狐火の章18 裏切者は
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狐火の章18 裏切者は
賊に通じる裏切り者。
紅子は不承不承ながら、その候補から一番に除かれたのは武早だった。最終的に女で身を滅ぼしそうだが、女を裏切る事はしない男だ、と人物鑑定眼に長けた牡丹楼の女全員の見解が一致したからである。
しかし、知らぬ間に為人から死に方まで鑑定されていた当人には、内通者の存在等、青天の霹靂である。
毒殺事件の次の夜警後、話が有ると紅子から牡丹楼に招かれ(勿論大和には内緒で)喜び勇んで訪問したら実は、と、とんでもない事を聞かされたのだ。
因みに、毒殺事件があった日の大房会議の後、武早を来るなと邪険にしたのは、牡丹楼全体で裏切り者の正体について協議する必要が有ったからである。
一応念の為、と、紅子にも無断で、女達は武早の身元を調べ上げていた。
武早が紅黒に志願したのは、幼い頃、家族を火事で亡くしたからと言う珍しくもない理由からで、火の海から武早坊やを救出したのが現役時代の八津吉だった。
子供の居ない八津吉は、里子に出された武早をその後も何かと気遣い、武早もまた命の恩人を頼りにしたようだ。
頭と配下の関係になってからも、武早が「八津吉のオヤジ」と呼ぶのは周知の事実だが、そのオヤジから頻繁に諫められても改まらないのが女性関係で、性分なのか、これも一種の天稟なのか、これまで揉め事にならなかったから良い様なものの、ずらりと記された華麗なる女性遍歴には、妓楼に住まう紅子ですら呆れるものだった。
余談ながら、武早の生い立ちを知った清りは「お幸せなんて、悪い事言っちまいましたかねぇ」と悄気た。
しかし、誰がどれだけ不幸かを比べる事は愚かしい限りだが、百良と清りなら先の発言も許されると、紅子は思う。
――少なくとも、武早は、地獄を見てはいないのだから。
さて、いきなり齎された驚愕の打ち明け話には、女性に優しくが信条の武早も絶叫した。
「裏切り者って……そんな馬鹿な!」
そう言うだろうと思ったよ、と紅子は肩を竦める。
すっかり作戦司令室、或いは秘密基地の様相を雰囲気だけ呈してきた紅子の部屋には、矢張りと言うか二人の妓女も揃っている。
「無理も無いさ。わたしも、それだけは無いと信じたかったばっかりに、結局は全てを後手に回しちまったんだからね」
「いや別に皆が嘘吐きだって訳じゃ……」
「分かってるよ。落ち着きな」
今説明するから、と紅子は言葉を選ぶ。
「わたしが最も危惧していたのは、夜警の杜撰さだった。夜警そのものは良いのさ。擬きが居なくても、犯罪の抑止力にはなるんだからね。ただね、人手不足だからって、輪番で休む組の穴を外から補充せずに他の組で補うってのが愚の骨頂なんだよ。何故だか解るかい?」
「他の組に負担が掛かるから、かな」
「旦那。負担が増すとどうなりますよ」
「えーと、巡察がお座なりになる?」
「隙が生じるのですわ。休みの組の担当域も回らねばなりませんから、常の様に注意深く警戒する余裕は、心にも時間にもございませんわね。この隙は、死角に他なりません」
美女教師三人に囲まれている気分だ、等と戯けた事を考えた武早の緊張感の無い横っ面を、紅子は言葉で盛大に張った。
「この隙を衝かれたのが、丁楽だよ」
「!」
「……その驚きっぷりじゃ、丁楽は擬きにまんまと裏をかかれちまった、としか思ってなかったようだね。いいかい、丁楽を襲うのは、あの日あの時でなければならなかったんだよ」
夜警の死角に、丁楽が呑み込まれる日。
ご覧、と紅子が武早の前に広げたのは、何と夜警の配置人員と担当区域図、各班の休日の一覧表。大房に張り出されている物だ。
「……。これ持ち出し禁止の筈じゃ……」
「持ち出してない。見て覚えて書いた」
目を剥いた武早に造作も無いと言い切って、紅子は休暇日程を優雅な手付きで順に追った。
「解るね。流石に馬鹿正直に組んじゃいないが、輪番休暇はまだ一巡していないんだよ」
夜警開始は先月二十七日夜。それから丁楽までは、当日を含めて僅かに十一日。
夜警の報は「民心の慰撫」の旗印の為、蕭洛に広く知らしめたが、仮に、それを聞き付けた擬きが、予め目星を付けておいた店を回る組を張ったとしても、隙を衝く事は不可能に近い。
何故なら、輪番が一巡していない状況では、どの組が何時休み、どの組が抜けた穴を補うかを知る事は出来ないからだ。
しかし実際は隙を衝かれ、死角に潜まれた。
擬きは、どうやって死角を知ったのか。
「七日の死角は、二箇所。輪番休暇でどうしても出来てしまう穴が、二大路で最大になる日さ。……わたしが擬きなら、この日この時を狙う」
わたしでも、ではなく、わたしなら。
警邏の不備を知っている者なら。
やっと察した武早が、発しようとした異論を呑み込む様に、大きな手で口を押さえた。
露な上半分、驚愕に見開かれた青灰色の瞳に理解の色が在るのを確認して、紅子は頷く。
「当然、大店の多いこの穴は最優先で塞がれる。周辺の組が人員を融通して塞ぎ、結果」
黒大路から離れた母江町に生じた、本来は存在しない第三の穴。
知る事が出来る者は。
「姐さんは、これを憂慮しておられましたね」
百良が無念そうに呟いた。
死角が生じたらと問うた時、返事に埋もれた僅かな間。
裏切り者が居る筈無いと、決めて掛かって手を打たなかった、これは誰の失策か。
七日、母江町丁楽で、事件が起きた事の意味に、真っ先に気付いた紅子。
「……まだ、確証は無いのだけれどね」
だからこそ、紅子は己を責める。
そして、赦せないのだ。
擬きに死角の情報を流した内通者を。
「敢えて言うよ。偶然の可能性は無い?」
万一にも、擬きには幸運が重なり、丁楽には不運が纏めて襲来したとは言えないか。
無いだろう、と承知で、それでも訊かずにはいられなかった武早に、紅子は次の札を見せた。
「……それを、一昨日の毒殺が否定したのさ」
六人を外部から侵入して殺すのは、極めて困難だ。
陳情や届け等で清竹を訪れる民の為に、正面の門は昼間は常に開放され、両脇に門番が控えるだけ。
平たく言えば、これ等一般解放区は、誰でも気軽にふらっと入る事が出来る。
しかし、書庫や大牢等の奥は、一般人がおいそれと入れるものではない。
しかも、時宜が早過ぎる。
「早い?」
「馬鹿六人がとっ捕まったって報が都に流れたのは朝だろ。で、殺されたのは夕方から夜に掛けて。聞いたその日の内に外部犯が、内部構造を知らない奴が、実行に移せると思うかい」
不可能だ。――だが、内部の人間ならば。
「それにね、言ってたろ。助けに来た仲間がいきなり握り飯差し出して、それを普通に食うかい? 外部犯なら、見付からない内にと、一刻も早く脱出しようとするのが自然だろ」
だが、それが潜り込んでいる間者なら、不自然ではなくなる。
誰かに見咎められても何とでも言い逃れられるし、まさか役人がくれた握り飯が毒入りだとは、六人も思わなかったろう。
「……再編成に反対したのも、この所為か」
「そりゃそうさ。裏切り者が輪番の不備情報を流しているのを調べ辛くなっちまうからね」
「じゃ、昨日言ってた、毒殺犯の狙いの二。自分とは全く関わりが無い事を知られたくなかったってやつ。どういう意味かな」
「ああ、それは……。先ず、内部の裏切り者が六人を毒殺した。これに異論は無いね?」
「残念ながら」
動機なのさ、と紅子は言う。
「先の構図、言い換えれば、擬きが六人を殺した、だよね。じゃあ、擬きが六人を殺さなければならない理由は、何だと思うよ」
「……。見当も付かないな」
「わたしにも付かないよ」
「赤紫ちゃん!?」
武早はつんのめりそうになった。
「別に、冗談を言ってる訳じゃないよ。犯人の正確な心の機微なんて、きっととっ捕まえて取り調べてもわたし等には解らないのさ。ただね、客観的事実として在るのは、危険と承知でそれでも急いで殺さなくてはならなかった事、さ。そして誤解し易い事だけれど、擬きと擬き擬きは何ら関わりが無いんだよ」
「あ……そうか」
武早も、紅子の言わんとする事が解り掛けてきた。
紅子達は裏切り者の存在を念頭に話を進めているが、大房は外部からの侵入犯説一本なのだ。
つまり、六人と関わりの有る者が侵入の上、六人を毒殺した――その関わりの有る者も、擬きだとは考えてもいないのだ。
全く関わりが無い者が、こんな危険を冒す筈は無い、言い換えれば、こんな危険を冒してまで六人を殺す以上、毒殺犯は六人の関係者である。これが大房の考えなのだ。
けれど、この考えにもし――疑念が生じたら。
それは畢竟、外部からの侵入犯説が揺らぎ、延いては裏切り者の存在に気付かれる事になりはしないか。
「……殺さなければね、裏切り者に気付く奴はいなかったんだよ。危険は増さなかった」
現に、紅子は疑いつつも確信には至らなかったのだ。
藪蛇となっても、それでも、擬きには六人を殺さなければならない理由が有った。
その理由――動機は、何だ。
武早は漸く、深い深い息を吐いた。
「……それにしても。己を偽って敵陣に潜んでいるだけでも強心臓だってのに、その上毒殺を短時間で決意してやってのけるなんて、どれ程大胆な奴だ……あれ、どうかした?」
何故か大きく肩を揺らした紅子に、何か変な事を言ったろうかと訊ねると、紅子は少し疲れた表情で、何でもないと首を振った。
「少しぞくっときただけさ。冷えるからね」
良月も、半ばを過ぎれば朝晩は随分と冷え始める。特に夜警時は、冷え込みが厳しい。
女三人は豪奢な羽織を肩に掛け、部屋には既に火鉢と手焙りが出されていたが、部屋全体を温めるには及ばない。
武早も、思い出した様に、ぶるりと体を震わせると手焙りを引き寄せた。
「裏切り者の目星は?」
「今付けているところさ」
武早には内緒だったが、紅子は、実は紅黒全員に女を一人付け、簡単な尾行をさせていた。
もし、相手が内通者だった場合も念頭に、危険だからと深追いは禁じてあるが、それでも擬きと連絡を取るか、少しでも胡乱な輩が居れば、その者を徹底的に調べる手筈は整えてある。
「念の為。この件も、勿論口外禁止だからね」
「分かってるって。……確証は無いんだよな」
「……まだね」
武早はそうか、と呟き、拳を握り締めた。
「……。誰だろうな、一体」
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「二人とも、はつ留と言う名に聞き覚えは?」
流石に常の陽気さを一割程陰らせた武早が帰った後、紅子は袂から取り出した書付を目に、二人の美女にそう訊ねた。
書付は、先程小女が紅子に何事かを耳打ちしながら渡した物で、「あれ、姐さんに付け文なんて身の程知らずが」との清りの呟きを真に受けた武早が、何処のどいつだと騒ぐ一幕を齎していた。
夜鷹だそうだ、と付け加えられた一言に、二人は揃って首を横に振る。
「あたくし達の筋の者ではございません」
「下の局でもないと思いますけどね」
今度は紅子が、そうか、と溜息を洩らした。
ぐしゃり、と、繊手で書付を握り潰す。
「……先程、大川に遺体が上がったそうだ」
二人は驚愕に息を呑み、同時に、態々紅子が訊ねた意味を悟って臍を噬んだ。
「多分、下の局の筋の誰かが、今回の動員の為に声を掛けた夜鷹の一人だと思います」
紅黒を張る為に。
即ち、はつ留の件は事故や自殺ではない。
殺されたのだ。見張っていた相手に。
「……大至急、誰の筋か調べますわ」
では、はつ留は誰を見張っていたのだ?
それが判れば裏切り者が、続く擬きの正体が摑める。
二人は慌てて退室しようとしたが、紅子は百良だけを話が有ると引き止めた。
「……身請け話が、有るそうだね」
何を言われるのか予想していた風情の百良は、はい、と静かに頷く。
「寝首を掻いて意趣返し……にはしないか」
「申し訳ございませんが」
百合姫の澄明な声に、部屋の調度が趣を深める。――また、哀しみを纏って。
鏡台も、衣桁も、打掛けも、火鉢も。唐紙でさえ、更に鮮やかになるのだろう。
けれど、これだけは、止める訳にはいかないから。
「あたくしの、生きる意味でございますから」
そうだね、とこの上なく優しく、紅子は笑んだ。
それは、百良の大好きな笑顔。
「でもそれは、擬きの火を無事消し止めてからですわ。この手で水をぶっ掛け……失礼、掛けてやらねば、気が済みませんの」
清りが二人居る様な物言いに、紅子は更に笑う。
そうだね、ともう一度頷いて。
「頼りにしているよ。牡丹楼の一の姫」
「はい、姐さん。お任せ下さいませ」
百良は心から、深く、頭を下げた。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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