狐火の章9 巷説
新章に向けて、読み易いように、改行等の手直しをしております。
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狐火の章9 巷説
「あーっっ。疲れた!」
牡丹楼の自室に戻るなりそう叫んだ紅子は、何故かまた居る百良が差し出した座布団を枕に、行儀悪く突っ伏した。客を置いて局を抜け出してきたのだろうが、咎める気も起きない。
とんでもなく疲れた原因は、九割方気疲れだ。紅黒二人に合わせだらだらと歩いた(紅子主観)所為で、ふくらはぎがだるくて重くて仕方が無い以上に厄介だったのは、案の定、武早だった。
隙有らば、矢鱈と紅子の腕を摑んだり肩を抱いたりしようとしたのだ。これが毎晩続くかと思うと、紅子でもうんざりする。
しかし、足をお揉み致しましょうかとの妹分の申し出を、紅子は冗談じゃないと笑って辞退した。
「天下の百合姫に按摩させたと知れたら、今あんたの局で高鼾の御仁に殺されちまうよ」
「では、何か軽いお夜食でも用意させましょう」
「いい。食べる気も起きない」
どうせ後二刻足らずで夜が明けるのだ。
せめて白湯でも、と、百良が淹れてくれた湯飲み茶碗からは、かすかに甘い芳香が立ち上った。見れば、茶柱ならぬ桃の花弁が一片、茶碗の底に沈んでいる。花弁の糖蜜漬けを湯で戻してくれたらしい。
紅子は更に破顔した。
「……これは本当に体力勝負になるねぇ」
仄かな甘さと気遣いが、胸の奥にじんわりと広がる。空腹を思い出した胃がきゅうっ、と鳴ったのに百良が微笑したのは一瞬、姐さんがそれ程柔だとは思っておりませんけれど、と前置きした上で口にしたのは、矢張り、この無理な夜警日程への不満だった。
夜警の翌日は休みどころか、出勤を遅らせる配慮も無いのだ。
「順にお休みを頂けるとは伺っておりますが、そのお休みの間、担当区域はどうなりますの?」
「非番の組の分は、他の組が補完するのさ」
実際、紅子達が非番だった初日は、近接する他の組が二町を分担してくれた。
しかし、この逆の割振りは無い。頭数に入っていないのだ。
「ま、ざっと一回りしただけだろうけどね」
「……。素人考えで恐縮でございますけれど、それでは担当組よりも目が行き届かず、各地区に綻びの様な死角が生じましょうに、そこを狙われたら不味いのではございませんの?」
「……。不味いどころじゃないねぇ」
「大体、僅か二十六組で都を回ろうというのが無謀なのですわ」
「一応、番屋も警戒はしてるけどね」
「その番屋の通常の見回りが至らぬから、狐火擬き等と不届きな輩が現れたのではありませんか。矢張り、非常時に立江では、心許のうございます。今からでも首を挿げ替えて……」
天下の美姫が、恐ろしい事を本気で呟く。
「一応、ね。わたし等夜警組が全部潰れても、清竹桐水両組織が完全麻痺はしない様に、要の人物は、夜警からは外されてるのさ」
「……そうなんですの?」
ああ、と紅子は、昨日大房に集められた顔触れと、掲示された各組の名簿を思い返す。
「組織運営と機能を、最低限保持は出来るよ」
「……でも、それでは姐さんは捨て駒……」
「そうなるねぇ」
本当に本気で狐火擬きを捕らえたいなら、恥も外聞も構わず城へ直訴し、城の護衛兵でも借り受けて、蕭洛中に配備すれば良いのだ。
それをたった二十六組五十三名でどうにかしようと考える辺りが、立江の程度が知れる所以である。出来るだけ労を少なく手柄を大きく、と欲を掻いたのが見え見えだ。
八津吉は抵抗しただろうが、所詮無官の哀しさ。業突く張りに押し切られたのだろう。不承不承の裏で独自に動こうにも、これまた八津吉は根っからの火消し。擬き捕縛の策等、思い付くまい。
「本当は第二十六組を大路に回したかったろうが、それじゃあからさま過ぎるからね。逆に、絶対に被害に遭いそうにない貧乏人ばかりの長屋町を担当させれば、他の区域で四件目の凶行が起きてしまっても、女を使ったからだとは言われないし、民に、ほら清竹も出来る努力は全てしてますよ、と胸を張れるだろ」
まあ、と今度こそ百良は柳眉を逆立てた。
「立江如きが何と烏滸がましい真似を!」
基本的に牡丹楼の者は紅子至上主義なのだ。
「だから、短期決戦なのさ」
潰れてやる気は端から無いが、小物に手柄を立てさせるのも、思惑に乗るのも業腹だ。
紅子の端的な言葉から意図を読めぬ様では、牡丹楼では務まらない。
だが、牡丹楼一丸となって集めた情報を献上しようにも、百良の手元には捗々しい成果が上がっていなかった。
「お恥ずかしい限りですが……」
「ま、昨日の今日だからねぇ」
「数日前から噂になっている益体も無い話でしたら、無くは無いのですけれど……」
でも姐さんのお耳に入れて良いものか。
紅子が蛾眉を上げて促すと、百良は逡巡しつつも、その噂を口にした。
曰く。
「被害者と焼死体の数は合っているか――と」
謎掛けの様だが、紅子はぴんと来た。
「……内通者か――!」
引き込み役とは文字通り賊の一味で、標的の店に、大抵は奉公人として事前に入り込み、決行時に内側から鍵を外して仲間を引き入れる者の事だ。
可能ならば蔵の鍵も入手したり、邸内の金品の在り処を事細かく調べ上げたりもする。
「けど、大昔の恥の上塗りは御免被るってんで、今回は周辺への聞き込みも、かなり詳しく突っ込んだ筈だよ。三軒とも、最近不意に被害店に厄介になった行き倒れの類は居なかったし、安芸月は奉公人の身元も縁者まで完全に把握済みだ。遺体の数も、欠損が激しくても、人一人分の骨の数まで合わせたらしいよ」
奉公人として入り込む隙が無ければ、行き倒れを装うのも引き込み役の常套である。
栄屋は巻き込まれた形の縁者が多過ぎて断念、箕松屋の調べは始まったばかりだ。
「いえ、噂は擬きでなく、本家の話なのです」
「はあ?」
思わず紅子は体を起こした。
「何を今更」
「ですから、益体も無いと申し上げたのです。噂ですから、時間軸もかなり前後しておりますが……。そうしますと、昔の狐火事件は、血に酔った場当たりの凶行ではなく、用意周到な賊だった、と言う事になりましょうね?」
本当に引き込み役が居たのなら、そうなる。
「引き込み役は女、と、相場が決まっておりますわね。下働きの女中の口は大店程ございますし、すんなり入り込めて信用され易いですから」
「下男ってのも、なくはないけどね」
「でも、噂の本題はこちら、つまり、本家の引き込み役の腹に、狐火の子が居たのでは、と」
狐火の落とし胤。
「もし、本当に生まれていたら、その子は五十位。孫でもいい大人になっておりましょうね」
「その子だか孫だかが、五十一年後にまた先祖の愚行を復活させたってのかい。だったら余計に、襲名の名乗りが有っても良いだろうに」
「さて、噂は名乗れぬ事情が有るのかも、で結んでおりますわ」
「ご落胤は無いと踏んでるんだけれど……」
無責任な噂だから、徹頭徹尾通った筋は必要無い。尻切れでも困らない。だからこそ尾鰭が付き易いのだ。
膨らんで、広がって、始めとは全く異なる姿で戻って来る事もある。
「……どうして今頃そんな噂が流れたのか、には興味有るねぇ」
独白の様な呟きに、百良が一礼する。
「それと、これは、清りの筋が拾って来た話なのですけれど、狐火擬きに感化された馬鹿者が現れているそうでございます」
「二番……じゃない、三番煎じか。何処にでも馬鹿は居るねぇ」
狐火擬き擬きだ。
そういう輩は、狐火擬きが的にする様な大店は狙うまい。所詮小心者だし、今は大店こそが一番警戒が厳重だからだ。
「分かった。気を付けておくよ」
「もう直ぐ蔵浚いでございますしね」
蔵浚いとは、本来、売れ残り品を整理の為に安価で売る事だが、蕭洛で蔵浚いと言えば、蔵の大掃除を意味する。
ただでさえ慌しい年末、藪入りで奉公人達が減る前に、前倒しで片付けてしまおうとしたのが嚆矢らしいが、何時からの風習なのか、歳時記にも記録は無い。ここ数十年ではない事だけは確かだ。
何時しかそれがどんどんと早まり、今では良月の晴天に行われる、蕭洛の風物詩である。
だが、ただの大掃除で終わらぬのが金満家の行事なところで、仕舞い込まれていた着物や骨董品の虫干しと同時に、それ等蔵に眠っていたお宝が、一斉に取引される時季でもあるのだ。
今年は狐火擬きに目を付けられるのを警戒し、蔵浚いの為に用心棒を雇おうとする動きも有ると言う。
「襷掛けで叩きと太刀の二刀流の用心棒の図、か。……食い詰めた浪人ならやるかな……」
「蔵浚いに備えてではなく、既に用心の為に人を雇った大店の話は、何件か聞き及んでおります。それに三番煎じまではゆかずとも、狐火擬きの悪影響で、悶着を起こす戯け者が増えておりましょう? 大概が縁日の夜店だとかで、各町の香具師の元締が痺れを切らして、配下に狐火擬きの捜索を号令したそうです」
「……民心の慰撫がまた遠ざかったね」
これ以上都が殺伐としたら、その害を一番被るのは弱い民だ。
戦う力も身を守る術も無い、弱者。
そして、弱者程、多くが犠牲になる。
「幸い、香具師の皆さんは、義侠心に溢れた方達ばかりだからね。狐火擬きの捜索より、縁日に此見よがしに立っててもらって、戯け者の抑止力になって欲しいんだけどねぇ」
ではその様に、と、百良は事も無げに言った。
紅子も大風呂敷とは思わない。牡丹楼の最上階に局を持つ者には、可能だからだ。今宵は、頼む、とすら言わず紅子が鷹揚に頷いた時、唐紙の向こうから遠慮がちな声が掛かった。
開けてみれば、常は階下に控える少女で、滅多に上がれぬ最上階の、滅多に見られぬ紅子の部屋の前で緊張しているのか、頰を紅潮させながら、下に紅姐さんのお客がお見えです、と言う。
「下って……まさか、裏かい!?」
有り得ない。
昨夜の出来事を忘れる程頭の風通しに難は無い紅子は、武早達から逃亡した直後から、夜光に周囲を探らせていたのだ。
特に、昨夜の尾行者を警戒し、花王街に近付く前に、夜光に安全を確認済みだ。道中、矢鱈と貧民街の浮浪児を見掛けはしたが、裏口に回ったのだって、危険も異変も無いとの報告を受けてから。
そもそも、表の裏口――勝手口ではなく、庭木で目隠しされた裏の裏口は、牡丹楼の者しか知らぬ筈。
「夜光!?」
咄嗟に呼ぶも返事が無い。
凄まじーく嫌な予感がする。
その予感に急かされる様に、紅子は一階まで一気に駆け下りた。それでも足音がしなかったのは、完全に神業の領域である。
しかし、下働きの女達と談笑する人影を認めた途端、今直ぐ自分が床にめり込むか、戯けた訪問者を三つに畳んで川に抛り込むかしたくなった。
紅子を追って来た百良も、まあ、と目を瞠る。
「……やーこーうーっっ」
逃げやがったな。
今朝方、夜光が言ったのだ。
尾け返すまでもない。尾行者は『昼間、主にちょっかいを出していた男だったぞ』と。
「や、赤紫ちゃん」
其処に居たのは、そんな巫山戯た渾名で紅子を呼ぶ、唯一人の人物だったのである――。
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天に刃向かう月
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