狐火の章20 哀悼
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狐火の章20 哀悼
大川は蕭洛の東を北東から南南西へ流れる川で、最大で二町を超える川幅から大を冠された雄大な流れだ。昔はかなりの暴れ川だったが、都の建設からやや遅れて始まった治水事業のお蔭で、現在は氾濫の記憶を掘り起こすのさえ難しい。
南大門から最短距離の大川の畔に在る、工事に特に尽力し、己の在位中に竣工させた第四代王の記念碑を、紅子はやや皮肉な気分で見遣った。
世は既に泰平が始まり、偉大な先祖の後を受けた王が、常に先祖と引き比べてくる民と後世に誇るものは、他に無かったのだろう。
事実、当時の耀青国は安寧の正の局面の発展期で、特に学問と商業が群を抜いて興隆した。
しかし、これは王の指導力に寄らぬ、戦火を知らぬ世代の民から自然に生じた流れであった為、王は幸せの中で幸せに気付かぬ民へ、少々国威を示す必要が有ったようだ。
碑を設置したのは息子である五代目で、碑文は、治水工事で周辺の農地が安堵され、農業と畜産業に多大な恩恵を齎したと讃えている。
紅子は川の流れの通りに首をぐるりと巡らせた。
悠寧の北は外様貴族の所領州で、その更に北は北国霧洋。一年の大半を霧に閉ざされる山岳国だ。
霧洋の山々から湧き出でた清水と雪解け水が、耀青国で大川となり、支流と合流し、或いは分流して諸州を旅した後、最も豊かな流れが南の汀香国の海へと注ぐ。
汀香は、国土は狭隘ながら南に広い海を有した海洋国で、古くから南方諸島と交易し、得た文物を更に内地の国々へ転売して、巨万の富を築いた貿易国でもある。
交易船の警護が嚆矢の海軍は他の海洋国の追随を許さず、南海の覇権は汀香が握ると言っても過言でない。
汀香の南が海に対し、霧洋の更に北、人を冷徹に拒む天険の向こうは、妖の生まれる負の混沌が在ると言われるが、この伝承を聞いた時、夜光は珍しく心から愉快そうに笑ったものだ。
『わざわざ遥か北まで出向かずとも、魔なぞ人の世の何処にでも見付けられように』
人の世の何処にでも、魔は潜む。
人の心の、闇を喰らって。
『ちと違うな。我等に憑かれた者が悪鬼となるのではない。人そのものが、既に魔でもあるのだ。それは主も良く承知の事だろう』
人が人の儘で、どれ程の悪行を為せるかを。
妖に勝る程の所業を為せる事を。
嘗て紅子の神殿を襲い、百良の家族を皆殺しにし、清りを悲しませ、狐火を名乗って大勢を火の海に沈め――そして先日、はつ留を殺したのも、全て、人のした事なのだ。
年に一度、記念碑の傍で王室が治水を祈る水鎮祭を執り行う為、石碑の周囲だけは綺麗に大きさの揃った玉砂利が敷き詰められ、要所要所に瀟洒な柵が設けられているが、少し離れれば河川敷には蘆だのがぼうぼうと人の背丈程にも生い茂っている。
はつ留は目立った外傷が無かった為、事件性無しと検死されなかったが、胃の内容物くらい調べても良さそうなものを、と紅子は無念でならない。
生きて夜の川に投げ込まれたのか、死体を棄てられたのか。
はつ留は此処から足を滑らせたのではない。此処に遺体が流れ着いたのだ。
夜鷹が客を探しに此処まで来る事はあれど、足元の悪い草地に、夜中自ら足を踏み入れるものか。
だが、不届き者とはつ留の痕跡を探そうにも、紅子独りでは大川の岸は長大過ぎた。近くを夜光に探らせてはいるが……。
――誰を追って、城外に出たのか。
紅黒に城外に住居を構えている者は居ない。
今は擬きの所為で非常警戒態勢中だからだが、平時でも、城外では緊急時に間に合わぬからだ。
――それとも、遺体だけ運ばれたか。
歩哨に紅黒の出入りを問い合わせようにも、四門全てでは一日何万もの人が利用するのだ。仮に南大門だけに限定しても、最も栄える市の往来を誰が覚えているだろう。
蕭洛が都である事が、今だけは紅子は憎らしい。
闇に紛れて商家を襲い、人に紛れてはつ留を殺し。
悔しさと後悔に唇を嚙む中、主よ、と馴染みの有る声が擦り寄る様に戻って来た。
「夜光。手掛かりは有ったかい」
『主よ。それは無体と言うものだ』
矢張り、と紅子は重い息を洩らす。
はつ留の訃報を受け取ったのは一昨日の未明。時間的空白は兎も角「何か手掛かり」では漠然とし過ぎて、夜光にも仕様が無いときた。
『北の河川敷に、人の小集団が幾つか在ったが』
「ああ。浮浪者の集まり――そうか」
何かを目撃しているとは到底思えないが、はつ留が投げ込まれる水音でも聞いていてくれれば、周辺を夜光に精査させる事が出来る。
「よし。一旦戻る。酒を仕入れて出直すよ」
『酒なんぞ何に使うのだ?』
「手土産さ。小娘が手ぶらで行っても、何も話してくれないからね。紫札を振り翳そうにも非番だし、ああいう輩は権力を嫌うんだよ」
はつ留が水に呑まれたのは恐らく夜。だが、紅子は夜は身動きが取れぬ。大体、夜は城門も閉まってしまうのだ。
仕方無く非番を待って昼間に大川を訪れたのだが、案の定と言うべきか、遺体が引き上げられた石碑付近では何の手掛かりも得られなかった。非番と言っても夜警の輪番休暇とは異なる為、夕刻には陣屋に戻っていなくてはならない。
紅子は中天に至らぬ陽を軽く見上げた。門前市で酒瓶を数本見繕って取って返せば、十分間に合うだろう。
不意に首筋を通り抜けた秋風に襟元を押さえる。晴天でも風は随分と冷たくなった。
「……はつ留は、もっと冷たかったろうね」
はつ留は汀香との国境に程近い貧農の出で、幼い頃に生活苦から一家は離散。はつ留は五つ上の姉と流れて暮らしたらしいが、間も無く姉は病で客死。
天涯孤独となった少女が、どの様な経緯で夜鷹に身を落としたかは、想像に難くない。
白大路側の貧民街一歩手前の長屋町に独りで住まい、毎夜、南大門付近で客の袖を引いていたと言う。
典夜町は、はつ留には眩し過ぎたのだ。
生活は侘しく、つるむ仲間も居らず、引き取り手の無い遺体は既に無縁仏として処理されていた。紅子はせめて葬式を出してやりたかったのだが、擬きが何処で見張っているか分からず、涙を呑むしかなかった。
はつ留に紅黒見張りの声を掛けたのは、三階の局の笑み野が牡丹楼の外に持つ情報筋の一人らしい、というところまでは摑んでいたが、具体的な事はまだこれからで、牡丹楼では、続く不手際で紅子が一つ溜息を落とす度に、笑み野の周囲の気温が一度ずつ下がっていくと囁かれていた。
紅子は深追いを固く戒めたが、初めて使われたはつ留に見張りの程度までは行き届かなかったのだ。
指示の出処等の情報は与えていなかったそうだから、仮に拷問に掛けられてもそこから漏れはしないだろうが。
――酷い傷は、無かったそうだし。
それが慰めには、ならないけれど。
風は冷たくとも、それに乗る門前市の賑わいは相変わらずの熱気と活気。背に犠牲者の無念を孕んだ川風を受ける紅子には、その雑多さが眩くてならない。
典夜町の華やかさは眩いが、何処か空虚で、――確かさが無いのだ。
泡沫の褥。一夜の幻想。それ等夢を極上に変えて眩惑するのが、一流の妓女。
けれど、風よりも摑み所の無い幻を紡ぐ妓女も、人。
だから哀しい。
――百良。
頭を振った。覚悟が足りぬと自嘲する。
当人はもう、疾っくに心を決めているのに。
乱れた髪を更に掬ったのは、秋風か川風か。近付く城壁を駆け上り棹を折らんばかりに撓らせれば、旗が抗する様に大きくはためく。
旗が風を打つのか、風が旗を叩くのか、その音に呼ばれて見上げた紅子は、空の青さに目を閉じた。
秋の高い空。美しい旻天。
それは全てに平等で、死者への哀悼は残酷な程、無い。
『――主よ。仔狐が罠に掛かったぞ。否、仔狐程愛らしくはないな。良く言っても溝鼠だ』
「――逃がすんじゃないよ。捕らえな」
短く且つ冷酷に命じて、紅子は改めて旗を振り仰いだ。
脳裏に蘇る、擬きの犠牲者達。
仇は必ず討つ。だからせめて、それまで。
あの翻る州旗と国旗を。
――あれを弔旗と思っておくれ。
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