狐火の章11 伝説の妓女
新章に向けて、読み易いように改行等手直しをしております。
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狐火の章11 伝説の妓女
「紅白二枝と言いましてね。旦那は、昔、うちに梅を冠した妓女が居たのはご存知ですか」
「……あー……。聞いた事があるような……」
何処かの妓女が、伝説の名妓がどうのと言っていた気がするが、武早が普段遊ぶのはもっと安価な界隈で、花王街はこれまで縁の無かった世界である。記憶は心許無い。
「ちょうど狐火の本家が騒がしかった頃、嫋やかな容姿と鉄火な気性で牡丹楼を仕切った妓女がおりました。彼女は二つ名を白梅と申しまして、今は当方の楼主をしております」
「って事は紅白二枝だから……」
「ええ。三十……数年程前でしょうか、紅梅って二つ名の、白梅以上の名妓が居たんですよ」
白梅の再来、否、それ以上と謳われた妓女は、秀麗な容姿に該博な知識、白梅に勝る伝法肌な一方で、洒脱で愛嬌も有る不思議な魅力の女であったと言う。
一の姫の座を占めたのは僅か五年でありながら「芸は売っても色は売らず」を貫き通し、彼女の美貌・知識・気性の三拍子には、他州のみならず他国からも贔屓が付き、牡丹楼には連日大行列が出来た。
今の牡丹楼の格式を都一にまで引き上げた、伝説の人物である。
ある日突然引退を宣言、贔屓客一人一人に完璧な挨拶をした後、忽然と姿を消した、謎だらけの女でもある。
「本名さえ不明です。紅梅の名も始めは白梅に肖って、白梅だって所謂源氏名ですもの」
「でも素敵でしょう。牡丹に梅なんて」
梅は花の魁。冬の寒さを耐え忍び、春に一番に咲く花だ。
転じて、見世で一番の美女を花魁と呼ぶ所もある。
牡丹は百花の王。その楼に天下一の美姫が住まうのである。
始めに白梅と名付けた客は、随分と粋な御仁だった様だ。
「でも三十年前なら、楼主は知ってる筈だよね」
「そのオババが、姐さんを紅と呼びますので」
「まさか紅梅の娘じゃないよな」
時間的な可能性は有るが。
「さぁて。オババの口振りじゃ、そういう風ではない様でございますけどねぇ。それより」
清りは、ずい、と身を乗り出した。
「取引の条件増やしても構わないと仰いましたね、旦那。ねえ、百良。何にしようかねぇ」
武早の顔が引き攣ったのは言うまでもない。
「折角だから、姐さんだけじゃなく、あたし等にも忠義を誓ってもらおうか」
「それも良い考えだけれど、清り、今焦って決めなくても良いんじゃなくて? 姐さんに逆らわないのならば、あたくし達と道は同じだもの。邪魔になる事はもう無いのだから」
本人を目の前に、怖い会話が繰り広げられる。
結局、もっと良い条件を思い付くまで保留、となったが、早まった気がする武早だ。
そこへ、すらり、と心地好い音を立てて唐紙が滑り、汗と埃を流してさっぱりとした紅子が戻って来た。
湯上りの上気した頰と髪を上げた項に血が上り、匂い立つ様な色気が有る。
見惚れて、ぽー、となった武早に、しかし向けられた眼差しと言葉は、真冬の上空より冷たかった。
「何だ、まだ居たのかい」
「酷いなあ、それ」
「疾っくの昔に、この娘達に追い出されてると思ってたんでね」
その言い様に違和感を覚えた武早の表情で、紅子も自らの失言に気付いたか、盛大に顔を顰めた。
だが、片頰を引き上げ小鼻に皺を寄せた表情さえも、小さな薔薇が咲いた様で美しい。
「さっさと帰んな。厳戒態勢にある紅黒が妓楼から出勤したんじゃ、常識を疑われるだろう」
全くその通りなのだが。
「大丈夫。俺が女の家から出勤するのは何時もの事だから」
「……」
もっと直截に言わないと通じないのか、と紅子は額を押さえた。
何処まで問題児だ。
「姐さん、大丈夫ですよ。二度と姐さんの邪魔はしないと、先程お約束頂きましたから」
清りの言葉に武早は「女との約束は破んないよー」と頷いたが、生憎紅子は超が付く現実主義者だった。
じろ、と大層迫力の有る眼差しで睨むと、信用出来ない、と両断する。
「誓え。此処で見聞きした事は、誰にも……親兄弟にも、仲間にも口外しないと」
「大和にも?」
「誰にも、だ。誓うなら、手を出しな」
深く考えず差し出した武早の右手を、紅子が両手で包む。
その春笋の美しさと柔らかさにまたも武早が陶然となった間に、それは起こった。
添える様に軽く触れていただけの筈なのに、紅子が「夜光」と短く呟いた瞬間、武早の親指に激痛が走ったのだ。
「痛っっ」
反射的に手を引き抜くと、親指の腹に在ったのは危険な程赤くぷっくりとした、血の玉。
「……何した」
「呪い」
「呪い!?」
今も紅子の手に肌を刺す様な物は見当たらない。
恐る恐る訊ねたのにあっさりとんでもない事を返され、武早の声は裏返った。
「誓いを破ったら、妖があんたを喰い殺すよ」
呪いの化け物は、武早の血の味と匂いを覚えた。
破約と同時に呪いが発動し、化け物が何処までも追って、その咽喉笛を噛み切るだろう。
死の宣告の様に言われた武早は、冗談である事を切に願って牡丹楼の二枚看板を見たが、揃いも揃って右斜め上に目を逸らされてしまった。
葛音がこの場に居たなら、競争相手同士なのに何処まで仲が良いんだと嘆息しただろうが、呪われた者にとっては、その息の合い様が真実味を裏付ける様で恐ろしい。
「え、解けるよねこの呪い!?」
「さあ」
「さあ!? さあは流石に酷くない!?」
「口外しなければ済む話じゃないか。ほら、もう帰っとくれ。わたしは眠りたいんだよ」
紅子が狼狽する色男の襟首を引っ摑んで、裏口まで引き摺ってゆく。喚かれると不味い、と清りがその口を押さえて付き添った。
騒動が一過、賑やかな一時が幻の様に静謐を取り戻した室内に在るのは、牡丹楼の権勢を示す豪奢な調度の数々と、繁栄を体現する現一の姫。
牡丹楼の客は、此処に天女が居ると言う。
天にも昇る心地になれると。
一の姫の声はその天女の歌声、或いは、天女が奏でる弦楽とも称される。
美声を、鈴を転がす様、と形容する事があるが、牡丹楼の一の姫の鈴は、人の手では決して作り出せぬ、蒼天の最も澄んだ部分を薄く切り取り、精緻に、慎重に、天界の名工が心血を注いで組み合わせた様な、妙なる音でなければならなかった。
代々――紅梅の頃から。
「……聞いていましたね」
憧れ、尊敬する目標。
自らの手で願いを叶える為に、近付きたい人。
百合と絶賛されて尚、まだ足りぬ、もう少し、を繰り返す一の姫が、他に誰も居ない部屋でもその美声を惜しまず零すと、はい、と隠し扉の向こうから小さな声が返った。
それは、百合どころか茉莉花にもならぬ、紛れも無い人間の声。
「……清りは願いの殆どを、既に叶えました」
悲惨――或いは過酷な娘時代だった清りの願いは、鬼の様な両親から弟妹を救い出し、真っ当な道を歩ませ、一人でも身を立てられる様にする事。
一番上の弟は隣国の米問屋に奉公し、今では立派な手代。
五番目と六番目は男の双子で、揃って他州の官吏になった。
一番下の妹はもう直ぐ十七。三番目の妹とさる貴族の屋敷に奉公し、二人ともそこから嫁に出してもらえる事になっている。
姉弟妹八人全員が、親とは縁を切った。
今度は弟妹の帰る家が必要だと、清りはその為に労を惜しまない。
弟妹の為。それが清りの生きる目的。
「……あなたは、どうするのですか」
今度は、答えは無かった。
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さて、裏の裏口から鞠の様にぺいっ、と抛り出された武早は、朝焼けの家路を辿りながら、矢張りめげずに首を捻っていた。
「百合姫は、確か二十三歳だから、売られてから助けられるまで多めに見て……十四歳で、九年前。清りねーさんが十六で売られて……一年後位に助けられたとして、もう直ぐ二十六の筈だから、八、九年前、とすると……」
計算が弾き出したのは、非常識な結論。
「赤紫ちゃん、幾つの時から何やってんだ!?」
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
竜の花 鳳の翼
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