞き返した。
自分の演技――と言うより、擬態には、絶対の自信が有った。しかも、紫札は根付の様にして帯から下げてある。女警吏にちょっかいを出すのは、余程の馬鹿か酔客だ。
今は狐火擬きの所為で風当たりが特にきつい為、絡まれたとしても已むを得ないが。
『むう。中々に気配を消すのが巧みだな。確信するのに此処まで掛かったが間違いない。主を……思い返せば、箕松屋を過ぎた辺りから』
ち、と紅子は舌を打った。
酔狂な酔客の戯れではない。先程の勘はこれかと思った。
「撒けるかい?」
『凡人の小娘が、尾行を撒いたら怪しかろう』
「……人込みに紛れるなら?」
『――気を逸らしてやろうよ』
言うが早いか声が遠くなり、背後で、女達の悲鳴が夜空に高く突き刺さった。
周囲が何事かと振り返り、悲鳴を核に、瞬く間に、三重四重の人垣が出来る。遊女の喚き声からするに、鎌鼬に着物を切られたらしい。
紅子は軽く笑むと、曲がる予定の無かった路地に飛び込んだ。
足早に右に折れ左に折れを繰り返す。
あっと言う間に雑踏が遠ざかり、灯火の海が闇夜に変わった。
そうして、随分な遠回りの末に辿り着いたのは、一軒の妓楼の裏。
闇を透かし、背後を確認してから入ったのは、出入りの商人達が使う厨房の勝手口ではなく、その脇、庭木で巧みに隠された小道の奥の、もう一つの通用口。
断りも入れず、からり、と戸を開けると、奥から下女がすっ飛んで来たが、以前から目を掛けているその少女に、後ろを指して二言三言を添えれば、それだけで気の付く少女には話が通じる。
外に駆け出した少女と入れ替わりに中に入った紅子は、客の目に付かぬ様に配された、使用人用の細い廊下や短い階をずんずんと進んだ。その足取りには、清竹陣屋以上に迷いが無い。まるで育った我が家の様だ。
膳や酒肴を手に、忙しく行き交う下働きの者達を巧みに避け、最後に踏み込んだのは最上階。上得意、最上の客にしか開かれぬ唐紙の、細工だけでも一家四人が一年は遊んで暮らせそうな蒔絵の引き手に紅子は何の感慨も無く手を掛けて、舞の様に滑らかな動きで開け放ち、笑った。
「牡丹楼一の姫が、他人の部屋でお茶挽きかい」
これに応えたのは一人の女。
「意地悪な。三日居続けの客を、先刻やっと見送ったんです。ちょいと休ませて下さいまし」
それは可憐な可憐な、花の様な女だった。
射干玉の黒髪を、両顳顬の辺りの一房だけを掬って花簪で止め、残りは漆の滝の様に背を流れて、畳を撫でる。
陽に当たらぬ所為で恐ろしく白い肌は、紅子に劣らず陶器人形の様。柳眉の下、長い睫毛に縁取られた大きな紫紺の瞳は、愁いを帯びて濡れ、綺麗に紅を乗せた小さな唇はふっくりと艶やかだ。
表情は楚々としているのに、緋牡丹をあしらった豪奢な内掛けに負けぬ華を咲かせ、だが、何処までも妖艶とは遠い、白百合の様な清楚さを醸し出すこの女こそ、典夜町一、即ち、蕭洛一の妓楼牡丹楼の筆頭妓女、一の姫こと百良その人である。
「お帰りなさいまし、姐さん」
天の最も高い所で、ぴん、と、張った弦を鳴らした様な澄んだ声が、心からの喜悦に明るく揺れる。
歳は紅子と同じか、百良の方がやや上に見え、それが姐と呼ぶとは奇妙な話だが、無論、二人の間には、何の不思議も有りはしない。
「うちの百合姫を三日も独占とは、豪気な御仁だ。それじゃ、さぞかし疲れたろうよ」
百合姫とは、誰が呼んだか百良の愛称で、恐らくはその百合の様な姿から、馴染み客に献上されたと思われる。
これは広く知れ渡り、今では百良の指名に百合が符合に使われる程だ。
紅子の労いに、しかし百合の顔は大きく曇った。
「姐さんこそ。箕松屋の話、今朝方、見世の者に聞きました。昨夜はあたくしの部屋からも黒煙だけは見えて。……大変な事ですね」
牡丹楼は単なる妓楼ではない。長年典夜町一の評判を保ち続けるこの見世の格式は高く、最下位の見世出し女郎は存在しない。
そもそも、張見世の格子が表に無いのだ。
牡丹楼に登楼するには、常連の紹介が必要で、それでも体よく断られる方が断然多い。
百良に次ぐ女達も、他の妓楼ならば、皆が皆、筆頭の姫を張れる器量と才の持ち主ばかりで、各自局と呼ばれる己の部屋を持ち、そこに選んだ客を通わせるのである。
これは、お高く止まって、と、他の妓楼に言われる所以でもあるが、無論、それに見合うだけのもてなしがあるからこそ、僻まれる程繁盛するのだ。
特に牡丹楼は内部の造りに気を遣い、各局の客が廊下で擦れ違う事の無い様に配慮されている。
客筋の大半が高位高官、大店の旦那達に占められる為、見世としては当然の事なのだが、他で鉢合わせし気まずい思いを経験した客には、これが大層気に入られた。
客の情報を守る徹底振りは、悪趣味ながら「互いが秘匿すれば父子で同じ妓女の客になっても分からない」とまで言われる程だ。
更には、多少騒いでも隣の局に音が漏れぬ様に壁や唐紙に工夫を凝らしてある為、身分も地位も有る者達の密談には打って付け。
単純に歌舞音曲を愉しむ目的なら、各方面の最高の才がずらりと揃っているのである。
牡丹楼を真似た妓楼も幾つか出来ているが、本家の繁栄にはまだまだ遠く及ばない。
典夜町の少々下世話な賑わいも、まるで牡丹楼を憚るかの様に近くでは鳴りを潜め、それを好んで構えた高級料亭も多い。
料理人の向上と客へのもてなしを第一に、見栄を捨て、これ等料亭と自店の厨房で提携し、牡丹楼でも料亭でも酒肴に舌鼓を打てる様に英断を下した為、周辺には更に客が集まる様になった。
しかし、格式に相応なだけの牡丹楼の花代は箆棒に高く、庶民には文字通りの高嶺の花。選別された客筋もあって、今や牡丹楼は富裕層の社交場である。
通う者にとって、牡丹楼の敷居を跨いだか否かは、相手を区別する重要な判断基準なのだ。
典夜町の中でも、牡丹楼の在る界隈は、特に花王街との呼び名が付く程別格の扱い。
風に乗って届く賑わいさえなければ、まるで花王街だけを切り取ったかの如き、風雅な趣に変わる。
珍しい五階建ての牡丹楼は、全座敷の軒先に吊るした提灯の所為で、夜空へ伸びる天階の様な佇まい、或いは、蕭洛を王城が睥睨する様に、典夜町を足下に従えた泡沫の女王城の如き風格が有った。
紅子は、ふと思い付いて、窓の障子を開ける。
星を纏う一夜の幻の褥の内部は、更に階層が客と女達を選別する。
最上階の紅子の部屋からは丁度竹桐路が見えるが、百良の局は反対だ。それでも、牡丹楼を越して吹き上がった黒煙が見えたと言うのだから、ここでも火勢の凄まじさが窺い知れた。
と、そこへ廊下に面している筈の壁の一箇所が、くるり、と、回り。
「――あれ、姐さんは、また百良ばかりを可愛がる」
各局、特に最上階には、実は様々な仕掛けが施されている。
中でも紅子の部屋は特別で、馬鹿正直に五階に来ても、部屋には入れない。入口が無いのだ。
たった一つの唐紙は、三階に上がり口が有る階段を上がらねば到達出来ず、しかも二階の客用廊下は、その上がり口に続いていない。
階段自体も、一旦四階で終わり、局と局の間の隠し通路、それも、何路にも分かれた廊下の、唯一の正解を採らねば迷う程の念の入れ様だ。
五階から部屋に入るには、壁の仕掛けを作動させる必要が有り、当然、これが出来る客は居ない。
ここまで厳重ではないが、他の局の襖も一見そうとは見えぬ偽装がされていたりと、まるで絡繰屋敷の様なのだ。
遊び心と言うには少々度が過ぎているが、本来出くわしては不味い客同士を巧く誘導する工夫であり、彼等が市松内で行う水面下の争い、即ち、情報戦が場所を移した最前線の牡丹楼ならではの用心でもある。
完全な隠し部屋の紅子の部屋には、酔客が乱入する恐れも無いのだ。
その仕掛けを作動させ、するり、と見事な裾捌きで今度現れたのは、百良とは対照的な婀娜っぽい女だった。
細身の長身、それだけは百良と同じ黒髪を崩して結い、態と大きく抜いた襟から覗く項と背、豊かな胸の膨らみの上部が見えるまで寛げた肌には、艶めいた脂と金粉がのっている。
切れ長の瞳は、森の木漏れ日の様に明るく煌めくが、白皙の頰に紅要らずの紅唇は、下がやや厚く官能的で、纏う着物の、黒地に金の牡丹と獅子の縫い取りにも負けぬ、艶麗な美女である。
紅子は苦笑半分で破顔した。
「なんだい、清りまで。今晩のうちの稼ぎは、随分と少なくなりそうじゃないか」
名と対照的な容姿の清りは、子供っぽく口を尖らせた。
今年で二十六には到底見えない。
「三日居続けの客は居ませんけどね、ちょっと息抜きさせて下さいよ」
「ああ、それそれ。一体何処のジジイだい」
「それが若いんですよ」
「なんだ、ぼんぼんかい。若いうちから妓楼に入り浸るなんざ、陸な奴じゃないね」
曖昧に笑うだけの百良だったが、
「百良は本当に気が利かないね。疲れてお帰りになった姐さんのお膳を、もっと急がせたらどうなのさ。お着替えだって勧めないで」
と、清りに睨まれると一変し、広げた扇子の影で、清楚とは程遠い舌打ちをした。
それでも、己の失態を素直に認める度量は有る。
唐紙から身を乗り出し、階下に控える下女に酒肴を命じた。
清りが正しい事は解っているし、何より二人は仲が悪い訳では無いのだ。
見世での人気も、百良が清楚なら清りは妖艶、と全く質が異なる為、客の取り合いも無い。二人が諍うのは紅子の部屋でだけ。何故なら、二人が取り合うのは客ではなく、紅子の寵だからである。
今は清りに軍配が上がった細やかな勝負の間に、当事者の紅子は、部屋の隅に置かれた鏡台の覆いを外していた。
唐紙の引き戸と同じ意匠の、見事な蒔絵の鏡台である。
慣れた手付きで前髪を上げ、後ろで一つに緩く巻いた姿は、三人の中で一番若い外見にも拘らず、正に「姐御」の風格が有る。
常ならその儘着物を改めるところだが、紅子は鏡に映った己の顔をまじまじと見詰めた。
あまりにも凝視するので、正反対な風情の二人は美しい顔を見合わせる。
「姐さん、それじゃ水仙になっちまいますよ」
異国に、そういう美少年の神話が有るのだそうだ。しかし、紅子にそういう趣味は無い。
「どうかなさいましたか、姐さん」
「折角鬱陶しいのを我慢して、前髪で顔を隠してたってのに、今日この顔に目を付けた奴が居てね。……やっぱり漆か何か塗っちま」
「「止めて下さい!」」
女の風上にも置けぬ恐ろしい事を呟いた紅子に、二人の美女が声を揃えて絶叫した。
「ああもう! 姐さんはご自分の容姿がどれだけ……本当に!」
と、もどかしそうに百良が嘆けば、
「よぉござんす。身の程知らずにも姐さんに目を付けた男が、諸悪の根源でござんしょう。何処のどいつかお教え下さいまし。あたしがその不届き者の目玉を繰り抜いてきますから」
と、清りが本気で凄む。
紅子は降参した。
「分かった。やらないから」
しかし、美女二人は疑わしそうだ。
「本当に? 火傷とかも駄目ですよ」
「しないしない」
「妙な薬を飲んだり、自分で傷付けたりも?」
「しないったら。大体妙な薬って何さ。ああ、ほら、夕餉の時間だよ」
階段で人の気配が動いたのを察し水を向けた紅子だが、現れた人物に目を瞠る。
「オババ? どうしたのさ」
膳の運び手が、牡丹楼の楼主で皆にオババと恐れ……呼ばれる葛音だったのだ。
紅子の胸の辺りまでしかない矮躯の老婆だが、皺に隠れた双眸からの光は未だ鋭く、新入りの下女等は、躾の厳しさに毎晩枕を濡らすと言う。
薄くなった白髪を、それでも綺麗に結って鼈甲の簪を挿し、焦げ茶の地に金縁の黒牡丹を配った着物と、艶消しの銀の帯を締めた姿からは、長年生きた花柳界の空気が滲み出る。
紅子が驚いたのは、葛音は、表の出入りが全て把握出来る寄付きが定位置で、滅多に動く事は無いからだ。
葛音はふん、と少々乱暴に懸盤を置いた。
「どうしたもこうしたも、二枚看板が揃って持病じゃ、商売もへったくれもないだろうよ」
紅子が見ると、その二枚看板は、揃って右斜め上に目を逸らした。
見事な息の合い様である。
「紅よ。偽狐火の件、お前、動くのかい」
歳を取ると、階段は上るより下りる方が辛いのだそうだ。
本当に閑古鳥が啼いている訳でもなかろうが、ちょっと休憩、とばかりに、隅から勝手に円座を引き出して腰を下ろしてしまった葛音が、甲斐甲斐しい百良の給仕で食事をする紅子に訊ねた。
ちょうど味噌汁の椀を口にしていた紅子は、一口飲んでから軽く睨む。
「紅と呼ぶなってば」
「この部屋に居る限り、あたしにとっちゃ、お前は紅梅さね。……どうするんだよ」
「逆に訊こうか。何か障りでもあるのかい」
障りって程じゃないが、と老婆は首を振る。
「狐火には、嫌な思い出しかないんだよ」
「? あ、そうか。オババは、五十一年前の狐火騒動を知ってるんだ」
行儀悪く、紅子は、ぱちん、と、指を鳴らした。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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