狐火の章32 裏事情
新章に向けて、読み易いように改行等手直しの際、31 相応の報いを・33 星を掴んだ花々は と分割をしております。
宜しければご覧下さい。
狐火の章32 裏事情
「何だい、そろそろ始まるってのに、観ていかないのかい? うちが特等席なんだよ」
今宵の牡丹楼は、七日間の服喪中よりも更に音が無かった。
何故なら裏方を残し、牡丹楼に所属する全ての妓女が出払っているからだ。
百良の急逝により、一の姫の座が空いた。
今宵は繰り上がりで筆頭妓女となった清りをお披露目する為、典夜町の目抜き通りを、牡丹楼の妓女が己の禿を伴い、総出で練り歩くのである。
武早が牡丹楼に向かう時から既に、新一の姫の花魁道中を一目見ようと、典夜町は常にも増した凄い人出だった。
元々、外の気配を感じさせぬ牡丹楼だが、殆どが出払った静寂はまた別の静けさで、その分、外の喧騒が五階にまでも届きそうだ。
紅子が特等席と言って下を指したのは、二、三階辺りの局のどれかの事だろう。
確かに、武早の長身を以てしても、立ち見では清りのきの字も見えるまい。
野次馬で身動きさえ儘ならなそうだった。
「それが、実はまだ、書類仕事が残ってるんだ」
特等席とやらで清りにやんやの喝采を送りたいのは山々だったが、八津吉に凄まじく怨まれる事は間違いない。
大和の件の余波で、紅黒の身元、最近の素行調査が徹底的に行われる事になり、八津吉は今、その煩雑な手続きに忙殺されているのだ。
今日送り出された時も「油を売ってくるな」としっかりと釘を刺された。
無視したら後が怖い。
「そう言えば、評定所の裁定次官に、敬船様が就かれたんだ。そっちの立江様が地団太踏んで悔しがってるんだけど、赤紫ちゃん?」
言外の問いに、紅子はにやりと笑う。
九割予想していたとは言え、武早はまたも嘆息した。
司法機関の最高位である評定所の裁定官は、桐水や清竹の長等、足元にも及ばぬ高官だ。
長官は代々王族が務めるが、実務には殆ど携わらぬ為、次官が実質上の長と言って良い。桐水とは比べ物にならぬ激務だが、名実揃った花形の大官である。
敬船は能力では誰もが認めるところだが、世辞や、自らを売り込む性質ではない為、大抜擢とも言える人事に桐水内からも意外の念が上がっていたのだが、矢張り、誰かさんが裏で糸を引いていたらしい。
『あー……。面倒臭いねぇ』
きっと、あの時から既に考えていたのだろう。
――後日談になるが、擬きの裁きは、最初から評定所で行われる事になった。何方様かが「事件の大きさを鑑み」た結果らしいが、王族絡みや長期係争の事件を主に扱う評定所としては、これは異例の事である。
擬き事件を担当した敬船新裁定官は、全て明白な事実であるとして、評定所では異例の速さで一味全員に極刑を申し渡したが、刑の執行までは、逆に、異様に長い猶予を設けた。
擬き一味が、毎夜、祟りに悶え苦しんでいるとの噂が巷に広く知れ渡ると、民はこの措置を「死の恐怖に怯えるがいい」との粋な配慮だと歓迎し、民意に敏い敬船裁定官の名もまた、都に遍く知れ渡った。
『何。手は打ってあるさ』
擬きに相応の報いを。
言葉通り、紅子は手を打ったのである。
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「武早様。お帰りですか」
紅子の部屋を辞し、裏口への階段を下りると、祝いの膳の支度で大童な厨房から、小さな人影が走り寄って来た。
今宵、牡丹楼は表からの客は誰一人迎えず、御練を終えた妓女達だけで宴を催すのだ。
厨房から流れる蒸す程の湯気に、青菜を似た匂いが混じる。武早が来た時、魚屋が新鮮な魚を大量に運び込んでいたから、膳には刺身も載るだろう。寒いので摘入汁かもしれない。
支度を手伝っていた少女の赤い頰に、武早は相好を崩した。
「元気そうだな、美代」
はい、と美代は屈託無く笑った。
擬き捕縛と同じ位都が沸き立ったのが、美代の生存の報だった。
気持ちは分かる。陰惨な事件での、唯一の明るい話題だ。
しかし、あまりの狂乱振りに、美代は再び牡丹楼に身を隠さねばならなくなった。
流石に禿の格好はせず、裏方を独楽鼠の様に動き回る毎日である。
「美代は、清りねーさんの見物しないのか?」
「後で清りさんが見世の前で舞われるのを、上から観せて頂く事になってます」
成程、特等席だ。
「ご存知でしたか。百良さんが百合姫と呼ばれる様になったのは、御練の時に観客から、そう声が掛かったのが始まりなんだそうです。だから今日も、清りさんが何て呼ばれるか、皆で噂してるんですよ」
敢えて百良の名を出した美代の強さに、武早は舌を巻く思いがした。
幼いとも言える若さで、悲劇を乗り越えようとしているのだ。
「美代は牡丹楼には残らないんだってな」
「はい。外に居た方が、紅姐さんのお役に立てる事もございましょうから」
美代は商家の養女に行く事が決まっている。但し、何処の店かは目下検討中だ。
一人生き残った美代の強運、更に、嘆き悲しんで終わらず、擬きを誘き出す囮を務めた事が知られると「そんな心の強い娘なら、是非養女に」との申し込みが殺到したのだ。
後で、裏方の女中の一人に聞いた話だが、この事態に葛音は、ち、と舌を打ったそうだ。「そこそこ器量良しの妓女に育ちそうな娘だと思ったのに」と。
一方で、紅子は「ゆくゆくは息子の嫁になってお店を継いでくれって話になるだろうから」と、女達に養女希望の商家の徹底調査を命じた。
牡丹楼の女達の結束の固さは折紙付だ。きっと申し込んだ店の商いの状態から奥々の内証、係累の素行、人間関係に至るまで徹底的に調べ上げ、美代の将来の禍根となりそうな種は完全に排除して送り出すに違いない。
「紅姐さんか。美代ももう、すっかり牡丹楼の一員だなぁ」
外から牡丹楼を、紅子を支える事。
それが、美代の恩返し。
感慨深げな武早の言葉に、美代は誇らし気に瞳を輝かせて微笑んだ。
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