狐火の章3 闇気胎動
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狐火の章3 闇気胎動
清安十六年玄月、六門町の縮緬問屋安芸月に、正体不明の賊が現れたのは、涼風心地好い十五夜の事である。
例年より厳しかった夏が漸く終わり、夜風に秋が滲み始める時節、賊は夏の疲れで熟睡する者達に悲鳴を上げる隙も与えず、家人奉公人等二十七名を惨殺した。
その中には主人嘉平衛の息子夫婦由立、純の四歳になる娘と、先月生まれたばかりの男児も含まれており、その非道さには都中が慄然とした。
蔵に有ったのは、推定で九百三十両。焼け跡の捜索で蔵内で嘉平衛、蔵前の庭で、大女将である妻の吉江と、孫二人の遺体が見付かった事から、恐らく三人を人質に開錠を迫り、開けさせた直後に殺害したと思われる。
その後、厨房の油壺の中身を家中に撒き放火。この火は、隣と裏の家を半焼させたところで消し止められたが、この時点でまだ人々は、物騒な、と眉を顰めるだけで済んでいた。
狐火の名が囁かれ始めたのはこの四日後、天満町米問屋栄屋が襲撃されてからの事である。
死者が五十九名と多数なのは、この夜、主人正衛門の次男春紀代の祝言で多くの縁者が泊まった為で、これが大邸宅で繰り広げられた地獄絵図の要因となった。
栄屋は近しい親戚の殆どを失い、未だに葬儀も出せぬ有様。
二千両以上が奪われ、栄屋を含む四棟が全焼した。
そして昨晩、狐火の再来かと怯える人々と警戒する清竹桐水を嘲笑うかの如く、三件目が発生したのである。
しかも現場は陣屋の警邏区域内、竹桐路沿いの油問屋箕松屋であった。
詳しい検分はまだ終わっていないが、手口は前の二件と同様だと思われる。
箕松屋に火の手、との知らせが入った時には、流石に皆が、すわ大火かと戦慄したが、箕松屋は前に竹桐路、周囲は全て火除け地で囲まれており、箕松屋の敷地のみ全焼したのが幸いと言えた。が。
「何が幸いか……!」
最前で、皆を睥睨する席に陣取った清竹の長立江が、声を震わせる。
果たして失われた人命と追求される責と、どちらに慄いているのかと、紅子は伏せた顔の影で思う。
二年前に金で今の席を買ったと、実しやかに噂される男だ。
そして、それが事実だと、紅子は良く知っていた。
「箕松屋の小僧の長吉さ、朝、俺達が出勤する時必ず表を掃いてたろ」
「おお。あの厳しい手代にも負けず元気に」
周囲の密やかな会話にも、常にもまして怒りと沈鬱さが滲む。
目と鼻の先と言える程近くはないが、両組織の半数は竹桐路が出勤路だ。
交代制で時間の不規則な仕事だが、通えばそれなりに顔馴染みも出来る。
箕松屋は手堅い商売で今の財を築いた老舗で、確か今で六代目。
七代目と期待された十七歳の長男太一と十歳の娘美代は仲の良い兄妹で、二人を見守り、次代も盛り立てる覚悟の奉公人達も、皆、穏やかで堅実な為人の者ばかりだった。
主人の長一郎、女将の静も誰に対しても腰が低く、裏路地の貧民街ですら悪い噂が立った事が無い。
「……で……な。火の……勢いが……」
「……ああ…………それじゃ……」
更に低められた声に、途切れる内容。
それでも、紅子は痛ましさに強く瞑目した。
聞こえずとも解る。
昨夜のあの天を焦がす程の猛火。
商いが商いだけに、店に取り揃えていた大量の油の所為で、火勢は凄まじく、大樽に次々と引火した時の爆発音と衝撃は、陣屋の竹林を揺らす程だった。
焼け跡には家屋の基礎すら残らず、炭化した何かの塊が無数に有るだけだと聞く。
――遺体の判別も難しいと。
「――以上、桐水清竹で班を組み、市中の警戒と賊の一刻も早い検挙を――」
立江と並んだ桐水の長、敬船。
その隣で、威厳の有る声で指示を出すのが、桐水の次官八津吉である。
どの組織でも長はお飾りで、実権は次官が握るのというのは儘有る事だが、桐水はそれが極めて顕著だ。
これは桐水の成立に由来する。
桐水は官主導で作られた組織ではなく、民の間で自発的に発生した複数の消防団を、長に官吏を据える事で、州の組織に組み込んだものなのだ。構成員が民間人であるのもその為である。
自分達の町内だけを縄張りとしていた消防団を、蕭洛全域を効率的機能的に補完出来る組に再編成し、圧倒的人望で纏め上げているのが火消しの頭、即ち次官で、桐水成立当初から現在まで、次官が全ての采配を揮う。
桐水の長の役目は、次官以下紅黒の活動の為の環境を整え、便宜を図り、もしもの時には代わりに一切の責を負う事である。
一見、全く割りに合わぬ役目の様だが、次の異動まで大過無く勤め上げれば、確実な昇進が約束された地位なのだ。
そして両組織の長、立江と敬船。
二人は子供の頃からの知り合いだが、折り合いの悪い腐れ縁と言う奴で、三年前に桐水の長となった敬船に対抗した立江が、高官に金を散撒き、一年遅れて清竹の長の座を手に入れたのである。
因みに、現清竹には頭は存在しない。これは、数代前の長官が「指令系統の一本化による効率化」を図って頭の職を廃止した為だ。
だが、当時の長は有能だったろうが、当代には明らかに過負荷となっている事は、「当人だけが認めぬ周知の事実」である。
「五組、清竹から吉佐、桐水は要。六組……」
去年還暦を迎えた筈の八津吉が、嗄れ声で警邏の組み分け人員を読み上げ、その度に嘆息の様な悲鳴の様な、或いは舌打ち混じりの雑言の様な音が部屋の端々で上がった。
不仲だからこそ、敵組織の事は熟知しているもので、自分が組まされた相手を誰もが快く思っていないのである。
それら全てを雑音と聞き流していた紅子は、だが次の瞬間我が耳を疑った。
「最後、二十六組、桐水から武早、大和の二名。清竹からは……紅子」
ざわり、とそれまでとは質の異なる空気が揺れた。それを発した中には、当の紅子も含まれていた。
一応、探索方の一人ではあるが、まさか桐水と組んでの警邏に駆り出されるとは予想していなかったのだ。
それは誰もがそうだったろう。紫竹の一人が発言を求めた。
「お言葉ですが、紅子は探索方ではありますが……その…………」
流石にこれだけの大人数、しかも桐水の長と頭の前で、雑用係とは言い辛いのか、語尾を濁したのは、先程狐火云々と喚いていた捕り方の男だった。
消えた言葉の先を、八津吉が拾う。
「女の身で紫札を頂くとは言え、これ程の凶行を続ける非道な賊だ、どんなに優秀な人材でも心許無かろうよ。だから二十六組だけ三人なんだ。通り一遍の見回りじゃ、賊の手掛かりは摑めねぇ。そろそろ清竹先代が見込んだ『女の目』の出番なのかもしれねぇだろう」
くだけた口調だが、手掛かりを摑めぬ紫竹の男への、痛烈な皮肉である。
最後に人手も足りねぇ事だしな、と付け加えたのは、成果の上がらぬ夜警は桐水も同様だからだと思われた。
しかし、と紅子は唸りたい気分で、前髪の間から武早を見る。と、暢気に此方に手を振っているではないか。
それを大和が頭を叩いて止めさせ、他の紅黒達が諦め顔で首を振る。
紅子は、八津吉の発言が凄まじく白々しく思えてきた。
人手不足も嫌味も本当だろうが、桐水の問題児を、体よく押し付けただけではないか。
女好きの武早に、清竹で微妙な立場の紅子を組ませれば、一石二鳥とでも考えたに違いない。
「各組の担当区域と夜警の日程は、此処に貼り出しておくから確認しろ。他に意見は有るか」
はいはい、と武早が手を上げる。
「天水桶の確認を徹底して下さい。何が役に立つか分かりませんからねぇ」
発言内容自体は真っ当なのに、言い方が何処か不真面目で、紫竹全員(紅子含む)の、貴様に言われるまでもない、との反感に満ちた視線も、本人は何処吹く風である。
つくづく厄介な、と、紅子は今日何度目か知れぬ舌打ちをした。
軽薄なだけの男なら適当に遇えるが、武早は意外と切れ者だ。しかも紅黒が軟弱である事は有り得ない。面倒な事に、自分は興味を持たれてしまった。
この儘では動き辛くなる。
「ね、赤紫ちゃん。またねって言ったろ?」
八津吉の解散の号令を聞くや、武早は満面の笑みで寄って来た。
引き止めようとした大和は無益を悟り、その他大勢に混じって、掲示板の担当区域と時間を確認に行ってしまう。
「わたしと組むと、ご存知だったんですか」
「いーや、全然。強いて言うなら、勘?」
「……大した勘でいらっしゃる」
先程を真似られた発言に声が尖る。
和やかな空気を発しているのは武早だけで、紅子に限らず、彼方此方で紫竹と紅黒が睨み合っていた。
日頃から、紫竹は紅黒を、火の手が上がらねば目の前のかっぱらいにも腰を上げぬ役立たずと罵り、桐水は清竹を、弱い民には紫札を翳して威張り散らすくせに、火を見ると逃げ出す臆病者と嘲る仲だ。
両長の意図は理解出来ても、酌んで動く者がどれ程居るか。
折り合いの悪さからして、衝突するのも時間の問題だろう。そのどさくさに紛れて逃げてしまお……駄目だ。「内気で従順な紅子」が、命令違反等と大それた事をするのは不自然だ。
「俺達は明日から弥栄町から豪永町に掛けてが担当だと。今日は輪番で休みだ」
女に現を抜かさず、きちんと掲示板を確認して来た大和に、紅子は小さく頭を下げた。
大和は武早より拳二つ分程低い背丈ながら、こちらは着物の上からでも判る、筋骨隆々たる体躯の持ち主である。
薄灰色の髪を短く刈り、とろりと不思議な艶の濃緑の瞳は、常識を弁えた落ち着いた色。それとも、武早と居ると、誰でも思慮深い常識人に見えるのか。親し気な言動からして、二人が組む機会は多いらしい。馬が合うと言うやつか。
やや大きめな鼻と口が、他者に快活な印象を与えるが、単なる良い人では終わらぬ様で、にこやかな表情の中で一瞬、濃緑の瞳に、友の目下の興味の対象に向けるにしては鋭過ぎる、値踏みする様な光が閃いたのを、紅子は見逃さなかった。
どいつもこいつも油断ならない、と、内心で独り言ちる。
今回は、どれ程警戒しても過ぎる事はないらしい。
「初日から休みってのも妙な気分だな」
大和はぼやくが、紅子は重い前髪の影で思案する。
警邏の頭数に入った以上、断る事は難しい。ならば動ける時間が有るのは有り難い。
「大和様。箕松屋の検証は」
「あ? ああ、もう終わった頃だろうけど、報告書が上がるのは、早くても明日の昼だぞ」
不意を衝かれた大和が、それでも親切に答えた。
どーして俺に訊かないのかなー、と脇でほざくのは黙殺する。そんなもの、可能な限り接点を持ちたくないからに決まっている。
漸く人垣の消えた掲示板を遠目に見遣り、紅子は一瞬、目を眇めた。
直ぐに表情を戻して思案する。
これだけ甚大な被害が出ているのだから、きっと検証報告も急がせるだろう。
民と上は不安に満ち、情報に飢えている。早急の対策も合わせて発表しなければならないのだ。
窓越しに空を見れば、既に青より茜が勝る時刻。
露店の売れ残りの花を何店分か残らず買い上げてやれば、今夜だけでも貧民街の子供が夕食にはありつけるかも知れない。決めた。
「分かりました。ではわたしはこれで失礼致します。明日の警邏でお会いしましょう」
「へ?」
お先に失礼致します、と頭を下げる。
「あ、ちょっと? 待ってよ赤紫ちゃん」
誰が待つか。
ぽかんとする男達を尻目に、紅子はとっとと退出した。「すたこらさっさ」とでも擬音が付きそうな勢いだったのは、これ以上余計な事を訊かれるのを避ける為に他ならない。
逃げたのではなく、これは、戦術的撤退と言う奴だ。
「……すげー。武早に靡かねぇ女初めて見た」
「いやあ、新鮮な反応だなぁ」
「……。あんな大人しそうな娘にすけこましの本領発揮したら鬼だからな」
「良ーね鬼。今回は強引に行ってみようかな」
「人の話聞けよ」
「どうも彼女、警戒心じゃなく訳有りっぽいんだよなぁ。うん、俄然興味が湧いてきたね」
可哀相に、と、大和は紅子に心から同情した。
「ところで、貴重な休み、大和はどうする?」
「帰って寝る。当然だろ。こういうのは体力勝負だから、休める時に休まねぇと。お前は例の如く、どっかの女の所にしけこむのか?」
いや、と武早は目を眇めた。
青灰色の瞳に、刹那閃いた鋭い光が、容貌に野性味を加える。
「ちょっと紫竹探索方の真似事をば」
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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