狐火の章4 夜光
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狐火の章4 夜光
蕭洛は広い。
南北に長めの矩形の四方、城壁の角から東西の先を見霽かそうとしても、灰色の岩壁は遥か地平の彼方に霞む。
外周を南北に歩けば、城壁一辺の端から端まで、俊足の主でも一日仕事だ。
初代王が都と定め、城と城下と、建設に着工してから完成まで優に三代五十年。
長大な土木工事計画に民が不平を洩らさなかったのは、圧倒的な王家の指導力と、その王を戴くまでに長い戦乱の時代を経たからだろう。
堅牢で巨大な都が平和と安寧の象徴である事を、戦で最も疲弊した民は、身を以て知っていたのだ。
だがその泰平も、二百年を過ごせば、空気の如く在って当然のものに成り下がる。
万一、再び戦国の世となった時、生命と財貨を護ってくれる頼もしい城壁は空を切り取る無粋な壁になり、そして今や、生命と財貨を奪うのは外敵ばかりではなくなったのだ。
城壁の四方の門の内、耀青の要衝を網羅する街道に面した南大門前には、最も賑やかな市が立つ。
城壁に国旗と州旗が翻るのなら、市には各国各地の文物が溢れる。
門内は立派な構えの大店が多いが、門前市は移動可能な屋台、棒手振、地面に茣蓙を引いただけの露店、野菜籠を背負った近隣の百姓等々、人と物が何処までも雑多に犇めき合うのだ。
その活気は門を越えてもまだ続き、途中から斜めに伸びる白黒大路と竹桐路の交わる南大辻で最大を迎える。
旅籠、酒楼が軒を連ね、仮に市松付近の権高な商家が参入を試みても、完全な異物として排除する混沌とした空気は、ある意味生命力に満ちている。
陰に貧民が蹲り、裏に物乞いが溢れ、決して清潔で美しいとは言えぬ地区だが、そこには確かに人の営みが在るのだ。
その南大辻界隈で最も華やかなのは、矢張り妓楼の集う典夜町だろう。
南大辻から黒大路の北側に広がる遊郭は、極一部の妓楼を除き、蕭洛の闇で熾烈な闘争を繰り広げる元締や親分衆の傘下に治められ、表裏両面での資金源である事は誰もが知るところ。
抗争が激化した時だけは、僅かな捕縛者を見せしめの羊にするが、平時は、適度な賂が、数年に一人は現れる「健全な社会を目指す改革者」を不可視の鎖で縛り、同時に、裏社会を仕切る者達の存在が一種の抑止力にもなっていると言う皮肉の為、組織的に本気で取り締まる動きは、振りさえもされた事が無い。
これを腐敗と取るか、必要悪と割り切るかは、判断者の立つ位置、育った環境に因るのだろう。
紅子は、箕松屋跡をそれと気付かれぬ程の黙祷で通り過ぎると、足早に南大辻へ向かった。
紅子は蕭洛の裏が腐敗の温床であろうと、典夜町で夜毎にどれ程の額の金が消えようと、興味は無かった。
無責任と謗るなら謗れ。紫札に恥とは思わない。自分が生きるだけで精一杯だと胸を張って、何が悪いと、本気で思う。
紅子は知っていたのだ。
勧善懲悪は真理ではないと。
だからこそ、今の自分が在るのだ。
それだけに、件の狐火擬きは、一層赦せなかった。
生きる為に誰かを犠牲にしなければならない事、それが仮に復讐であれ緊急避難であれ、無いとは決して言い切れない。
もし選ぶのが知己だったら、紅子は仕方の無い事だと言うだろう。
慰めるのでも、忘れてしまえと甘やかすのでもなく、生きる為に必要ならば、それが現実だからだ。
しかし、今回は。
――殺し過ぎだ、奴等は。
明日の食事にも事欠き、飢えるか死ぬかの瀬戸際で血迷った、軽微な窃盗ではない。
盗む緊張感を味わいたいのなら、家人の誰にも気付かれず煙の様に消え失せて、世に「これぞ大盗よ」と賞賛されれば良い。
同時に無能な紫竹を、どうぞ罵倒してくれて構わない。
三件全てに仇でも紛れ込んでいたなら、仇討ちだって認めよう。
しかし、だとしても、太一と美代が、罰せられるのに周囲を巻き込んでも已むを得ぬ程の悪事を働いていたか。
仮に、仲良く素直な兄妹の姿が偽りだったとしても、安芸月の嬰児がどんな罪を犯せたのだ。
生まれた事が罪だとでも言うのか。
巫山戯るな。
ざわり、と怒りで髪が揺れて我に返る。
それでも堪え切れないものを抑えようと、刹那硬く瞑った瞼の裏で、禍々しい緋色が走った。
――昨夜凶刃を濡らした、夥しい鮮血の様に。
「――!」
違う。
これはわたしの記憶じゃない。
過去と悪夢が交錯し、凄惨な虚構の幕が残酷に上がる。上演寸前、舞台に無造作に並んだ血みどろの大道具類から目を逸らすのに、紅子は意志の力を総動員させねばならなかった。
無理矢理空を見る。
知らず、止まっていた足を動かす。
死者の鎮魂に、これ以上の余裕は無い。
初秋の夕暮れは焦りを煽る様に早く、紅子が南大辻に着いた時には、既に闇の成分がかなり濃くなっていた。
早々に灯された街灯は、蕭洛の約五分の一を占める城よりも華やかで、そこに集まる多くの提灯の動きが賑やかさを添える。
堅牢な壁の無い、だが確実にそこは不夜の城なのだ。
案の定、そんな時刻でも売れ残りを抱える花屋は在って、紅子は中でも全て売り切るまで帰れぬと泣き顔の子供の花売りを見付けると、片っ端から買い上げて、大きな花束を作らせた。それを持って元来た道を引き返す。
途中、早速今夜からの警邏組を何回か見掛け、先程ざっと頭に入れた警邏の分担区域と時間割と照らし合わせた。
向こうも此方に気付いた様だが、前が見えぬ程の大きな花束に小さく頷いただけで、何も言わぬ。
何時もの事だからだ。
ふ、と息を吐いて、足を止める。
其処は、箕松屋の焼け跡。
常なのだ。紅子が、事件現場に献花するのは。
大和の言葉通り、既に検証を終えた焼け跡には張り番も居らず、周囲を火除け地に囲まれた跡には、何処までも沈黙が横たわる。
紅子は、確か店の入口が在った辺りで一礼すると、灰と炭ばかりの暗闇へ踏み出した。
まだ何処かに熾火でも在りそうな、熱だけが籠もった暗闇。――否、違うか、と紅子は瞑目した。
絶望と恐怖と怨嗟が溢れた、この儘では死者の安らげぬ暗黒だ。
――解る、自分には。
箕松屋の紋を白く抜いた小豆色の暖簾を潜れば、広い土間。
三和土の右手には小さな油樽が並び、左手には奥の蔵へ続く中道。
客の間を、手代に追い回される長吉が走り、上がり框に腰掛けて、手持ちの瓶に油を詰めてもらうのを待つ客に、女将が茶を勧める。
その袖に付いて真似るのが美代で、奥では大福帳と睨めっこで、番頭から商売のいろはを教わる太一。
得意客は別室の座敷で長一郎が相手をし……ああ、ちょうどこの辺りだったか。
紅子は首を巡らせた。
広い店だと思っていたが、ここまで何も無いと逆に狭く感じるものだ。何せ、基礎すら燃えてしまったのだから。あまりの猛火に、砕けた束石も在ったと聞く。
頼りは記憶だけで、そうして手繰った店の中央に、紅子はそっと花束を置いた。
仏花に限らぬ随分と派手な供えだが、今は我慢してもらおう。
これは、取り敢えずだから。
空の月は二十六夜。闇と光は拮抗せず、恐ろしく細い銀色が、裂け目の様に虚空に浮かぶ。
濃紺の天鵞絨に穿たれた様な無数の星芒が美しいだけに、地上の蛮行が余計に切ない。
夜目の利く紅子は、灯火も無しに焼け跡を見回し、それから手向けた花の上で、密やかに囁いた。
「――闇よ、影よ……夜光よ」
その名を口に含んだ、刹那――。
『……やれ。主は中々我を呼ばぬ』
闇から――夜の暗闇でも、無情な炎の残滓からでもなく、敢えて言葉にするなら、昨夜一晩でこの地に染み付いた、憎悪と瞋恚が凝り結晶化した様な悍しい何かから、声が返った。
紅子は嗤う。
人に相応しい所業ならば、人の手で裁くのが相当。
だが、今回の凶賊は、最早人の道を踏み外した外道。
人には任せられない。
赦してはならない。
外道には相応しい末路を。
それが、自分の正義。
これは、その為の力。
「それ程出番を待ち侘びていたなら、どうだい。報告出来る事は有りそうかい」
合掌し、万が一にも死者の冥福を祈っている風を装う。
声は、実体が有ったなら、きっと頭を擡げ、大きく息を吸い込み、惨劇跡に満ちる瘴気を心ゆくまで味わって胸を膨らませただろう様に吸気の音をさせてから、答えた。
『この蕭洛とやらの地と言い、此処と言い、全く以て我には心地好い空気だが……主が訊きたいのはそういう事ではなかろうな』
紅子は、解ってるなら訊くな、とは言わず。
「へえ。此処はそんなに居心地が好いかい」
『頗る宜しいな。強いて難点を挙げるなら……血の臭いが濃過ぎるな。獣が食い散らかした跡の様だ。それに、どうせ殺すなら、全員生きた儘焼き殺せば良かろうに。そちらの方が苦悶と怨念がより増して、この地が完全なる忌み地となったものを。己の手で実際に息を止めねば満足せぬ輩か。つまらんのう』
ご丁寧に、不可視の声は、くわぁ、と擬似欠伸まで付けてくれたが、咎める無益を熟知する紅子は、不見識な内容からも情報を得るのを優先した。
獣が食い散らかした跡とは、騒がれるのを防ぐ為に一息に殺したのではない、という事だ。
更には、自分の手で確実に止めを刺したと実感しないと安心出来ぬ、つまりは小心者も。
矢張り、放火も完全な証拠隠滅を図っての事だろう。
殺しを愉しむ者と小心者が行動を共にしても襤褸の出ぬ……結構な大所帯か。優れた統率者の存在も考慮に入れた方が良さそうだ。加えて、下手人は犯行が露見ては不味いとの自覚が有る事になる。
流れ者や完全に身を持ち崩した悪漢の仕業ではない、即ち。
――蕭洛に生活の基盤が有る者の犯行か。
矢張り、本家狐火とは違う様だ。
「……。これ以上の手掛かりは無理か……」
何となく去り難く、その場に佇んでいると。
『……時に主よ。此処に聖宝の気配は無いが』
「……解ってるさ。これは別件と心得な」
万に一つの可能性を消されて、紅子は顔を顰めた。
ならば仕方無い、と、心を決めた時。
竹桐路の方から、息を呑む様な――或いは絶望に呻く様な、小さな悲鳴が聞こえた。
振り向いた先で、更に小さな人影が頽れる。
慌てて駆け寄った紅子は、赤い双眸を思わず瞠った。
「あんた――!?」
咄嗟に己の上着を着せ掛けたのは、後にして思えば何かの勘が働いたからだろうか。
『主よ。想定外とはこれを言うのだろうな』
果たして誰にとっての想定外であるのか、この時の紅子にはまだ予想も付かなかった。
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天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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