狐火の章 序
新章に向けて、読み易いように、改行等の手直しをしております。
宜しければご覧下さい。
狐火の章 序
――その神殿には宝物が眠ると言われていた。
悲鳴が聞こえる。
地を揺るがして轟く複数の馬蹄。
怒号。
猛る火炎の音。
生きた儘何かが焼ける臭い。
剣戟。……刃が肉を断つ音。断末魔。
不穏な馬の嘶き。
止まぬ火矢の風切り音、続く柔らかいものに突き立つ音。
また悲鳴。
ああ、あの声は、きっと……一の姉上。長姫にして勇猛な方。神殿を護る女将軍。その務めを果たす為に――そして。
『そなたは逃げよ』
次の悲鳴は、母か、良く似た次姉か。入り乱れる足音は護衛兵のものか、それとも賊の。
止まぬ破壊の音。
荒らされた神域。
下衆な蛮声が、あれは宝物殿の辺り。
寄せる火の手と人血の渦から生まれた瘴気を、場違いな程清冽な風が、刹那、押し返す。
愚かな。宝に目が眩み、神殿に押し入るとは。
果敢な甲冑の音がしないのは、抵抗する者が絶えた証か。
巫女達の悲鳴も絶えたのは。
――自分以外、生命有る者は、もう。
ならば今有る音は、全てが踏み躙られる音。
その中に滴って響く音は。
斬られた己が背から、流れる血の音か。
『聖泉へ』
逃げよ、生きよと、母と姉達に背を押された。神殿の裏の緑濃い庭。その最奥の泉へと。
真の聖域へと。
かつて母は言った。何があろうとも泉を汚してはならないと。
あれは聖泉にして魔窟。この地を平らげる為に神殿を開いた始祖が調伏した、魔の眠る地。
それこそが、代々直系の巫女にだけ口伝されてきた奇跡の――真実。
けれど、今は。
賊に追い付かれたのは何処だったか。
一太刀浴びて焼かれる様な鋭い痛みに倒れ、誰かの甲高い悲鳴で僅かな生命に鞭打った。
神殿の磨き抜かれた床から庭の土を踏んだ所で早くも立つ力を失い、這って、異様に重い体を運んだ。
支える腕の力さえ抜け、草を摑んで前へ進んだ。
泉へ辿り着いてももう全てが遅いのだと、終わったのだと解っていても、他に何も出来なかった。
それが優しく厳しい母と姉達の、最期の言葉だったから。
それしか何も、無かったから。
毎朝毎夕の礼拝に用いる聖水を汲む為の聖道。
泉へ向かってやや傾斜した道の飛び石が濡れているのは、為す術無い己と運命への怨嗟の涙か、流れた生命の雫の跡か。
蛮行の余波、馬蹄と足音でか、泉の畔の岩を、まるで海の様に水が洗う。
それともそれは、泉の底で解放の喜びに震える――魔の胎動だったろうか。
冷た過ぎる岩の角を摑んで最後の力で体を前に乗り出し、更に伸ばした腕が希望の代わりに無情さを摑んで泉に落ちて。
そして。
『……――助けて欲しいか』
腕と共に意識も泉に落ち、そこへ届いた密やかな声。
命乞いを嗤う賊の声にしてはあまりにも昏く――だから、気付いた。
これが、始祖が封じた魔なのだと。
魔に――誘われているのだと。
聖水の様に冷たく、新月の夜よりも昏く、空よりも深い声だった。
底に満ちた声よりも昏い想いはきっと、己を封じた者への意趣返し、聖女を魔女に堕とす愉悦だったろう。
けれど、応えてはならぬとは、思わなかった。
だってそうだろう。
日頃より母が諭していた通りならば、何故皆は泉へ行けと言った。
今この時に。憎悪と怨嗟と絶望しか抱けぬ、昏い想いで泉を汚すしかないこの瞬間に。
生きる為に。
何を期待したのだ。
だから、応えた。
聖女の儘でも死に、魔女に堕ちても聖女としては死ぬ。どちらにしても、泉に生命を捨てるに等しいのだから、と。
真実、望んだ。
『――では、何を差し出す』
そして、矢張り魔は、代償を欲し。
何を支払っても構わなかったけれど、その時自分の手に有ったのは、生命の象徴だけで。
――では、これを。
今は、これしか、差し出せるものが。
『……。――良かろう』
声が承諾した、刹那。
傷からの夥しい出血が、大地に染み込んだ。草葉を濡らした。
助かる当ても無く硬い土と頼り無い草に縋った体は、既に鉛よりも重く、沈んだ儘の腕は水の流れに翻弄された。
濃密な血の臭いが、ひょう、と渦巻いた風に巻かれて跡形も無く散り吹かれ、燃え上がる背後の神殿と自分までの短い血の道を、賊の狂乱をなぞるが如き炎が沸かす様に炙った。
己の血が聖域を汚すのを感じた。
『――今、この時を以て汝は』
昏い昏い昏い底へ、引き摺り込まれる様な気がした。
けれど死ぬ訳にはいかなかった。
皆の無念を、この儘には出来なかった。
自分の怒りを、忘れる事も出来なかった。
苦痛も憎悪も絶望も怨嗟も瞋恚も何もかも、皆と自身の感情が合わさり混ざって、溢れ。
その中で己を衝き動かしたのはただ一語。
――生きよ。
生きて……生き延びる。
皆の想いに応える為に!
『――! 貴様は……!』
闇に押し包まれ消える寸前の意識で、強く思ったその一念。
だが覚悟を決めたその瞬間、引かれるだけだった奔流が逆転した。
昏い愉悦と期待に濡れていた魔が何故か狼狽し、獣の咆哮の如き断末魔が耳を劈き、同時に凄まじい激流が体を突き抜けた。
けれど、それは、ただ過ぎたのではなく、何かを奪い、そして注ぎ込んでいたのだ。
そうと気付いたのは――。
――是非も無い、と呟いたのは、誰だったか。
この血で汚した聖域の空気が一変し――否、変わったのは体――生命か。
新たな世界を最初に捉えたのは、両の眼。
だから、血に因って生まれ変わったのだと思った。
何を以て聖域と称したのか、聖女の称号が何を意味していたのかを、自分は魔女となって漸く、悟ったのだ。
神殿と仕える巫女達全てが死に絶えたのは、皮肉にも、堕ちた闇が終わった時。
優しかった世界は血に沈み、そして、生き残った世界は、何処までも紅い色をしていた――。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
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