狐火の章26 もう一つの詭計
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
狐火の章26 もう一つの詭計
武早は、右の袖口で乱暴に額の汗を拭った。
悲鳴を上げる心臓を宥める様に、浅く速い呼吸を繰り返す。
代わりに痛み始めた咽喉を無視して唾を呑むと、引き攣れた奥で血の味がした。知らぬ内に、口の中を切っていたらしい。
くそ、と吐いた悪態は一体誰に対してか。紅子の指示で八津吉が要請した紫竹捕り方、何れもかなりの腕前だと聞いていたが、不貞な浪人四人に対して倍に相当する数でも、賊徒の鎮圧には時を要した。全員生け捕りは直ぐに諦めたにも拘らず、三人を斬り伏せるのに紫竹一名が深手を負い、紅黒二名が浅くとも無数の傷で血達磨になったのだ。
幸い三名とも生命に別状は無かったが、武早は今宵、浪人達が隠れ家に居なかった事を心から喜んだ。
八津吉の隊は残りの捕り方が総動員されたが、もし対峙していたら乱戦の中でどれ程の被害が出たか、考えただけで冷や汗が出そうだ。
けりをつける様に、大きく息を吐く。
惨い焼死体は見慣れているのに、原形を留めた斬殺死体の方が目を背けたくなるのも妙なものだ。生々しいからだろうか。
箕松屋の跡地はまた血に穢れてしまったが、もし箕松屋の人々の霊がまだ彷徨っていたなら、これで少しは無念が晴れたのではないか、と感傷的な事を考えて、漸く武早は最も感傷的になっているだろう少女の事を思い出した。
こんな惨いものは見せられない、と慌てて辺りを探す。
が。
「……あれ?」
――居ない。
暗闇で見落としたか、と仲間から松明を借りて周囲を見回す。
だが、紅黒紫竹の人だかりにも、先程まで自分達が潜んでいた物陰にも、それらしき姿が無い。
己の家の跡地で、悲しみを抱いて佇んでいる姿も無い。
気付けば紅子も。
それに。
「……居ない……?」
居る筈の者が。
ぞくりとした。
戦闘で掻いた汗が秋の夜風に冷えたのではなく、最悪の予想に体が震えた。
噴き出した汗を、今度は左の二の腕の辺りで擦る様に拭って、直後、武早は雷に打たれた様に硬直した。
「……まさか」
――そうなのか?
だから紅子はこんな計画を立てたのか?
漏洩経路を絞る為ではなく。
「……最初から俺を使う心算で……?」
芝居のさくらに、自分を指名したのか?
……この時、武早は驚愕に凍り付いた心算だったが、不意に動きを止めた武早を訝った同僚は後に「何かに怯えた、或いは酷く傷付けられた子供の様な表情だった」と語った――。
最悪の予想に、己が左の二の腕を押さえる。
もし、本当に、その通りなら。
「……悪い、後を頼む」
「え、おい」
「先に戻っててくれ。オヤジなら分かるから」
そう、きっと八津吉は、紅子の意図に気付いている。
だから武早を此方に回した。恐らくは、それも紅子の指示で。
異議を唱えなかった。
駆け出す。
闇雲に探すしかない己が無力で、枷を嵌めた様に足が重い。気だけが急く。
向かう先の夜陰が、ぽっかりと口を開けて待ち受ける、惨憺たる未来の様に思えた――。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
牡丹楼には、二箇所の戦況が逐次報告されていた。
隠れ家急襲の八津吉隊に負傷者と聞けば一憂し、箕松屋跡地で戦闘開始と知れば、各局で身を乗り出して伝令に詰め寄った。
特に、今晩箕松屋側で起こる事には、暫くの間皆で面倒を見た美代が大役を任されている。擬き一味がまんまと美代に喰い付いたとの報だけでも一喜した。
今宵はどの局も赤々と灯明が絶えぬのに、何故か妓女達が頭痛、血の道、気鬱の病等々で揃って臥せり、楼主葛音は八割自棄糞で、厨房に開店休業を宣言したと言う。
だがそんな牡丹楼で唯一客を迎えていたのが、筆頭妓女百良、通称百合姫の局であった。
「……今晩は、どの局も随分と賑やかだね」
他の局の気配を感じさせぬのが売りの一つである牡丹楼で、これは異例の事態と言える。
至急お会いしたいとの文で駆け付けた若者は、今宵の期待に胸を膨らませつつ首を傾げた。
不思議と言えばもう一つ。この部屋にも隣の寝室にも、床が延べられていないのだ。
「ええ。今宵、今正に、あたくし達の大切な方が、大一番に望まれていらっしゃるのですわ」
「おや、妬ける物言いだ」
冗談めかした中に、一片の嫉妬が閃く。
直ぐに理性に抑え込まれたが、酒肴も勧めず帯も解かぬ百良が呼び出した用件を切り出すと、理性の蓋を呆気無く吹き飛ばし噴出した。
「身請けだと……!」
理不尽な激昂が声となって迸る。
装っていた「度量の広い若者」の仮面を吹き飛ばす。
「何処のどいつが俺からお前を奪おうと言うんだ……!」
百良は内心で目を眇めた。
若者の醜い悋気。歪んだ独占欲。
これが必要だった。
だから時を掛け、殊更に煽ってきたのだ。
「断れ。お前程の女なら落籍を望む者は多いだろう。袖にしても文句等言われるものか」
「無茶を仰る」
「ならば俺が身請けしてやる。俺の妻になれ。それで万事治まるではないか」
「それこそ出来ぬ相談でございます」
百良は居住まいを正した。
美代は心を決めた。
皆の仇を討つ為ならば、自身が囮になる事等造作も無いと思い極めた。
そして、その覚悟通り、凶刃に身を曝した。
今宵の箕松屋跡地が美代の戦場なら。
今この時が、自分の戦だ。
「確かにあたくしは苦界の女。金を積まれれば誰にでも足を開く恥知らずでございます。なれど、これ以上血の繫がった父と息子両方の前で同じ醜態を曝す程、腐ってはおりません」
「何!?」
一重の細い目が驚愕に見開かれ、馬鹿な、との呟きの後、真円まで更に瞠目する。
思い出したのだ。
牡丹楼が何を謳っているか。
徹底した秘密保持が、何と揶揄されているか。
「それがお慕い申し上げる方ならば、尚の事」
「百良……」
俺の花よ、と差し出された若者の手を、だが百良は繊手を伸ばしても摑まなかった。
「……あたくしを妻にと望んで下さいますお気持ちは、本当に嬉しゅうございますが……」
それは出来ない。自分はこれから、この若者の父親の、妾になる身なのだから。
そう、瞳で、語る。
何より雄弁に、想いを伝える。
「百良」
「真に、苦しゅうございます」
「百良。逃げよう」
百良はとても澄んだ、諦め切った者だけが得られる透明過ぎる笑みを浮かべて見せた。
「若は無茶ばかりを仰る」
「無茶なものか!」
「外を陸に知らぬあたくしを連れて、お父上の追手から何処まで逃げられましょうか」
若者は薄茶の髪を掻き毟って叫んだ。
「お前はわたしの……俺の女だ!」
「お父上もそう仰っておいでです」
これまでの全てを懸けた、一世一代の復讐劇。
演目は、想い合う男女が引き裂かれる、悲恋。
「あたくしに選ぶ権はございません」
悲劇の女主人公の様に、袖で涙を隠し。
「あたくしはただ、勝者に供されるだけ」
「……勝者……?」
「あたくしを争って父子で戦う等、胸が痛うございます。……若を想って、父君に身を」
「……百良。待て」
若者の目が、憑かれた様に赤く濁る。
勝てばいいのだな、と。
「若」
百良は喜色を満面に浮かべた。
本心だった。
その言葉を引き出したかったのだから。
「あたくしの為に戦って下さいますの?」
「お前の肌に他の男が触れる等、もう我慢ならん」
勝者が百良を得る事が出来る。
父子で決着を付け。
勝敗を決し。
唯一人生き残った勝者が、美姫を抱く事が出来るのだ、と。
百良は、暗に、囁いたのだ。
自分の願いは若者と在る事だと。
その為にはどうすべきかを。
未だに若者を支配する「父親」を倒す為に。
勝つ為には。
「……若」
父子の諍いに胸が痛むと言ったそばから、勝って自分を迎え来てくれる事を嬉しがる。
若者は完全に百良の手中に在った。
男を操る手管も、誰を客にしても恥じぬ教養も、芸事も。
全ては、この為。
「明朝には、父君からのお使者が参りましょう。それを受けてしまっては、大恩有る楼主を裏切る事は出来ません。……時は、今宵しか」
「これ以上お前を待たせる事はすまいよ」
二人は漸く、ひし、と抱き合った。
常なら名残を惜しむ若者が唐紙を蹴破る勢いで立ち去るのを、初めて百良が引き止める。
「あたくしの想いを綴った文です。お守り代わりにお持ち下さい。そして全てが終わったらお読み下さい。……若ならばきっと、あたくしの心からの願いを、ご理解下さる筈」
若者は、感極まった風に手紙を仕舞い込んだ。
「吉報を待て」
「はい。若。信じておりますわ」
――本当に、信じている。
若者を笑顔で見送った百良は、残酷な程冷静に己を振り返った。
演じ切ったと確信した。
だから、信じている。
若者が、自分が書いた筋立て通りに動いてくれると。間も無く全てが報われると。
若者には、申し訳無いとも、思うけれど。
それでも、許しは請わない。
請えない。
今でもありありと思い浮かぶ、あの時の絶望。怒りで骨まで滾った事。
それが、ここまで自分を生かした力。
迷いはもう棄てた。
在るのは、決意と覚悟だけ。
「……姐さん…………!」
お読みいただきありがとうございます。
ご感想等ありましたら是非お願いします。励みになります。★★★★★の評価も頂けるとなお一層有難いです。
全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
も、ご覧下さると嬉しいです。