狐火の章30 葬送の琴
新章に向けて、読み易いように改行等手直しの際、29 赦しの無い裁き と、内容を分割しております。
宜しければご覧下さい。
狐火の章30 葬送の琴
獣の断末魔の如く絶叫し、地面をのた打ち回った大和は、全身をびくんびくんと痙攣させた後漸く沈黙した。
紅子を疑う訳ではないが、武早は思わず倒れ伏す大和に駆け寄る。
目に正気の光が有るので一応は安堵したが、だが、何故か大和は一言も発さず、動きもせず。
「……何をしたんだ?」
思い出したのは、親指に浮かんだ血の玉。
夜光による、呪い。
「栄屋正衛門が殺された瞬間の痛み、絶望」
「え?」
「それと、絶命していなければ味わったであろう、生きた儘焼かれる激痛と、恐怖」
紅子は燃える様に赤い瞳に、何処までも冷えた色を宿して答えた。
聞こえているね、と大和に言い放つ。
「安芸月はあんたの咎とは言い難いから免じてやるが、これからあんたには毎晩一人ずつ、栄屋、箕松屋、丁楽で殺された者が味わった苦痛や恐怖を体験してもらう。勿論あんただけじゃないよ。擬き全員さ。偽擬き六人の苦痛が最後に残っているとは言え、安芸月の分が無いだけ、あんたは幸せと思うんだね」
それは――それは文字通りの。
「斬首? 獄門? 死後に首が曝されたって、痛くも痒くもないじゃないか。苦痛が長引く腰斬刑? 車裂き? それとも生かしといて皮を剥ぐかい? 爪も? 鼻でも削ごうか。駄目だね。拷問は殺さず続けるものだ。殺されない事が解っているんじゃ意味が無い。一回しか死なないんじゃ、あんた達の罪には到底足りない。捕まれば死罪は承知だったろうよ。でも刑が執行されてそれで終わりと高を括っていたんだろう? 冗談じゃない。どんな刑でも、あんた達の所業に対しては軽過ぎるんだよ。改心? 笑わせる。失われた生命に釣り合う改心って何さ。甘いね。一回死んだだけで自分の罪が消えると思うな!」
武早はごくりと唾を呑んだ。
それは初めて見た――紅子の激昂だった。
「もう解っているね、大和。狂えないよ。どんなに辛くてもね。一人も逃がさないよ」
これこそが、相応の裁き。
武早にも解った。
これ以上の刑は無いと。
『やれやれ。まだるっこしいのう』
刑の執行者が、言葉とは裏腹な、心からの喜悦に満ちた声で呟く。
「でも赤紫ちゃん。これだと時間が掛かって、本当のお裁きの方が先になるんじゃ……」
「何。手は打ってあるさ」
紅子は意味深な答えを返した。
人の手には出来ぬ裁き。
確かに擬きに同情の余地は無いが。
「復讐じゃないよ」
心を読まれ、だが武早は鼻白む事も出来なかった。
武早自身、迷っていたのだ。
復讐の是非にではない。今回の擬きに対してだけは、公正な、相応な裁きが、人の手で為せただろうか、と。
犠牲者が安らいだだろうかと。
「復讐するのはわたしじゃない。……それは、自分で決める事さ」
何かに記憶を刺激されたのか、微かな懐古の中で、紅子は続ける。
「……八津吉は違うと言ったけれどね。昔の八津吉は、今よりもっと融通が利かなくて」
清濁併せ呑む事が出来ぬ八津吉と、少し距離を置く方が良いと判断したのだが。
「時の感覚が曖昧な事の悪い点さ。距離どころか、気付けば三十年も経っちまって」
三十年。
――あ。
閃いた武早が矢鱈と瞬く前で、紅子は返答も感想も求めぬ過去から一人で立ち戻った。
振り返って、優しく呼ぶ。
「――美代」
美代。
矢張り居たのだ。
紅子の視線の先を追えば、闇に護られる様に少女が佇んでいた。
武早は気付いた。
美代を包む闇が、明らかに優しく、柔らかささえ感じさせる事に。
夜光の奴、と今宵武早は初めて笑みらしきものを浮かべる事が出来た。
それともこれは、共存関係に有る者の影響なのだろうか。
「殺された順だからね。箕松屋の皆の分までは、まだ先だけれど」
ちら、と大和を一瞥し。
「これで、良いかい」
はい、と美代はしっかりとした声音で言った。有り難う存じます、と深々と頭を下げる。
その目尻に在る物が銀光に一滴輝いて見えたのは、気の所為ではない筈だ。
「――さて、と。武早。美代と、其処に転がってる馬鹿を頼めるかい。今晩は忙しくてね」
「そりゃ構わないけど……?」
八津吉の応援にでも行くのだろうか。
これから美代には事情聴取が、大和には厳しい取調べが待っている。任されるのは一向に構わないが、美代は兎も角、大和が素直に口を割るとは思えない。
武早の懸念を、紅子は一蹴した。
「言ったろ、狂えないって。擬き全員の心身は、これから毎晩襲い来る苦痛から狂気に逃げられない様に、夜光の支配下に置かれるのさ。喋りたくなくても口が勝手に動くだろうよ」
狂わせてなんかやるものか。
「誰が最初に、いっそ殺してくれと言い出すだろうね。強がりは幾晩保つだろうね。心を彼岸になんてやらせない。牢で自殺なんてさせないよ。本当の死の恐怖に怯えて悔いるが良いさ。因果応報、真に結構じゃないか」
それはきっと、死者の代弁。
夜光の不可視の拘束を緩め、大和に縄を打つ。
美代の頭を一度撫でて、後は頼むと駆け出した紅子は、だが何故か数歩で振り返った。
「百良に何か伝言は有るかい」
「へ? 百合姫?」
「今回、あんたには随分動いてもらったからね。伝えたい事が有るなら特別に聞いてやるよ」
「何いきなり。あ、もしかして百合姫の身請けの話? 今日だったのか?」
身請けか、と呟いた紅子は、複雑な笑みを薄く唇に刷いて、視線を落とした。
相変わらず、女に関しては妙に勘の鋭い男だ。
「……そうだね。今夜あの子は、漸く苦しみから解放されるんだから」
今度は武早が苦しみか、と呟く。
遊女の辛い境遇を、苦界とは言うけれど。
「うーん。月並みだけど、元気で、とか。幸せに、かなぁ。……ああ、それより」
思い出すのは、望んだ話なのだと、とても澄んだ笑みを浮かべていた百良。
「良かったね、って」
「……。分かったよ」
再度駆け出す寸前、美しい黒髪に紛れた双眸を、懊悩の欠片が過ぎっていた事に武早が気付いたのは、訃報を受けた後の事だった――。
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客が居ないのを良い事に、紅子は正規の廊下を一気に五階まで駆け上がった。
どの局もひっそりとしているのは、今宵の勝利の報せがまだ届いていないからではなく。
一見、そうとは分からぬ百良の局の唐紙。引手代わりの桟に指を掛け手首を返せば、それだけで滑らかに戸が動く。
そして、予想通りの光景に、それでも尚紅子は、一瞬、細い細い何かに胸を刺し貫かれた様な気がした。
弾んでいた息を整えて、踏み込む。
紅子を待っていたのは、常の可憐な笑顔でも、尊敬に満ちた眼差しでも、無茶ばかりする姐を気遣う言葉でもなく。
「百良……」
恐らくは、直前に湯屋で身を清めたのだろう、まだ少し湿り気を帯びた髪。
常は紅子の部屋に在る琴が、何時の間にやら運び込まれている他は、身の回りの細々とした物は完璧に整理されていた。
部屋を汚さぬ様にと古着を重ねて敷いた上に、少量の水を張った桶を置き。
細く白い腕が浸るのは、自らの手首から流れた血。
気配を察したか、掠れた声が届いたか、百良は桶の縁に乗せていた小さな頭を大儀そうに上げ、焦点の定まらぬ瞳を、それでも大切な人の方へ向けた。
「……お帰り、なさいませ。……首尾は」
「あんた達が動いたのに、滞り等有るものか」
ふふ、と唇が綻ぶ。
「……お恥ずかしい事で……ございます。一思いに……咽喉を突こうと思ったのですけれど、最後に……どうしても、姐さんの……」
「ああ。……解っているよ」
紅子は傍らに膝を付いた。
「星に……届いたのかい」
星は此処に、と百良は、懐から震える手で腕輪を取り出した。
受け取った紅子は、冷た過ぎる細い指を、愛おしむ様に握ってやる。
この冷たさは、冷えた秋の夜だからか。
夜が静か過ぎるのは、皆が寝静まっているからか。
それとも。
「……良く、頑張ったね」
褒められ、百良は、はい、と白い頰に満面の笑みを浮かべた。
武早からの伝言に、更に笑う。
「姐さ……」
「ん?」
「……とを」
――琴を。
「ああ。弾いてやるとも」
何時かの晩の百良の様に。
葬送の琴を。
全ての死者への、鎮魂の音を。
絃を弾く一音一音を弔いに代え、掻き鳴らされた調べに何を聴いたのか、百良は、ああ、と想いの籠もった息を吐いた。
最後の力を振り絞って、呟く。
「……星の様で、ございました……」
それは、尾を引いて流れる星か。
それとも、夜空に穿たれた星芒の一つか。
綺羅星の如き、牡丹楼での暮らし。
それも流星の様に一瞬で過ぎたけれど。
短い間を、生き切った己。
今度は誰かの星に、なるのだろうか。
その夜、紅子が最後の一音を弾き終わった時、生命を懸けた願いを糧に、見事に咲き切った百合が一輪、散った。
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天に刃向かう月
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