狐火の章13 百良
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狐火の章13 百良
「百良。どうしたんだい」
上得意の客にそう問われ、百良は、己がまた上の空だった事に気付いた。
見れば、客は空の杯を差し出した儘の格好である。慌てて――外からは飽く迄も優雅に酌をする。
先日、三日居続けをしたこの若者は、さる高官の跡取りで、派手に遊ぶ事はあまり無いが、登楼すれば必ず大枚を落としてくれる鴨である。
百合姫にぞっこん惚れこんで、他の妓楼には一切近寄らず、常に禿も妹芸妓も遠ざけて、二人きりでの甘い時間を所望した。
百良が何をしても気分を害さず、穏やかに笑むばかりの若者だが、その笑顔の裏に異常な程強い悋気が隠れている事を、百良は早くに見抜いていた。
何不自由無く、周囲に逆らわれた事も無く育った弊害だろう。父親の支配力が成人しても尚強く、妓楼通いの他に目立つ悪行が無いのが救いと言えば救いだが、その分、抑圧され陰に籠もった感情は恐ろしい。
気も漫ろな訳を嫉視で勘違いされるのも厄介なので、百良は正直に頭を下げた。
「申し訳ございません。一昨日狐火擬きの四件目がありましたでしょう。それで、昼間からどうも外が気になるのでございます」
本当に気になるのは百良の大切な人だけれど。激務の所為で痩せたその人は、四件目の報に、少し痩けた頰の線を更に硬くしていた。
きっとその人は、手向けた花の上で泣いただろう。
流したのは透明な雫ではなく、無能な己への罵倒と、間に合わなかった事への懺悔。
「ああ。恐ろしい事だね」
都の北西、地図上で南北の城門を貫く中軸線の、ちょうど天満町とは対称の位置に在る母江町は、高官の別宅や妾宅等が多く、それ等に出入りし、あまり大っぴらには出来ぬ古美術品の売買で富を築いたのが骨董商丁楽である。
「例年の如く、蔵浚いでかなりの古美術品が動いたらしいね。その多くが丁楽の仲介に依るもので、丁楽が預かった品も随分有ったそうだよ。賊が摘発されない限り、それ等は二度と陽の目を見る事が無いだろう。惜しい事だね」
狐火擬きが闇市に流した美術品だ。盗品と承知で買う客なのだから、己が財力と目利きを他者に自慢したがる俗物とは、一線を画する。大事に仕舞い込んで、自分だけで愉しむだろう。
「まあ、若。お詳しい。丁楽とは懇意にされていたんですの?」
「さて、どうだろう。うちに出入りの美術商は何人か居るようだが、私は芸術にはとんと興味が持てなくてね。知らない間に蔵に物が増えているのは、親父殿が色々集めているからさ。……成り上がりと言われるのが悔しくて、古美術品で自分を囲めば、自分も代々の名家の様に古くなると勘違いしているのだよ。その考え方自体が骨董物だね。下らない。どうせ愛でるなら、私は生きた芸術の方が良いよ」
辛辣な評に、父子の確執がちらりと覗く。
一重の細い目にやや酷薄な感の有る薄い唇、色素の薄い茶の髪を少々長く伸ばした瓜実顔の若者は、杯を乾すと持参した包みを差し出した。
「買ったは良いが、価値が解らず蔵に押し込めてあるんだ。それでは物が泣くだろうと、時折私が勝手に売り払っても、親父は気付きもしない。だが、これはそんな悪趣味の戦果ではないよ。この前の蔵浚いの時に埃を被っていたのを、奥から引っ張り出してきたのさ」
上品な薄紫の袱紗に包まれていたのは。
「――まあ。……綺麗ですこと」
美しい美しい、翡翠の――腕輪。
紅唇からうっとりと漏れた期待通りの嘆息に、気を良くした若者は得意気に語る。
「だろう? 随分と汚れていたので職人に手入れさせたんだが、彫りがあまりにも繊細で精緻だから、下手に弄ると壊れると、評判の名工も降参してね。何処か異国の細工らしくて、由来は定かではないのだが、お前の細い腕と白い肌には良く映えるだろうと思ったのさ」
鳳と凰。それに連理の枝と鴛鴦だろうか。
恐ろしく細かい透かし彫りの上に、周囲を金で飾った、大粒の黒と白の真珠の象嵌。
なのに、腕輪の幅は小指の頭程度しかなく、今にも折れそうな程華奢な一品だった。
惜しむらくは、彫りの間の彼方此方に、黒い何かが奥まで入り込みこびり付いている事で、針先で削ろうとすれば彫りを傷付け、刷毛で拭おうにも、汚れが膠で固めた様に離れないと思われた。
「これを、くださるんですの?」
「勿論だとも。嵌めてごらん」
灯火に透かし、憑かれた様に魅入っていた百良は、はにかみつつ今は開いた結合部に触れ、だが直ぐに頭を振った。
「若、暫くお時間を下さいまし。あたくしが自らこれを綺麗に致します。そうすれば若が傍に居ない間も寂しくはございませんもの」
「……可愛い事を言ってくれる」
客を喜ばせるのは妓女の手管。しかし自分だけは真心なのだと、男は誰もが錯覚する。
笑み崩れた若者に引き寄せられ、百良はその儘褥に横たわった。――そして、深夜。
夜具と若者の腕の間からするりと抜け出した百良は、涼やかな衣擦れの音を供に窓辺に寄ると、静かに障子戸を開けた。
途端に滑り込む秋の夜気が、室内に籠もった男女の幻想を散らし、百良の肌から若者の熱の残滓を拭う。
不意の冷気にも若者が情欲の夢から覚めぬ事を確認し、星を見上げた。
月は上弦九日月。南に面した百良の局からは、深更の星斗が、月輪の波紋の先に浮かぶ様に見える。
「……本当に、良い物を頂戴致しました……」
これは天啓――或いは、天命か。
見透かされた気がした。
大好きな紅子。気の合う仲間。――大切な大切な人達。
苦界に生きてはいるけれど今がとても幸せで、こんな生活がずっと続けば良いと思っている事を。僅かでも、寸毫、或いは寸陰でも、気持ちが揺らいだ事があると。
問われていると、思った。
嘗ての覚悟を。
そして確信した。
天が、自分の正義を認めてくれていると。
――その夜、百良は全てが冷えてしまうまで、夜空を見上げ続けていた……。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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