紅梅の章15 人型の闇
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紅梅の章15 人型の闇
苦く吐き出した息は、己でも思った以上に現状への憤りに満ちており、何で俺が清竹の事なんぞを、と余計に八津吉の憤懣は募る。
清竹の行く末なんぞ知った事か、俺が気に掛けてやる筋合いじゃねぇ。
愚痴めいたその内心すら、思いの外、表情に出ていたらしく、対面の妖しい青年が、逆光の更に奥の影で薄く笑んだ気配がした。
「我が主が目を光らせている間は、まあ、マシとも言えましょうが……。それでも」
発足当初程ではないにせよ、今の清竹の状況には懸念――不審な点が多々在った。当初の様に露骨ではないだけで――否、暗に潜む分、深刻さは上回る。
民の目に触れていないだけだ。聡い者は察する。
醜聞を嗅ぎ回る性質ではない八津吉がそれを知るのは、不本意ながら、耳に入るのに比較的近い位置にいるからだ。
煌の主とやらは、その「聡い」者なのだろう。だが、情報を入手するのには、八津吉よりは遠い位置にいる、と言う事か。
青年の先程の言は、その辺りを全てを承知の上でなのだ。
だから一層、八津吉は腹立たしい。
利用する気が満々だ。
巫山戯やがって、と八津吉は目に怒気を込めた。
嘗ての王が願った「竹の如き清く真っ直ぐな精神」。名の由来にもなった理念は最早腐り落ち、竹は地に倒れて朽ち果てた。
根こそぎ植え替えなければ、撒き散らす腐臭は増すだけだろう。
それは解る、が。
「間者でも密偵でも何でも良いがな、何故それを全く畑違いの紅黒に持ってきやがる⁉」
煌が提案したのは、そう言う事だ。
つまり、八津吉に間者になれとまでは言わずとも、紛いの事はしろ、と。
「先ずは、紫竹の監察に、恐れながら、と申し出るのが最初で筋だろうがよ」
それが駄目なら、清竹内部に同志を募るなり、手引する者を手配するなりした方が、情報は得易い筈だ。
だが、暗に示した八津吉の提案に、青年は憂いを深くした様な声音で応える。
「我が主が申しますには――今の清竹は使えぬ、と」
「あぁん⁉」
眉と声を跳ね上げた八津吉自身、知りたくもない腐敗振りを頻繁に耳にする手前、公を堂々と批判する言に反発と不同意を示した己の姿に、一欠片も説得力が無い事は承知していた。元来、演技は苦手なのだ。
まだ一般には内密にされている話だが、隣人達の、醜態と言うには余りに酷い昨夜の不手際は、呆れる、を、最早遥か以前に通り越した次元だったのだから、これは仕方ないとしか言い様がない。
しかも、事態は深刻に過ぎた。
事前の調べが杜撰で、悪徒を全て取り逃がし、何の手柄も上げられずに終わった――のではない。
水面下で、密やかに、且つ迅速に周到に、手筈が整えらえた筈の闇賭場の摘発。
賭場が開帳されていた屋敷には、確かに多くの者が、人目を忍んで入っていったと、八津吉は聞く。
しかし、清竹が踏み込んだ時には、確かに門を潜った客はおろか、胴元も壺振りも世話役も蛻の殻で、それどころか、賽子の一つさえも見付からなかったと言うのだ。
客は確かに居た。来た。
つまり、賭場は開帳はされ、客は、手入れがある事は知らなかった。知らずに訪れた。
胴元側が、客の全てを秘密裏に逃がし、自らも証拠の一切を残さずに逃走に成功したのだ。
それが示す処は。
――捜査情報の漏洩。
腐敗の中身としては陳腐だが、状況としては最悪だ。
嘗ての暗黒時代を思い返し、八津吉は秘かに拳を握る。清竹でなくとも、あんな時代は二度と御免だ。
しかし、言うに事を欠いて「使えない」とは!
鴨居と建具で四角く切り取られた庭。雲が切れたのか、不遜極まる発言自体には流石に怒りを覚える八津吉は、差し込む光が、不意に強まった様な気がした。
八津吉と背丈の違わぬ、今の八津吉の怒気の所以たる青年の背後には、見慣れた無味乾燥な庭が在る筈なのに、何故か――見えぬ。
対面に端然と坐すのが、視界を遮る程の巨躯の主でもないのに、異様な壁と成って、見慣れた――落ち着く日常から、凄まじい力で八津吉を引き剝がす。
青年は――青年の影はただ只管に黒く、背後の庭――日常は、目を焼く程白い。
四角い額縁からの強烈な逆光が、背後の世界を漂白したかの如く。
対極、青年の逆光の影は、人型の闇の如し。
闇の如き――人型。それは闇か。闇そのものか。
ああ。そうか。
闇が人型を採ったのだ。
その凝った中心が、どろりと揺れて更なる混沌を招く渦を巻いて、なのに、濃く深く、中心たる渦の核へと執拗に絡み付く様な粘度の波を見せて集約していると言うのに、何故か、人型から――闇が、滲み出す。
火事場の黒煙よりも、もっと――何が燃えているのかを想像するのも悍ましい、黒いもの。
掠めただけで全てを腐敗させる瘴気とでも言えばいいのか、或いは、人の負の感情を、古来より無実の罪で処刑された者達の無念の血で練り上げた丸薬。
一欠片でも口にしようものなら、視界の全ての人間を惨殺したいという強烈過ぎる衝動に追い遣る狂気の毒。
触れてはならぬ近付いてはならぬ――否、近付きたくねぇ近寄って堪るかと、本能的な生理的嫌悪に思わず身を引きそうになるのを、八津吉は理性を総動員して必死で堪える。
なのに、耐える八津吉を嘲笑うかの如く、滲んで――漏れ出しているのに、更に核は濃さを増すのだ。
深遠よりも黒いモノが染み出す様を、一体何と表したらよいのか。
じわり、と広がる様子は、人が血を流す様に。衣服に染みる鮮血に似て。
細く糸を引く様に進むのは、僅かなりとも時が経ち、粘度を増した血が滴り落ちる瞬間に酷似し。
何かが――何かが。
明確な意思を持った何かが核に在り、それが人型の軛から逃れる様に触手を伸ばして、或いは、捕食せんと――引き摺り込む為に。
――有り得ねぇ!
八津吉は内心で己を叱咤した。
闇でも情念でも狂気でも瘴気でも、何でもいい。
広い世の中にはそんなものが在るかもしれぬ、在っても別に構いはしない。目の前の青年に巣くっていても結構だ。だが、それが、今ここで! 自分を捕らえる為に顕現する、そんな都合の良い時宜が在って堪るか。
寝惚けてんじゃねぇぞ、と己自身に悪態を吐きながら、眉間の辺りに力を籠める様にして人型の闇を睨め付けた。
何が闇だ、何が――何かだ。
目の前に居やがるのは、牡丹楼の末成りじゃねぇか!
気の所為だ気の迷いだと、更に目に力を籠めれば、その気配は、顕現と同じ様に、唐突に絶えた。
ざぁっ、と、砂利が鳴る様な小気味良い幻聴まで伴って触手が退き、気付けば、常より眩しい逆光と、それでも判る訝し気な表情の青年。
――何だ、今のは。
幻覚なんぞを見る性質でもなかろうに、と自分に毒突く。
気付けば短髪の中にも冷や汗を掻いていて、額に玉の汗が浮いていない事に安堵する。煌に気取られるなんざ死んでも御免だ。
態と大袈裟に、顔を顰める様に目を眇めた。逆光に目が眩んだとでも思ってくれればいいのだが。
「……清竹を調べろって言うがなぁ。隣ったって、壁に引っ付いて聞き耳立ててりゃ聞こえるってもんでもねぇのは、流石に部外者でも解るだろうがよ」
確かそう言う話だった筈だ。
受けるか否か以前に、煌が――その主とやらが、何の目的でそんな事を言い出し、その白羽の矢を自分に立てたのか、皆目見当も付かぬ。
そこをはっきりさせてからでなくては、これ以上を許すつもりはないと言外に伝えれば、断固とした姿勢を感じ取ったか、青年は逆光から相も変わらず落ち着いた声で告げた。
「では、こちらも少し手札を切りましょう」
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