狐火の章23 演者達
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
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狐火の章23 演者達
一体、紅子は何の話をしているのか。
美代が、箕松屋のあの美代が生きていたのなら、それは一連の事件の中で、唯一の喜ばしい事ではないのか。なのに、美代を匿い、護衛を付けろとは。
擬きが殺していなかった事を、失態とは。
混乱する。考えが纏まらない。
驚愕で物事の把握が儘ならなくなった武早は、矢張り驚きに顔を白くした大和が、ふらり、と幽鬼の様にその場を離れたのにも気付かなかった。
気温以外の何かが、硬直した武早の体温を下げてゆく。
一瞬、ぞくりと震えが走り、呼気が白く濁る錯覚すら覚えた時、指一本分だけ空いていた隙間に、正に細い指が掛かり。
「……閉め忘れるなんて、あざと過ぎるかとも思ったが……上手くいった様だね」
武早の他は誰も居ない廊下を見る紅子の眼差しは、何故か何処までも冷ややかだった。
「良い驚きっぷりだったよ、武早」
「あ、赤紫ちゃん、今の話……」
本当に美代は生きているのか。
半分開け放った戸に背を預け、紅子は驚愕で麻痺した武早にも解る様に、大きく頷いた。
「本当さ。美代は無事だよ。箕松屋が襲われた次の晩、ほら、ちょうどあんたがわたしを最初に尾けた時、わたしが保護していたのさ」
夜光でさえ驚いた、あれは想定外の邂逅。
尾けたぁ、と八津吉が目を剥いたが、武早も続け様の衝撃に顎を外しそうだった。
たった今、他で保護と言わなかったか。舌の根が乾かぬ内にとは、これを言うに違いない。
しかも。
「え……って事は、牡丹楼に居たのか!?」
「あんたも何度か見掛けてる筈だけどね。ほら、百良の禿に居たろ。ぎこちないのが」
「あー……え!? あぁ!? あれが美代!?」
居た。
見た。
たまーに。
紅子の部屋で百良と会う時、禿に見えない禿が居た。
素っ頓狂な大声に、八津吉の部屋に引き摺り込まれた。今度はきちんと戸が閉められる。
「あの時、誰が見てるか分からないから、美代は少し離れて付いて来てたんだよ。それをあんたが邪魔するもんだから、大変だったんだ」
雑踏を目眩しに、美代の為に態とゆっくり歩いていたのが無駄になるところだったのだ。
気の利く牡丹楼の下女に外を捜させて、目に付かぬ様に招き入れていたのである。
美代が難を逃れた時の縁者には、文で美代の安全の為だと説得し、口止めしておいた。
「遺体の判別が出来ない程の火勢の凄まじさが、美代の生存を隠したとは、皮肉な話さね」
ここで、今更ながらに武早は、はた、と気付いた。
紅子が素で話しているのだ。
「良いんだよ。八津吉は実は古い知り合いでね。と言っても、今回わたしから正体を明かすまで、全く気付かなかった大間抜けだけれど」
「ほっとけ」
「ねぇ、八津吉。流石に年の功だ。随分と演技の上手な狸になったじゃないか」
「お前に言われたくねぇ。妖怪不老不死め」
八津吉は苦虫を粉末にして淹れた茶を飲んだ様な顔だが、端から見れば丁々発止、見事な息の合い方で、武早は嫉妬しそうになった。
先日、紅子の要請を受けた武早の手引きで、八津吉は密かに牡丹楼を訪れていたのだが、会談の内容は当然の如く武早には秘され、今の今まで武早は完全な蚊帳の外だったのである。
「でも、オヤジ。知り合いなら、牡丹楼が話に出た時点で正体に気付かなかったのか?」
三年前に気付いても良さそうなものだが。
「オレがこいつと動いてたのは、お前が生まれる前の話だぞ。当時こいつは名前を幾つも使い分けてやがって、まさか全員が同一人物とは思ってなかったんだよ。牡丹楼に上がった事も無かったしな。ったく、この阿婆擦れめ」
八津吉にここまで言わせるとは。
しかも、他にもまだ色々と事情が有るようだ。
「あんたは皺くちゃになっちまったねぇ。ところで、城の兵は動かせるかい」
紅子は、八津吉に対しても気儘である。
八津吉は嘆息交じりに毒突いてから首を振った。
「物証無しで無茶言うな。それにな、擬きが落着したら、間違いなく、敬船様は首を切られる」
武早から嫉妬が吹っ飛んだ。
「は? 何で!?」
「監督不行き届きって奴さ。当然だろ。擬きに腹ん中、潜り込まれてたんだから」
「でもそれは敬船様の所為じゃ……」
「所為ではない。でも過失なのさ。紅黒のくせに忘れんじゃないよ。何故桐水には頭と長が居るのか、それぞれの役目は何なのかをさ」
「だからな、後の事を考えると、今ここで敬船様に、無理を通して頂く訳にはいかねぇんだ」
桐水長を引責辞任は別段不名誉な事ではないが、市松の内に睨まれると人生の進退に窮まりかねない。
政治的判断と言う奴だ。
「あー……。面倒臭いねぇ」
紅子は、以前の書庫の様な有様の室内を見回しながらぼやいた。
「と、なると、擬き捕縛は紫竹だけか……」
「それこそ捕り方は動くのかよ」
「敬船失脚の可能性をちらつかせれば、立江は大喜びで捕り方全員を出すだろうさ」
二人の犬猿の中は周知の事実だ。
「勿論、紅黒は出るぜ」
「誰が裏切り者かも分からないのに?」
ぐ、と詰まった八津吉だが、紅子の声の裏に潜んだものを読めたのこそ、年の功だろうか。
「……手前、裏切り者の見当付いてやがるな」
「……まあね」
紅子は、この期に及んで知己に白を切り通しはしなかったが、武早は僅かに身を硬くする。
「今回の事は全て裏切り者を引っ掛ける為に仕組んだ事なんだよな?」
「そうだよ」
「なら。お前が絶対に大丈夫だって奴を教えろ。そいつ等だけで動くからよ」
「そいつ等に裏切り者の事を伏せた上で、秘密裏に動けんのかい? 隠密行動なんてした事ないだろ」
畳み掛けられた八津吉は、今度こそ言葉に詰まる。
だが、紅子は意外にも許可を出した。
「ま、良いさ。相手は人を殺し慣れてる凶賊だ。火より怖いよ。鎖帷子でも着込むんだね」
てやんでぇ、と八津吉は嘯いた。
「で、何時仕掛ける。今夜か」
「それこそあざと過ぎるよ。裏切り者も擬き本隊に情報が流れる時間を考慮するだろうし。だからね、武早。解ってるね。他言無用だよ」
漏洩経路は一つで良いのだ。
仲間に裏切り者が居るとは今でも信じたくない事だったが、武早もここが正念場だとは理解していた。――凶行を終わらせる為の。
「……動くかな」
擬きは。裏切り者は。罠に嵌まるか。
裏切り者は誰か。賊の正体は。
確かめたい。捕らえて静かな夜を取り戻したい。
けれど、事件の決着には、大きな代償と痛みが伴う事も、既に解っている。
一体どちらを望んでいるのか、自分でも解らぬ武早の弱き呟きに、仮定だけれど、と、返った答えは力強かった。
「本人に訊いてみなければ、前にも言った通り、訊いても解らないかもしれない話だけれどね。何故擬き擬き六人が殺されたのか……答えが歪んだ矜持だとしたら、間違いなく」
擬きは動く。
この策に掛かる。
「歪んだ矜持?」
「裏切り者を潜り込ませる程用意周到で、清竹桐水を手玉に取る程頭の切れる賊が、何故敢えて危険を冒したのか。これがどうにも気になってね。それに、考えた事あるかい。裏切り者は何時から裏切り者だったんだろうね」
桐水の二人が、虚を衝かれた様に瞠目する。
その通りだ。最近欠員補充された者、秋の採用者の素姓は紅子が既に調べ上げ、不審が無い事は判明済みだ。
だが、以前からの仲間なら、何時から裏切っていたのだろうか。
「……それも、捕らえてみれば分かるか」
擬き捕縛の為に用意された大舞台。
紅子が発案し、女達が総出で編み上げた不燃の網。
穢れた炎を絡め捕るのは。
「……そうさね、明晩」
仕掛けるよ。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
――汚点。
その一言は、耳朶を打つなり男の全身を埋め尽くした。
齎したのは密やかな声であったのに、息苦しくなる程胸を掻き乱し、頭を叩き続け、震えが起こる程全身を苛んだ。
――皆殺しし損ねた。
ああ、と男は息を吐いた。
それは、誰からも認められない事だった。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
身を乗り出す様にして局の勾欄から夜空を眺めていた百良は、伝えられた刻限を噛み締める様に、明晩、と呟いた。
冷えた体を室内へ戻す。
目を落としたのは文机の上、一向に手入れされず、汚れた儘の、翡翠の腕輪。
――これは、想いの塊。
腕輪を懐に収め、文箱から百合の絵が薄く彩色された料紙を取り出すと、見事な手蹟で短い文を認めた。
誰か、と美しい声で人を呼ぶ。
「これを、あの方へ」
託された文が呼ぶのは、終焉。
胸の腕輪を押し抱く。
再び夜空を見上げ、細く白い腕を伸ばした。
悲願成就まで、夜を迎えるのは今宵と明晩。
届くか。叶うか。
整えられた爪の先に掛かる光に、目を凝らす。
もう一度、両手で胸の腕輪を押さえると、今度は巻紙に最後の仕掛けを綴り始めた――。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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