狐火の章17 間隙
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
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狐火の章17 間隙
大失態だった。
「こいつは……意外だったね」
紅子達がその報を受けたのは、常の夜警の開始地点で大和と合流し、さて出発、と歩き出した時だった。揃って目を剥いた三人に、伝令役は急ぎ陣屋に戻る様に伝えたが。
「あの……夜警はこれからでございますが」
と、控え目に紅子が申し出ると、「貧民街と紙一重のこんな場所に擬きが出るか」と居丈高に睨まれ、紅子は暗闇を良い事に盛大に顔を顰めた。
確かに商家は無いが、それでも夜警をする意味をこの伝令役は全く理解していないのだ。昨日の今日だ。民がどれ程夜を恐れている事か。紫竹と紅黒が揃って見回ってくれる事をどれ程有り難く思っているか。
気休めでも、形式でも、夜の闇に僅かな安堵を忍ばせる事が、どれ程大事であるか。
夜警はその為に行われているのだ。
それと分からぬ様に武早の袖を引く。通じた武早が、でもなぁ、と代弁した。
「民心の慰撫も大事でしょうよ」
素で不真面目な武早に反論され、伝令役が気色ばむ。紅子は、死体は逃げないよ、と心の中で付け加えた。
結局、間に入った大和の提案で、大和だけが先に陣屋に戻り、武早と紅子が二町を一周して引き上げる事になった。
そうして足早に戻った陣屋の大房。蒼白な顔でばたばたと走り回る者達を適当に捕まえて得た話を繫ぎ合わせ、やっと状況を理解した紅子が先の言葉をぽつりと呟いたのだった。
大牢は陣屋の敷地内、錬庭側に一際厚く高くした石垣に囲まれて在る。貴人や女囚人は別棟だが、窓の無い大部屋を頑丈な格子で一回り小さく囲い、更に厚い板で複数の小部屋に仕切って、罪人を長ければ数年にも亘って留置する。
今回擬き擬きが押し込められたのはその最前の小牢で、これからの取調べで頻繁に出入りするだろうとの便宜上の理由からだった。そこに何者かが侵入し、毒入りの握り飯で六人を殺害したのだ。
大牢の警備は入口に牢番二人、中に一人が常駐するが、牢破り、つまり脱走は警戒しても、まさか外部からの侵入者が清竹の本丸で殺人をやらかすとは予想外の事態で、しかも擬き擬きの捕縛で少々陣屋内は浮き足立っており、牢番の交替引継ぎも杜撰だった事は否めない。
重なった失策を何者かに見事に衝かれたのだ。
失策には不運が重なるもので、牢が入口に最も近かった為、他の囚人の誰も不審者を目撃していなかった。
「毒の種類と入手経路はまだ不明?」
定位置の末席に着いた紅子の隣で、武早が囁く。
大和は既に他の紅黒と揃って前方に着席しており、二人に気付くと軽く手を上げた。
「猫いらずだとさ。珍しくもないだろ」
死体の傍に転がっていた食べ掛けの握り飯から、それだけは判明したらしい。
「あー……。桐水にも有るもんなー」
「清竹にもね。鼠共、書庫をよーく荒らしてくれてまあ……」
書庫の責任者を自負する紅子は過去の苦闘を思い返し、恨みがましく呟く。
書物を齧る鼠の害は結構なもので、一度ならず本気で清竹で猫を飼おうかと考えた程なのだ。
「で、赤紫ちゃんはどういう事だと思う?」
「わたし達の代わりに議論してくれてるよ」
紅子が顎を刳った先、大和よりも更に前列では紫竹と紅黒が一触即発の状態にあった。
「大体可怪しいだろうよ。他に仲間が居て、自分の事が漏れるのを恐れて侵入し毒を飲ませたってのか? 握り飯渡された奴が、有り難ぇって素直に食うかよ!? 助けてくれ出してくれってのが普通の反応じゃねぇのか!」
「腹ん中で毒散撒かれたくせに偉そうに! 見張りは何をしてやがった。まさか袖の下貰って見逃したんじゃねぇだろうな!」
「んだとぉっ! だったらさく屋の現場に他の仲間が居たのを、手前んトコの白巾が見逃したって方が有り得るじゃねぇか!」
「……白巾だってさ」
「うわー。久し振りに言われたなー」
白巾とは、腕に巻いた白布が煤けず何時までも白い事を揶揄した言葉で、即ち、火に怯え火事場で役に立たぬ臆病者を指す。
紅黒への最大の侮辱の言葉である。
「ざけんな! こっちは足手纏いの青笹女をお守りしてやってるってのに!」
完全に子供の喧嘩である。
「そっちは青笹だって」
「まあ、新人みたいな雑用してるからねぇ」
無能な紫竹を新人見習いを意味する青笹と言うのは、白巾に対する紫竹への蔑称だ。
「いい加減にしねぇか!」
そこへやって来た八津吉の一喝で双方鉾を収めはしたが、皮膚一枚下で不満と不平が燻っているのが丸分かりである。
八津吉の辟易した嘆息に紅子は心底同意した。しかし同情はしない。問題児を押し付けられた怒りはそれこそまだ燻ぶっているのである。
直前のこの口論に反し、捜査会議は呆気無く終了した。死亡した六名は本格的な取調べ前だった為、問題の他の仲間の有無すら不明で、六名の家宅捜索の他には、立ち回り先を片っ端から当たって、他につるんでいた者が居ないかを調べるしかなかったからだ。
それ等の分担が発表された後、八津吉がこういう事になっちまったから、と夜警の再組分けに言及した。こういう事とは夜警を実施したにも拘らず丁楽が被害に遭った事と、協調を案じた紫竹と紅黒が逆に反目し更に関係が悪化した事を指しているのだろう。
だが紅子は不味い、と武早の臑を思い切り蹴った。
「ってぇ!」
「……何だ武早。また意見か?」
違う、と涙目で抗議し掛ける武早に、素早く書き殴った紙片を渡す。
「違……わなくてですね、えーと、俺は寧ろ今の組の儘の方が良いんじゃないかなー、と」
ほう、と八津吉が意外の息を吐いた。「女と一緒の方が良いからだろう」とざわめく周囲を威厳で制して先を促す。
「いやあ、折角担当区域に慣れてきたのに、今更新区域だとただでさえ皆疲れてるところに余計にこう、疲労困憊するんじゃないかと。今の儘で敵対心を競争心に昇華した方が能率良いし、それに、この状況で組み直すって事は、紫竹同士、紅黒同士って事ですよね。それだともしまた何かあった時、それが手柄であれ失態であれ、身内を庇っただの贔屓だのって騒ぎ出す奴が出てくるんじゃないですかね」
騒ぎ出す奴、の件で、子供の喧嘩参加者達に視線を向ける辺りが武早らしいと言えよう。
「……ご苦労さん」
武早の意見を受け再編成は一旦保留。解散が告げられた大房で恨みの籠もった目を向ける武早に、紅子はそれだけを言ってやった。
「酷くない?」
「上司の覚え目出度くなって結構じゃないか」
「…………。毒殺犯の狙いは何だろうね」
文句を言っても無駄と学習したらしい。
「一、自分の事が発覚するのを恐れて殺した」
「うん。妥当な線だよね」
「二。自分とは全く関わりが無い事を知られるのが、不味かった」
「……御免、意味が解らない」
「どちらにも共通するのは、危険と承知で、それでも急いで殺さなくてはならなかった事」
「それは……そうだね」
「……。武早、今日はうちに来ないどくれよ」
同僚達との雑談か意見交換かを終えた大和がこちらへやって来るのを見て、紅子は淑やかに「これ以上武早様のお相手は致しかねます」風に一礼した後席を立った。大和の前でこれ以上相談する訳にはいかないし、それに。
「……」
脳裏で傍若無人に暴れ回る疑念を一つ一つ確かめる様に歩いていた紅子は、箕松屋の跡地前で足を止めた。
東の空からは夜が去り、薄く薄く色付き始める寸前の眩い白光が細い線となって家屋の稜線を縁取っている。
その中で、残酷な程黒い、箕松屋の跡。
「……夜光。三。六人とは本当に全く無関係な奴がただ殺したくて犯行に及んだ可能性は」
『有り得ぬな』
「……だね」
ならば、二だとしても、少なくとも毒殺犯の方には殺す必要性が有った事になる。
殺さねばならなかった理由。
『――主よ。あれを使うか?』
「……いや。切り札にはまだ早いよ」
紅子は黒い一画の前で歌う様に列挙した。
「狐火。擬き。模倣犯。……丁楽が七日に襲われた理由。言い換えれば、丁楽が七日に襲われる条件。三番煎じと、その毒殺……」
毒殺犯には何が何でも六人を殺す必要が有った。それも早急に殺したかったのだ。
動機。それが、殺したい――衝動だったら。
殺さずには、いられなかったのだとしたら。
「……確証は、無いんだけどね……」
『だが主は、確信しているのだろう?』
「……。他に説明出来る答えが無いからね」
紅子は普遍の正義を信じていない。正義を体現しようとも思わない。どの道死刑の罪人が、どんな最期を迎えようとも構わないと考える。
だから、擬き擬き六名の死を悼む気持ちはこれっぽっちも湧かなかったが、生じた謎とそれ故に導かれた全てに筋道を付けられる答えには、自然、暗澹たる気持ちになった。
『……間違いなかろうな』
「――ああ。そうだね」
間違いない。
「あそこに」
振り返る。
今立つ道の名の由来を当分に見て、紅子は迷わずその言葉を口にした。
間違いないのだ。否応もなく。
「内通者が居るね」
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