狐火の章21 疑心
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
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狐火の章21 疑心
「残念だな。少しでも疲れを取ってもらおうと、色々甘い物を仕入れて来たってのに」
紅子が寒風に耐え大川の河川敷に居る頃、武早は昼間にも拘らず牡丹楼を訪っていた。
掃除をしまくって、今日はする事が無くなり、清竹で紅子が非番と聞いて、手土産に彼方此方で買った菓子を持参したのだ。
先日、他の紅黒の様に昼間に担当地域を見回ったところ「こんな所に擬きが出るか」と言う風に長屋の女房衆に胡散臭い目で睨まれ、以来、武早の足は明るい内はそちらからは遠退いている。
大和は腐っていたが、夜だと有り難がるくせにとは考えないのが、武早の意外に人の良い面であった。
「でも、武早様。これ等は今日明日にも悪くなるものではございません。姐さんがお帰りになったらちゃんとお渡ししておきますわ」
「意地悪だな百合姫は。俺は赤紫ちゃんが美味しそうに食べているところを見たかったの」
ほほほ、と紅子の代わりに応対する百良が楽しそうに笑う。
武早は律儀と言うか忠実と言うか、小さいながらも下女の分まで菓子を用意しており、それ等を受け取った百良は手ずから茶を淹れてやったのだった。
もてなしじゃないのかと武早が目顔で問えば、これは饗応ではなくお礼ですと澄まし顔が返る。
それから暫く長賀来の芋羊羹が絶品だの、香良町の辻の屋台の塩大福は食べる価値が有るだのと甘味談義に花が咲いたが、ふと落ちた沈黙を掬う様に、百良が居住まいを正した。
「武早様。覚えておいででしょうか。先日は保留に致しました、あたくし達の願いを何でも一つ叶えて下さるお約束」
「女との約束は忘れませんて。決まった?」
内心何を言われるか不安ながらも茶化して問えば、これに何と天下の百合姫が平伏した。
「図々しい事ながら、改めてお願い申し上げます。どうか姐さんを護って下さいまし」
意外な展開に、武早も一瞬言葉を失う。
「……えーと、それは俺に、赤紫ちゃんを宜しくねって言ってるのかな」
顔を上げた百良が、艶然と笑った。
「残念ながら、武早様が期待なさる意味ではございません。有り体に申し上げますならば、擬き捕縛後も三猿を続けて頂きたいのです」
紅子に逆らわず、余計な詮索はせず、勝手な行動はせず、無償で紅子に殉じる事。
「……訳を聞かせてくれるかな」
「自惚れて申し上げる訳ではございませんが、今はまだ、あたくしと清り程には、姐さんにお仕え出来る者が育っていないのでございます」
忠義心や恩義ではなく能力の事だとは、武早にも直ぐに察しが付いた。
同時に閃く。
「その口振りからすると……もしかして百合姫、身請けの話が有るんじゃないの?」
これには百良も苦笑する。紅子が、武早をある意味危険視する訳だ。
しかしだからこそ、百良は武早を見込んだのである。
「左様でございます。ですが当分はご内密に。色々と義理や柵等が多うございますので」
綻んだ一輪の百合。しかしその笑みがあまりに澄んで見えて、武早は逆に心配になった。
「それは……望んだ話なんだよね」
「まあ。勿論でございますとも。その為にあたくしは今此処に居るのですから」
何れ自分は去る。その後必要なのは、万一の時身命を賭して紅子を護ってくれる者。
「姐さんは、誰かが見ていないと無茶ばかりなさいますの。なんでも独りで出来ておしまいになる方ですから、却って危うく心配なのですわ。手綱を握る等と烏滸がましい事は口が裂けても申せませんが、足手纏いとは別の意味で、重石になる方が必要なのですわ」
高く遠く、何処までも駆けて飛んでゆける紅子。
けれど遥か上空には、遠く遠方には、どれだけの強風が、難所が、待ち受けているのか分からないのだ。
ふと、立ち止まって後ろを気に掛けてくれたら、無事の帰還を願う者達が地上に居る事を思い出してくれたらと、百良は何時も願って已まない。
紅子には夜光が付いている。万一の事など、そうそうある訳が無いとは解っているけれど。
「――惚れた女を護ってくれと頼まれて、断る男は居ないよなー」
「……念の為に申し添えておきますが、あたくしも清りも、姐さん絡みの恋路を後押しは致しませんので、悪しからず」
「……赤紫ちゃん並に酷いね」
態とらしく子供の様な膨れっ面になった武早を、百良がまた楽しそうに笑う。
陽射しだけなら麗らかな良月の一日。しかし、この日の会談はこれでは終わらなかった。
下で紅子への言伝を預かって来た小女が、余程緊張していたのか、客を確認せず「はつ留さんの事件で紅黒の」と言い出してしまったのだ。
「は? 事件? 紅黒って何の話だよ!?」
慌てて黙らせたが時既に遅く。
菓子の礼を言いたいのだろうと、深く考えず小女を上げてしまった百良は、繊手で額を押さえ天を仰いだ。
これだから人材が育っていないと言うのだ。
しかも紅子から話を聞くまで帰らないと武早が粘る中、冷えた体で戻って来た当の紅子が、更なる巨大な爆弾を投げ込んだのである。
「「擬きに襲われた!?」」
百良と武早は、期せずして高低の和音を奏でる事になった。
譜面を押し付けた張本人は、火鉢に当たりながら平然と続ける。
「正確には、襲わせた、だけれどね。何か引っ掛かってくれるかと昼間っから派手にはつ留の事故を調べれば案の定、わたしを尾けるちんぴらが居たのさ。で、態と人気の無い河川敷の叢に入ってみれば、か弱い乙女に狼藉を」
か弱い乙女はぬけぬけと言ってのけた。
「その戯け者は」
「死なない程度に怖い思いをしてるだろうよ」
帰宅直後、武早の憤慨振りに事情を察した紅子は、紅黒の誰かを見張っていたはつ留が殺されたらしいと明かしていたのだ。
「……どうして先ず紅黒を疑ったんだ」
動揺か怒りか。武早の口調が常より荒れる。
「伊達で三年清竹に居た訳じゃないさ」
親しく交わらずとも、三年も掛ければ毎日顔を合わせる相手の為人は把握出来る。
紅子が見る限り、清竹で最も悪党なのは立江だろう。逆に言えば、精々私腹を肥やし、権力に執着する俗物でしかなく、直接人を殺す、或いは殺人に加担協力する真性の外道は居ないのだ。
「擬きから、何か有益な話を得られまして?」
「これまた正確には擬きじゃなくて、擬きが都の様子を探らせている輩の、更に下っ端の三下だったからね。擬きに直接繫がる様な情報は何も。ただね、戯け者の兄貴分に当たる男が、一度だけ妙な事を言ってたんだとさ」
その兄貴分の男もちんぴらに毛が生えた小物で、悪仲間から飲み代稼ぎに情報屋の真似事を持ち掛けられた程度。直接擬き一味と繫ぎを取った事等無く、間に何人も立った上で伝え聞いた話らしいが。
「どうやら擬きには相談役が居るそうなのさ」
「相談役? 随分偉そうだな」
「伝聞に伝聞が重なってるから、尾鰭が付きまくってる事を考慮したんだけどね、その相談役とやらは安芸月の後に加わったらしいんだ」
聞き役二人が息を呑む。
――蛮行に先祖の影を見た擬きの血筋。
「で、相談役の腕には妙な痕が有るんだとさ」
「痕? 傷か刺青でございましょうか?」
「その辺がはっきりしないんだよねぇ」
組み敷き易しと侮って襲って来た戯け者に、紅子が容赦する理由は針の先程も無かった。口を利けねば役に立たぬと、考慮したのはその一点だけで、両肩を外し臑の骨を砕き、動けなくしてやった状態で指を一本一本斬り落とすと脅したのだ。
しかも、夜光を使って胴と首に不可視の縄を、感触だけは明確に絡ませてやった。
すると所詮は小物の小物。最初の一本に短刀を押し当てただけで半泣きになり、素直にぺらぺらと喋ってくれたのだが。
「ま、折角喋ってくれても、多分左、の二の腕、ってんじゃ有益とは言えないが。ただね、相談役が加わった時、言ったんだそうだよ」
紅子は、す、と目を眇めた。
「――まるで狐火みたいだ、ってさ」
ああ、と息を洩らしたのは、果たして百良だったか、武早だったろうか。
「それからね、色々変わったらしい。戯け者の兄貴分はその変わった事を、どうだ凄ぇだろうってくらいに聞いたんだそうだ」
ただ、世間をあっと驚かせてやろうとの幼稚な考えだけで蛮行に及んだ真性の愚者の集まりを、統率の取れた賊一味に変えた知恵者。
「左、の、二の腕、ねぇ……。……!」
ぶつぶつと呟いていた武早、何時かの紅子の様に、今度は自身が大きく肩を揺らす。
その様子に、紅子は数拍置いてから、訊ねた。
「…………。何か心当たりが有るかい」
「い、や。その戯け者の話に信憑性は」
「あれが嘘なら、雑魚で納まりゃしないだろうよ。今頃布団でも被ってんじゃないのかね」
葦の迷路に進退窮まった状況で、陰がぞわりと蠢き獣の姿を纏い、鋭い牙の並ぶ口を開けて襲い掛かろうとする様を存分に見せてやったから、灯りにも闇にもさぞ怖い思いをしている事だろう。それとも激痛に悶え苦しんでいるか。
何れにせよ、戯け者から紅子の事が擬きに漏れる事は無いだろう。
あの怯え様が偽りなら、戯け者は役者を志した方が良い。
「相談役。一体何処の誰でございましょうね」
常に顔の下半分を覆面で隠したその男は、凶行には一切加わらず、策だけを提供するそうだ。
隠れ家や金品の運搬方法、情報屋との痕跡を残さぬ遣り取りの方法も、相談役の頭から生み出されたらしい――狐火を真似る事も。
二人が相談役の正体に考えを巡らせる中、留守中に小女が運んだ言伝の書付を目にした紅子は、深い嘆息と共にそれを握り潰した。
小さく小さく、呟く。
「……気の遠くなる作業、か……」
――これは、それを、はつ留が手伝ってくれたと言う事なのだろうか。
掌の中の小さな紙片。
硬く潰されたそれに反する様に、紅子の脳裏では凄まじい速さで、ある考えが組み上げられた。
犠牲者の怒りが耳元で狂い吼え、憎悪が胸の奥で燃え盛る。
――これで皆の無念を晴らせるか。
「夜光。もう一度戯け者の所へ行っとくれ」
『ほう。矢張り、後顧の憂い無き様に喰うか』
座した紅子の影の一部が、嬉しそうにうねる。
「およし。きっと恐ろしく不味いよ。後腐れ無くてもあんたが腐る。後で格別美味い闇を喰わせてやるから。訊き忘れた事が有るのさ」
するり、と髪の一房が背から流れ落ちるが如く、紅子の影が畳の縁の隙間へと滑る。
「武早。どうしても八津吉と極秘裏に話をする必要が出来た。労を執ってくれるかい」
「三猿でも、説明を要求する」
「……その内解るよ」
びり、と武早を包む空気に怒気が混じった。
「この期に及んで俺を信用出来ないって訳!? 本気でそれで俺が納得すると思ってないよな。まさか八津吉のオヤジを疑ってんのか!?」
普段の、態と巫山戯た様な態度からは想像も付かぬ剣幕に、傍らで咲き誇る百合も蒼褪める。
しかし紅子は怯まなかった。
「そうじゃない。あんたには是非とも驚いてもらう必要が有るのさ」
「は?」
目を白黒させた武早を帰した後は、清りと笑み野まで呼んで矢継ぎ早に指示を下す。
「今紅黒を張っている者は全員引き上げさせな。代わりに大至急、裏を取ってもらいたい事が有るんだ。数が多い。全員で掛かりな」
元より紅子の下知に逆らう者は牡丹楼には存在しない。
笑み野は名誉回復の好機と、清りは擬きの最期が近いと悟って、喜んで自分の筋に号令を掛けた。
最後が百良である。
「――あの娘を」
はい、と百良が手を叩けば、隠し扉の仕掛けを操って現れたのは百良の禿。
「……百良から、色々と聞いているね」
禿の装束が何処か馴染まぬその少女は、紅子の前に丁寧に手を付き、こくんと頷く。
「……願いはもう、決まったかい」
紅子が夜光に願った様に。
百良が紅子に訊かれた様に。
問われた少女の瞳は、既に心を決めていた。
「どうか家族の仇を、討って下さいませ」
――それから数日の間、牡丹楼の裏を出入りする者の数が、常より多かったと言う――。
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――夜。
行灯の灯がぼう、と滲む中、武早は、冷えた自宅で鏡に映った険しい顔の己と対峙していた。
整理整頓とは少々縁遠い室内を背景に、鏡が見せるのは諸肌を脱いだ男の姿。
細く引き締まった体躯の主は、だが、しなやかな体とは真逆の重い呟きを漏らした。
「……違うよな」
――左の二の腕。
己の左の二の腕を押さえる。
紅黒の裏切り者。
そう。紅黒ならば別段、可怪しくは。
全員では、ないが。
「……考え過ぎだよな……」
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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