狐火の章15 狂炎 ――熾火――
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
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狐火の章15 狂炎 ――熾火――
武早は女と揉めた事が無い。長続きはしないが、同時に複数の女と関係した事も無く、綺麗に別れた後は決して縒りを戻さず、「嘗ての女」との但し書きが付いた相手とは、適切な距離を保った友人付き合いを続ける。
良い仲になっている間はその相手を一番に据えて忠実に気遣い、終わる時も一方的な別離ではなく、相手の気持ちが少し離れた頃合を実に的確に読む為、修羅場とはとんと縁が無かった。
その武早が最近ご執心なのが、清竹の紅一点、その名も正しく紅子である。
華やかな顔立ちの美人なのに、折角の美貌をぼさぼさを装った髪で隠し、しかも容姿だけでなく一切を隠している謎の美女。
どれだけ執拗に引っ付いても気を許さず何も明かさず、都一の妓楼に住まい、妓女達に姐と慕われる摩訶不思議な人物でもある。
女性に関しては些かどころではない自信が有った武早を、歯牙にも掛けぬ氷振りは、そういう趣味の御仁をぞくぞくさせる冷徹さ。
ここまで鼻で遇らわれた事が無い武早は、一層興味と戦意を掻き立てられていた。
初めは訳有りの美人って良いなー、程度の認識だったが、ちょっかいを出せば出す程謎が深まり紅子に嵌まり、今では自力で脱け出せぬ有様。
しかも自覚したのがつい最近なのだから、我ながら間抜けさ加減には呆れてしまう。
毎晩の夜警は、本来接点が無い紅子と過ごせる貴重な機会で、睡眠時間が極端に減り、どんなに体力的に辛くとも、武早は楽しみでならなかった。不謹慎でも事実なのだから仕方無い。
勿論、夜警中は真面目に見廻る。その後、紅子を送るのが嬉しいのだ。と、言っても、一筋縄ではいかないのが紅子である。
先を行く紅子の後から、少し離れて付いていくと言う……客観的には完全に変質者、尾行以外の何物でもない状況で、何やってんだかな俺は、と思わないでもない。
大体、一緒に居られるだけで幸せとは、十代の頃の様な甘酸っぱさだ。百戦錬磨で鳴らした、自他共に認める女誑しが影も形も無い。
紅子が本命とは思わぬ周囲は、紅子に構う武早を常の事だと気に留めず、牡丹楼通いも音に聞こえた姫達目当てと思われていた。
しかし、最近は、楽しみの中にも一つ気懸かりが有った。
丁楽事件以降、それまでは武早の言動に迷惑そうな顔をしつつも、何かしらの反応を返してくれていた紅子の表情が、どんどん硬くなっているのだ。
牡丹楼の者に訊いても「何か深いお考えが有る様です」の一点張り。
何度か本人に尋ねても見事に完全無視される。しかしそれも、今までの様に「煩わしい」からではなく、何か背後に有る風なのである。
あの細く小さな体で一体何を抱え込んでいるのか。知りたいと武早は思う。
だがそれは、初めの頃の様な好奇心ではなく、出来る事なら分かち合いたいと願う――労わりの様な、もっと深くて優しい想いで……そういう事だよな、と何処か忌々しい様な悔しい様な気もしつつ、武早は最早己の負けを認めていた。
今ならば百良達に言われるまでも無く、無条件で紅子を護るだろう。出来る事をするだろう。
だから気になる。
紅子に潜む謎が。
未だに高く高く築かれた儘の壁が。
もう少し打ち解けて、百良達に見せる様な柔らかい笑顔を、自分にも向けてほしいと思う。
その硬い表情の訳を、明かしてほしいと思う。
闇に溶ける様な紅子の後姿。
しかし、まるで、髪の赤みが、瞳の紅玉が、滲む様に輪郭を光らせる。
掲げた提灯の所為だと苦笑して、だが武早は矢張り、紅子の覇気が、夜を退ける程の鮮やかさで溢れている様な気がした。
紅子は闇を照らす光。
重く苦しく、自分ではどう仕様も無い現実から女達を導く標。
けれど、苛烈なのではなく炎の様に温かいから、妓女達があれ程に慕うのだろう。
何時かその灯火が自分にも届いてくれないかと願いつつ、夜警後、大和と分かれて紅子の後を追う武早の目の前で、それは起こった。
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
「……ったく。毎晩毎晩鬱陶しいねぇ」
今宵も、少し離れて忠犬の様に付き従う男を、紅子は無慈悲に両断した。
これだけ冷淡に扱われているのだから、どうあっても紅子が自分に蹌踉めく事は無いと、いい加減悟って良さそうなものだが、事、男女の事になると、当事者は己に都合の良い幻想を見るらしい。
「自分で言うのも何だけど、これでも結構強いんだよ。能有る鷹は爪を隠すって言うだろ」
本当に、自分で言うのも何な台詞だ。
夜道は危ないからと言い募る武早に、大丈夫だからと護衛不要を何度も言い渡しても。
「紫竹が護身術とかを会得してるのは知ってるよ。問題は赤紫ちゃんが強いかどうかじゃなくて、強そうに見えない事なんだってば」
つまり、強く見えないから絡まれ易い、と。
か弱い小娘の振りをしている手前、紅子はこれには反論出来ず、結局「妙な噂が立つと面倒」との理由で、距離を取っての護衛を承諾する羽目になったのだった。
おまけにちゃっかり登楼する事も度々で、一度、紅子が湯を使っている間に部屋に上がり込んでいた時には、階段から蹴落としてやろうかと思った位である。
案内無しで四階の隠し迷路で迷わせてやろうとしても、動物的勘か雄の本能か、それともこれも女に関する記憶力か、迷いもせずに一度で突破したのだから、紅子は呆れるしかない。
しかも、通う内に女達と仲良しになり、百良と清りは紅子の言い付けを厳と守っているが、他の者から時折菓子や茶等を振舞われる事もあるのだ。
もてなすな、と葛音に抗議しても。
「冗談じゃない。お前の客じゃないなら、此処に居る限り牡丹楼の客さね。妓楼に来た男を逃がす楼主が居るものか。お前が育てた妓女で骨抜きにしてやろうじゃないか」
「オババ……。紅黒から搾り取れる金なんぞ、高が知れてるよ」
「何とでもお言い。取れるなら小銭でも掻き集めるのが守銭奴の真の道、本領発揮さね」
と、きた。
「早く誓いを破らんもんかね……」
思わずぽつりと呟くと、闇から、く、と咽喉を鳴らす様な笑声が忍び寄った。
『主とは思えぬ台詞だな』
「おや、夜光。嬉しくないのかい。そうなりゃ久し振りに人肉に在り付けるってのに」
『主は悪党とやらには容赦が無いからな。しかし裏切ったらの話だろう。あの武早とか申す男は……裏切らぬのではないかな』
「何故そう思う」
『さて……。主が言うところの、勘、かの』
踏み固められた固い地面。草履の裏が表面の砂を擦る音が、一つは微かに、もう一つは大きく、夜に吸い込まれてゆく。
盛大な虫の音は、何故か吸音の網に掛からぬ様で、密やかな会話の間を見事な調べで埋めていった。
『……主もそれは解っているのであろうよ』
紅子は無言でぷい、と横を向いた。そんな事をしても夜光には無意味であるのだが。
やれやれ、とばかりに闇から深い嘆息が届いて、余計に紅子は面白くない。――だがその時。
『――主よ』
捉えたのが奇跡の様な、幽き――悲鳴が。
『血臭が』
先を照らすのは手に有る提灯。その橙の灯火が、夜の闇に、更に濃い紅子の影を落とす。
其処から禍々しい存在が夜に向かって迸り、間髪入れず紅子も悲鳴の元へと夜を蹴った。
「夜光!」
『承知!』
その一言で全てを酌んだ妖が、先行と同時に紅子を引く。
ぐん、と風を裂く感覚の後ろに狼狽した武早の声と足音を置き去りにしたのも束の間、夜目にも赤い一対の紅玉が捉えたのは、師元町の手前、狭い民家と小さな商店がくっ付く様に軒を並べる界隈の、偶然の様にぽん、と隣近所から離れた一軒の古着屋の入口。
鎧戸を破られた其処に、数人の人影と網膜に焼き付く閃光の様に白い夜着姿で倒れ伏す女、そして――赤過ぎる松明の火。
「お前等……!」
紅子の乱入に不審者達が動きを止める。松明に手の凶刃が複数閃く。
その幾つかが、血に塗れて見えるのは気の所為か。
『主よ。血の臭いは薄い――息は有る、が』
――狐火擬きに感化された馬鹿者が。
こんな小さな店を狐火擬きは襲わない。
『――油が』
懸念されていた模倣犯。
噂に有った不穏な影。
三番煎じの、大馬鹿共。
「狐火の――擬き擬きか!」
賊の刃を物ともせず、紅子は夜に大喝した。
同時に背後で、夜空を劈く呼子の笛が高く高く鳴り響く。異変を察した武早が、大和達を呼んだのだ。
店の者が何れも軽傷ならば、紅子の役目は応援到着まで三番煎じ共を足止めする事。
後ろから武早の叫び声と足音が着き、紅子は躊躇い無く賊へ踏み出した。
だが、何と言う事であろうか。
甲高い笛の音に浮き足立った賊が、往生際悪く火を放ったのだ。
「――っかやろう!」
武早が吼える。
性質の悪い手妻の様に、凶悪な炎が一瞬で屹立する。
炎と黒煙の幕に人影が紛れ、周囲で人々の起き出す気配が増えた。
逃がす訳にはいかない。だが、消火は。
躊躇は一瞬。
――仕方無い。
「――夜光!」
それは、背き様の無い、力に溢れた下知。
ぶわり、と炎に揺れる紅子の影が膨らみ。
「……え?」
始め武早は、それを、炎の猛烈な勢いに踊る火影だと思った。
しかし、直ぐに誤りを悟る。
大きく風を孕んだ州旗の如く膨らみ、はためいた影。それが、一度、ぞわりと止まり。
「!」
巨大な影が、早くも猛火と化した炎を従える様に、不吉に明るい惨劇の場を無尽に駆け巡った。
その一端が地を離れ壁から浮き、黒煙を鮮やかに斬って更に伸びるや、逃走を図る賊を何かの触手の如く絡め取り包み込むと、一瞬で昏倒させたのだ。
どさ、と物の様に賊の体を吐き出し、紅子の影に戻った、存在。
火事場に在る武早が一瞬棒立ちになる程異様な――。
――今のは。
ぞっとした。
――今のは、何だ。
「ぼっとしてんじゃないよ武早! 消火!」
紅子の一喝で我に返るも、武早は、背筋を氷塊が滑り落ちるが如き感覚から逃れられなかった。
炎に肌を炙られながら寒気を覚えた。
駆け付けた紅黒達と無意識に体を動かしはしたが、歯の根を合せるのに苦労さえしたのだ。
「……お手柄だったな、武早」
武早が、鎮火した店の前に佇んでいる自分に漸く気付いたのは、何時の間にか消火に加わっていた八津吉にそう肩を叩かれた時だった。
「紫竹の嬢ちゃんから聞いたぞ。お前が賊に気付いて、奴等をすっ転ばしといたんだってな」
「え? いや」
「お蔭で死者も出ず、店は半焼で済んだ。賊が本命じゃねぇのが残念だが……」
「いやだからそれは」
違う、と誤解を解こうとして、武早は、八津吉の煤けた肩越しに自分を刺す、赤い眼差しに口を封じられた。
黙っていろ、と瞳が語る。
紅子に逆らわぬ事。
ああ――そういう事か。
「ご苦労だが、これから報告書を出してくれるか。クソ共を取り調べなきゃならねぇし、また会議もしなきゃならねぇ。七面倒臭ぇが」
頼んだぞ、と再度肩を叩いた八津吉が帰還を号令すると、現場検証役を残し、紅黒紫竹入り乱れてぞろぞろと引き上げてゆく。
その流れの中、激流に抗う杭の様に立ち尽くした儘、武早は矢張り動かぬ紅子を見詰め続けた。
そして今回距離を詰めたのは――紅子だった。
「……後でうちに来な。話をしてやるよ」
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
ふ、と風が揺らぐ様に、男は未明の路地に浮かび上がった。気配を殺し身を潜めていた辻の板塀に寄り掛かる。
「……クズ共が……!」
余計な事を、と吐いた毒が、未だ薄れぬ煤と灰の臭いを更に澱ませ、増した瘴気めいた黒さが夜明けを僅かに後退させる。
しかし、と、都の闇を一身に受けたが如き男は、長身の男と少女の様に小柄な女が立ち去った方へ、どろりと濁った目を向けた。
「何者だ、あの女……!」
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
も、ご覧下さると嬉しいです。




