狐火の章14 疑念
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狐火の章14 疑念
四度目の半鐘を、人はどの様な想いで聞いたのか。
紫竹と紅黒は屈辱か。
民は恐怖か。
ならば半鐘の元凶は、愉悦であったろうか。
密やかに夜光が発した警告と最も聴覚の鋭い紅子がふ、と足を止めたのはほぼ同時。紅子の動きに気付いた二人が振り返って疲れたのかと気遣うのは毎夜の事。けれど、その夜の紅黒の視線は遥か北の空に釘付けになった。
「……おい、あれ……!」
一拍遅れて、蕭洛各域の組番屋、鐘楼で次々と半鐘が騒ぎ出した。
更に数拍遅れて、弥栄町の住人が外に飛び出す。何処だ。北。風向きは。避難を。野次馬と言うには、人々はあまりに不安に染まり過ぎた。悲鳴と嗚咽すら混じるざわめきの中で、紅子は紅黒達の背を押した。
「お行き下さい。風向きと強さからして、此方まで延焼はしないでしょう。火消しが必要なのは此処ではありません。お急ぎを」
流石に武早と大和もここで躊躇う程状況判断が出来ぬ愚か者ではない。頼む、と言い置き駆け出したのは、嘗て狐火が一晩に二軒を襲った事を覚えていたからだろう。しかし、それもこの長屋町では起こり得ない。紅黒は火事場に集結し、残った紫竹夜警組の気もそちらに取られる。複数軒を狙うとしたら今が絶好の機会だろうが、流石に八津吉もそれは読んでいた。
立江に掣肘されながらも、もし四件目が起こってしまった時には、予め決めておいた自警班でその夜の寝ずの見回りの触れを出しておいたのである。
難事に在って、民の団結と連帯意識は強い。世話役の号令一喝、早速動き出した人々の合間を縫って、紅子は陣屋へ急いだ。婦人有志や篤志家に依る炊き出しの采配、怪我人の世話、避難先の手配等は州庁舎の役目だが、民が清竹に直接陳情に来る事も多いのだ。
しかし、皮肉な事に、四度目ともなると官民共に慣れたもので、延焼も無かった為、清竹に然程の混乱は起こらなかった。
そして鎮火と共に惨状が明らかになった。
現場検証と周辺への聞き込みで、死者は十五人と判明。隠居した先代夫婦と息子の当代清五夫婦、三人の子供と住み込みの奉公人八名。
住宅街でも延焼しなかったのは、丁楽の敷地には美術品を収蔵する蔵が三棟在り、その広い庭が火除け地の役目を果たしたからだった。
厄介だったのはその蔵の中身で、先日の蔵浚いで丁楽が関わった品々が根刮ぎ奪われたにも拘らず、目録の類が全て焼失してしまった事だ。
被害総額が一体幾らになるのか、清竹の担当者は連日の盗難届けに発狂寸前である。
そして三日後。更に輪を掛けた激務と夜警を終え、紅子が牡丹楼に着いたのは四更も過ぎようかと言う頃で、紅子の帰宅を知り、客を置いて来た清りにそれでも向けた笑顔には、流石に精神的疲労の色が濃くなっていた。
「ただ今、清り。でもあんただって疲れてるんだから、無理に出迎える事は無いってのに」
「とんでもない。姐さんがお戻りになったのを無視するなんて出来ますか。百良は昨日から例のぼんぼんが居続けですが、後でこっそり脱け出してくると言ってましたよ」
何処までも優先順位の可怪しい妓女達である。もう紅子は苦笑するしかない。
夜警開始以降、帰宅の遅い紅子を気遣い、心身の鎮静効果の有る甘い芳香の花茶を供するのが牡丹楼の新たな不文律で、紅子が窶れても尚赤く瑞々しい唇からゆっくりと一杯を飲み乾す様を、僅かな異変でも有れば直ぐ様医者を呼んでくれようと凝視する清りは、今宵の甘露が敬愛する人の胃の腑にじんわりと染み込んだのを確信してから、深く深く平伏した。
「申し訳ござんせん。姐さんに差し上げられるような情報は、何も」
そうか、との深い嘆息は、僅かな落胆こそ有れ非難の成分は一筋も無かったのだが、それでも清りは身の置き所が無い風情である。
「……恐ろしく、辛抱強い奴等だね」
或いは、統制が取れている、と言い換えても良い。
賊は非合法な方法で、想像も付かぬ額の大金を得たのだ。
殺戮を繰り返したのだ。
興奮し、血に酔い、破目を外し、箍が外れるのが普通だろう。
血に狂った男達を慰め正気に戻すのは酒か、女。そしてほとぼりが冷めるまで目立つ事をきつく禁じても、襤褸を出すのもこの二つの傍である。
紅子も清り達も、そんな破目を外した間抜けから狐の尻尾を摑めると思っていた。
流石に妓楼で女遊びはしないだろうが、何処ぞの酒場に少しでも胡乱な者達が現れていないか、妓楼の姫から夜鷹に至るまで、少しでも気前の良い客が現れていないかと探索の網を広げているのだが、女達が編み上げた芸術的なまでに細かい網の目に、それ等の情報が全く引っ掛からないのである。
「上首尾をこれっぽっちも祝わないんじゃ、配下が納得しませんでしょう。店に繰り出さないのなら酒を買い込んでるんじゃないかと、酒屋の客まで追ってみましたが……」
「予想はしていたけど、擬きの頭はかなりの切れ者のようだね。油断ならない」
寝込みを襲っているとは言え、一軒数十人を悲鳴を上げる暇すら与えず殺しているのだ。賊の人数もそれなりだろう。
首領は一味をどうやって纏め上げているのか。金か。分配金を弾んだか。
しかし、それも当分の間は使うなと命じている筈だ。それでは配下の不満が溜まってしまう。気晴らしに女を買うのもご法度なら。口が軽くなる酒も駄目なら。
上に立つ者が、大勢を従える方法。
褒賞――は今の理由から考え辛い。
人徳、人格。御落胤説を踏まえて、本家の血、盗賊の血統の正統性で、果たして凄惨な夜を四度も操れるか。
偶発的な一件目の後に本家の血筋が接近したのだとしたら、余程人心掌握に長けている事になる。
他に考えられる可能性は。金で釣っているのでも、心酔させ纏め上げているのでもないとしたら――。
為政者が、民を支配する方法の一つ。
抑え付け、服従させる手段は。
――恐怖。
清りが、はっと顔を上げる。そうだ。
「……破目を外した奴が居たのかもしれない」
制裁と言う名の見せしめが、あったら。
それもただの暴行では生温い。
凄惨な凶行からの脱落者を、密告者にする馬鹿は居ない。刃向かった者は、十中八九――。
「清り、安芸月の後、変死でも捜査対象にならずに処理された件を洗い出せるかい」
「勿論です。お任せを」
不審死は清竹が乗り出す。これは狐火擬きの非常態勢下でも変わらない。記録は紅子の方が調べ易い。
安芸月で殺された二十九名。逆に言えば奪ってしまった二十九の生命だ。今更ながらにその意味に、重さに、恐れ慄いた者が居ただろう。
そこに今の首領、或いはそれを操る人物が現れる。一味を纏める為に、それ等弱気になった者――正常な感性を取り戻した者に制裁を加えて殺す。死体の始末は、事件扱いされぬ浮浪者や貧民の野垂れ死に、行き倒れや水死等の事故死を装えば……。
「……否、違う……。あった……!」
通常なら明らかに殺人と疑われる遺体を、上手く処理する方法。
死体が転がっていても可怪しくない場所に紛れ込ませれば良い。
栄屋に。
紅子は思わず口許を押さえた。
この推論通りなら、更に悍しい考えが成り立つ。
大量虐殺を厭わず金の為に栄屋を襲ったのではなく、見せしめに殺した裏切り者の死体を隠す為に、大勢を殺せる栄屋を襲った――。
「姐さん、栄屋の方々の遺体は……!」
「疾っくに荼毘に付しちまったよ!」
招待客の数は兎も角、誰がどの部屋に泊まっていたかまで判る筈も無い。大体、祝言の為に臨時で雇った給仕や料理人も居たのだ。
それが遺体の身元確認を更に困難にさせ、関わりを嫌がる遺族の了解を待てずに、州政府が遺体の荼毘を許可した背景の一つでもあった。
焼死体でも可能な限り特徴や持ち物らしき品を目録にして残してあるが、そこから裏切り者の遺体を見つけ出すのは不可能だ。
「――畜生!」
やられた。
栄屋の後、あまりの死者の多さに離反者が出たら、その死体は箕松屋に棄てれば良いのだ。……否、これも逆か。死体を消し炭にまでする為に、箕松屋を襲ったのだ。
紅子は己への罵倒と共に脇息を叩いた。
何と言う間抜けだ。今頃気付くとは。
そして何と恐ろしい敵だ。無駄が無い。目的の為には文字通り手段を選んでいない。大量殺人に一切の躊躇いが無いのである程度は想定していたが、擬きを率いる人物は冷徹と言うより何かが欠けている。歪んでいる。心の在り様が人ではないのだ。
二、三件目の裏に在った擬きの意図。漸くそれに思い至った紅子の激昂の嵐を、清りは蒼白な顔で耐え忍んだ。
これは紅子が責めを負う事ではない。紅子は紫竹の務めを超えて動いているのだから。
でも、だからこそ、悔しがる。
紫竹の立場以上の事が出来るのに、凶行を防げなかった事を。
責める。
死者に詫びる。
百良ばかりではなく清りも、そんな紅子の姿が痛ましくてならない。だから、紅子の負担を少しでも軽くしたいと思い、動くのだ。
それが、牡丹楼の女。
姐さん、と沈鬱な表情の姐を呼ぶ。
「そろそろあたし等に胸の内を明かして下さりはしませんか。百良が案じてましたよ。姐さんは何かを危惧してらっしゃる様だって」
「……あんた達に隠し事は難しいね」
紅子は、体内で荒れ狂う激情を抑える様に、額に手を当てた。己の手の冷たさで頭を冷やす。
「……何故、あの日あの時、丁楽が襲われたか。それが気になっているのさ」
「そりゃあ……蔵浚いの後で、蔵にごっそりお宝が仕舞ってあったからでしょう」
「そう。でも、何故七日なのか」
え、と流石の清りも意味を摑めず怪訝な顔をする。
紅子は考えを噛み締める様に続けた。
「蔵浚いで出たお宝目当てなのは間違いない。でも、丁楽の客だけあって、どの取引相手も内証が苦しい訳じゃないんだ。切実に金に困ってる輩は、そもそも丁楽と取引しない」
補償を求め、血相を変えて担当官に詰め寄る者が居ない事で分かる。お上品なものだ。
「商品は直ぐには動かない。だったらもう少し後に襲撃しても良いじゃないか。箕松屋から少し間が空いて、配下が騒ぎ始めたんで鬱憤晴らしかい? 違うね。擬きはそんな理由で事を起こさない。そしてね、清り。わたしが擬きなら、矢張り七日に狙っただろうよ」
「姐さん?」
「輪番は、まだ一周していないんだよ、清り」
その意味を漸く悟った清りが目を剥いた。悲鳴の形に口が開き、寸前で堪える。
「……確証は無い」
これは、嫌な予感と言うにはあまりに不吉な推測で、だから紅子はあってほしくないとの希望を込めて、後回しにしていたのだけれど。
その所為で、十五人が犠牲になった。
自分の甘さが招いた、失策だ。
「……では、何処から始めればよござんすか」
腕捲りでもしそうな勢いの美女を、紅子は少し、ぼう、と見た。
紅子の為に動く事が恩返しと、労を厭わぬ女達。それを求めて牡丹楼に集めた訳でもないのに、結局は頼ってしまう無能な自分。それを見捨てぬ女達。
「……人の手で、どうにかする気かい」
夜光の様な、力に依らず。
「だって、止める気はござんせんでしょ?」
馬鹿にしないでおくんなさい、と清りは紅子相手には珍しく、少しだけ語気を強めた。
「腕に縒りをかけて、あたし等を育てて下さったんでしょう? 確かに今回は捗々しい成果はまだですけれど、でもあたし等を信じて任せて下さったんじゃないんですか。それともやっぱり姐さんお独りで、ぜーんぶ抱え込んでしまいますか。言わせていただきますけれどね、それじゃ調べ終わる前に五件目六件目が起きるか、本家の様に国外に逃げられるかでお仕舞いです。それじゃ遅いんですよ」
そう、一息に捲し立て、薄い肩で息をする。
細い首、鎖骨の浮いた胸元。しかしそれは、餓死寸前の九年前の姿とは重ならない。
「ああ。……そうだね」
本当に頼もしくなった――。
再度額に手を当てる。
目を閉じ、そして開いた時には、紅子は弱気を振り払っていた。
「先入観と例外は敵と思いな。可能性は全部潰すよ。大至急信用出来る者を集めとくれ」
「はい。お任せを」
先ずは、そうだね、と思案して。
「紅黒を。白巾を引っ剥がしておやり」
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
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