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星を掴む花  作者: 宮湖
紅梅の章
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紅梅の章5 闇の好餌

不定期更新ではございますが、宜しければお付き合い下さい。


MERRY CHRISTMAS



 紅梅の章5 闇の好餌



――遊ぶな、と。


 と、天下の名器と謳われる琴の、ぴん、と張り詰めた弦を気高く弾いたが如き威厳と、名手が技巧を凝らした横笛の一音毎に、涼やかな鈴の()が重なり、妙なる調べを奏でたに等しい、否、それ以上の、天の神仙女の玲瓏玉の如き美声が、全き漆黒の、禍々しく、妖しい動きを見せる縁を打った――刹那。


 暗黒が、跳ねた。


 峻烈な女仙の叱責が、投げ石になったか。

 沼に石を投げ入れた時、とぷん、と水面が凹む様に、闇の淵が大きく揺れる。

 飛沫が、玉響にだけ存在を許される宝冠を成し、その一端が、ぬるりと夜目にも視える妖しい照りを以て、長く高く伸びたのだ。


『――やれ、詰まらぬのう』


 そう、不穏当な笑声雑じりで嘆じたのは、闇。

 闇、そのもの。


 何処までも深く、何よりも昏く。


 今、天を覆う漆黒は、仮に闇夜であっても不思議な藍の濃淡を示し、何処かに(救い)がある様に思えて、人心を呑むだけではない、安寧を与える「黒」であるのに対し。


 それは、天の対局に、全てを呑むべく顎を開いた暗渠。

 妬心も悪意も害意も――殺意さえも。人の情念を、負の感情を、総じて練り込んだ巨大な闇の塊。


 一切の救い無く、一切の縁無く。


 一端に触れたが最後、永遠に捕らえて離さぬ虚無の牙と、決して抜けぬ桎梏の爪、執拗に絡み付く妄執の(かいな)


 全てを塗り潰す漆黒なのに、内包する「負」の全てを孕んだ、混沌。


 否、その矛盾こそが混沌か。


 その闇が、くくっと、人であれば咽喉を鳴らしただろう様に、夜闇でもくっきりと判る禍つ輪郭を震わせると、その振動の儘に、橙が作った人型に滑り、融けた。


 定座となって久しい紅梅の影に落ち着くと、声が。


『上階の床の板張りは隙が無いな。あれなら階下の音等漏れまいよ。北の漆喰は、材質に問題は無いが塗りが粗い。()()が目立つぞ』


 態々筆頭妓女が普請現場を見廻っている理由は、()()だった。

 何と紅梅は、夜光に異常の有無を確認させていたのである。


 確かに、夜光は何処にでも潜める。日中、物陰、それどころか、職人の影に潜り込んで会話を盗み聞く等お手の物、壁も床も透過出来るのだから、材質材料の誤魔化しも見破るのは容易だ。

 正に、うってつけの細作なのである。


 しかし、妖を間者に遣うにしても、この使役法。

 紅梅なればこそと言うべきか、紅梅らしいと呆れるべきか。

 夜光が不平を零したくなるのも、無理からぬ事と言えよう。


 戻った夜光と話す間を敢えて持とうとした訳ではないが、紅梅は、見廻りの疲れを休めるかの如く、ふ、と息を吐く様に、普請ではない壁に背を預けた。


 夜光を使役する(使う)のは、何も、不正を暴く為だけではない。


『――それと、左官の中年に、酒の匂いをさせておるのがいたのう』

「ほう。そいつぁ問題だね。左官を()()()()のは……厨だったか。今は天手古舞だろうから、朝一番に目撃情報を募って……左官の口入れは、確か湊屋か。そっちにも人を遣ろう」


 手配した職人は、全て、身元も為人もしっかりとした者達である事は言うまでもないが、手が足りぬとの理由で、事前に提出された名簿以外に、外注や孫請けまでされてしまうと、胡乱な輩も混じり易い……尤も、実は、見慣れぬ職人が一度でも目撃されると、その者の身元は勿論、性格から金遣いの荒さ、困った友人や親類縁者の有無まで、即座に徹底的に調べ上げられ、紅梅に報告されている。


 これだけ大規模な改築工事だと、どこでどんな輩が入り込んでいるか。

 用心に用心を重ねても、過ぎる事はないのだ。


 万が一にも、何者かが、不埒で陋劣な事を企んではいないか、と。


――本来ならば、そんな用心等、する必要も無いものを。


 皮肉に思う。


 牡丹楼は、良くも悪くも衆目の的なのだ。


 吉事も凶事も、起きた刹那に伝播する。否、慶事よりも奇禍惨禍、不祥の方が膾炙の速度が弥増すのは当然だろう。


 そして、悪意で以て惨禍を殊更に悦ぶ輩が心待ちにするのは、絶頂からの凋落。

 それも、転落は速い程愉快で、他人事であるが故に、惨状は酷ければ酷い程無責任に囃し立てられる。


 既に、牡丹楼の大規模普請が、人の口の端に上がらぬ日は無い。


 例えば、その最中に不審火が。

 登楼していた客が逃げ遅れて死亡、否、密やかに身元を隠していた御仁の正体が、火難で暴かれて晒し者になったなら、暫く巷間は大層沸こう。

 それよりも、美女揃いの牡丹楼、妓女に一生消えぬ火傷の痕、等の方が。


 醜聞であればある程、それを糧に、悪意は育つ。


 何れにせよ、牡丹楼の信用は地に落ちるだろう。

 それが目的で、潜む者が皆無とは、言い切れぬ。


 その先に悪意が凝っているかの如く、目を眇めて行く末を思う紅梅の耳朶を、恐らくは同階の局から漏れたのだろう、典雅な楽が打った。


 笛、三味線、衣擦れ、あれは寿弥か。

 舞の名手のはつ(はる)に付けたから、きっと上達は早いに違いない。本人も熱心に稽古に取り組んでいるし、姉芸妓(はつ華)の指導は的確だ。超の付く一流にはなれずとも、一流の舞姫には間違いなくなれるだろう。

 牡丹楼で、局を持つと言う事は、そう言う事だ。


 気付けば、吐いた息が幽かに白い。

 流石に、夜ともなれば屋内でもそれなりに冷える。鼻の奥が、つん、として、紅梅は寒さを自覚した。

 今、鏡が在ったなら、きっと二つ名の如く赤く変じた鼻が映る事だろう、と繊手をやって、予想以上の冷たさに苦笑する。

 この姿は客に見せられぬ。

 暦は嘉月、だが、世俗の春はまだ先のようだ。


「ちょいと工期の遅れが出始めてはいるが……職人を入れ替えるのも手間だしねぇ」


 職人を変える、即ち、身元調査や監視も一からやり直す必要が生じる。

 監視の主軸は下働きの者達だが、妓女の人物鑑定眼も侮れぬのは勿論で、若い職人が滅多にお目に掛かれぬ妓女を垣間見られたと喜んでいる実情が、これであった。

 稽古の合間の息抜きの振りで、女達の鋭い眼光が張り巡らされていたのだ。

 怖い事実を知らぬが仏、である。


 そうして、使役する闇からの報告を受けつつ、紅梅は各階の普請現場を静かに確認して回っていたのだ。

 普請初日からの紅梅の夜課は、無論、牡丹楼の全員の知る処で、


「これ以上、紅姐さんのお手を煩わせてはならじ」


 と、一層職人の監視と身辺調査に熱が入る裏の一幕を齎していた。


「……意外と、行灯と提灯が使えるか……」


 気を取り直して再開した夜課、こんな時でも足音を立てぬ身のこなしは、金蓮歩と言うべきか、或いは陰に潜む生業(なりわい)のものか。


 仕種だけは可憐に、手燭を上下させて夜の暗さを視認する。


 密やかに独り言ちた通り、手元から広がる灯りの際、橙と黒の境界は、どちらが優勢かと侵食を競っている様にも見える。


 化粧板の目隠し、或いは、板を渡して進入禁止としただけの区画、夜闇に等しい暗幕を垂らした配膳用の通用口。

 それ等からほんの少し離れた所に、態と灯りを置くと、眩さに目が行って、武骨な仕切りが目立たないのだ。


 工事中、極楽と言う非日常を求めて来た客が、無粋な日常を見せられて不快に思わぬ様にと、出来る限り、衝立や拵えた仮の壁で区切って目晦ましにしてあるのだが、常連である程に、見慣れた風景との差異に気付く。

 何か良い手は無いものかと思案していたのだが、然程大掛かりな仕掛けを施す事無く、懸案は解決しそうである。


 因みに、この灯りと衝立等を用いた目の錯覚に因る幻惑、後に、それが迷路の様で童心に帰った心地だと、逆に人気が出る事になるのだから、世の中判らぬものである。


「ああ、いっその事、改装が終わったら、全ての局の軒に灯りを吊るそうか。どうせここには夜なんて訪れる筈もないんだから」


 外壁には、工事に影響がない部分に派手に提灯を。局の軒や勾欄も同様に。

 そうして、不夜の城牡丹楼(ここ)にあり、派手に喧伝してしまうか。


 悪意の目を以て牡丹楼(こちら)を見る者には、何をどう繕ったとしても、歪んだ像しか結びはしまい。

 己がそうである様に、こちらの意図も全て悪意と捉えて決め付けて、潰さ(やら)れる前に殺し(やっ)てしまえとばかりに、極端な思考から極め付けに物騒な行動に及んだとしても、何の不思議も無いのだから。


――悪意を押す存在(モノ)等、存外身近に在るものだし。


 その夜光(モノ)を平然と酷使し、客の目線を考慮した、各所の灯りの位置や数を試していると、夜光が己の端を揺らしながら言った。


『――時に、主よ。最近、時折、妙な匂いのする事があるのう』


 夜光には珍しく、発言が曖昧だ。心情を表すかの如く、一端が薄い。


「あん? あたしの事かい? 香の調合は変えちゃいない筈だけどねぇ」


 紅梅が好んで着物に焚き染めるのは、白檀や麝香に絶妙な配合で梅の香を練り込んだもので、問屋に特別に調香させた逸品である。

 これまで夜光に悪臭を指摘された事はなかったが、と首を傾げていると。


『違う。香ではないし、主でもない。人の手は……入ってはおるな。普請の材木からではない。最初に嗅いだのは……さて、何時だったか』


 嗅覚の器官が有る訳でもなし、「嗅ぐ」とは闇には妙な物言いだが、要するに「牡丹楼の異変」との括りでの報告だろう。


「妙な、匂い、ねぇ……」


 紅梅は眉を顰める。

 夜光の感覚は、人間のそれとは当然異なる。「妙」の定義が根底からして違うのだ。

 これを、夜光自身に言葉で説かせるのも無理が有る。


 紅梅は、一計を案じる、と言う程大袈裟ではないが、一つ試してみた。


「……美味(うま)そうかい?」


 夜光の気配が、刹那、硬直、又は、凍ったのが、感じられた。

 人であれば、驚愕に硬直した、或いは、瞠目した、と言ったところか。


 それから、そうさなぁ、と常の様子で、美味くはなかろうな、と答えが返る。


『仮に喰らっても、愉快にもなるまいよ。だが、愉快な事態は、起ころうな』

「? そうかい」


 愉快、も意味が解らない。


 首を傾げつつ、手近な山の覆いを捲れば、恐らくは明日使う予定なのだろう、複雑な(ほぞ)を刻んで継手や仕口に組まれる木材の一山。


 真新しい木の香りが、懐かしい記憶を呼び覚ます。


 整った(おもて)を彩っていたのは、愛らしさや色香ではなく、頂点を求めんとする勝気さ。


――懐かしい、約束。


 約束は、果たす。

 誓う。


 その為にも。


「……愉快、か」


 愉快、と夜光が期待すると言う事は、人には不幸不運と同義だ。


 人が闇に堕ちるのを、闇の存在は望んでいるのだから。


 けれど、牡丹楼でそんな事は起こさせない。


 ここは泡沫で、一夜限りの夢で、確たるもの等無くて、享楽と女の命が無意味に浪費される悲しい城だけれど。


 それでも、ここにしか縋るものも居る場所も無い女達の、最後の希望でもあるのだから。


 たとえ誰であっても、何があっても、牡丹楼を蹂躙などさせない。


 牡丹楼に生きる者達を、これ以上の不幸になど、決してさせない。


 紅梅の美しい紅玉の如き瞳が、爛、と燃える。


 夜光の期待――好餌となるか。


『――主よ』

「――ああ。分かってるよ」


 夜光に注意を喚起されるまでも無い。

 見世の表に、何やら騒々しい気配。


 来やがったか、と紅唇には不釣り合いな言葉を吐き捨てる。


「……全く、碌でもないね」


 呼気の白と夜の黒が、その呟きに淡く揺れて、燃える瞳に綺麗に融けた。







お読みいただき有り難うございます。

ご感想等ありましたら是非お願いします。励みになります。★★★★★の評価も頂けるとなお一層有難いです。


全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、


竜の花 鳳の翼

天に刃向かう月


も、ご覧下さると嬉しいです。


では、皆様、よいお年をお迎えください。









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