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デマイズ・オブ・ワールド  作者: 雨兎
第三章 邂逅
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第六十二話 家族




「……レイヤよ。ひとつ聞いてもよいか」


「……なんだよ急に」



心地よいさざ波の音が鳴り、砂浜に吹きぬけるそよ風が前髪を靡かせる。

偽りの陽射しに目を細めながら、レイヤは隣で腰かけ海面を眺めるヘファイストスの方へ向く。


声をかけたヘファイストスは海を見つめたまま、風に白く長い髭をたなびかせながら沈黙している。怪訝に思ったレイヤはヘファイストスの顔を覗き込むが、本人はそれに見向きもせずただ呆然と海を眺め続ける一方で。



「おいじいさん、呼んどいてだんまりかよ。ボケたりしてんじゃ──ぁだっ!?」


「ボケても耄碌もしとらんわい。まったく……おぬしはわしをなんだと思っとるんじゃ」


「力加減が絶望的に下手くそなカタブツジジ──ぃだぁっ!? だから加減しろって!! これ以上やられたら馬鹿になるだろ!!」


「弱っちょろいお前さんが悪い!! わしは悪くない!!」



頭を抑えながら異議申し立てるレイヤに、負けじと言い返すヘファイストス。互いに譲ることなく、意地の張り合いが数分続いた後、会話は本題へと路線を戻す。

不貞腐れた様子で口を尖らせたレイヤを横目に、ヘファイストスはどこかぎこちない様子なのを目にし、レイヤは疑問に眉を顰めていると──



「……こっちの世界での暮らしはどうなんじゃ」



視線は合わせず、声だけをこちらに向けてヘファイストスは問う。

予想外の問いに思わず唖然としたが、レイヤはすぐに彼の思惑を悟る。



「……は、はぁ? なんだよ急に」



しかし、レイヤは問いに対する答えをはぐらかすような反応を返す。


わかっている。

彼なりに、自分を案じてくれていることを。

わかっているはずなのに。彼が相手となるといつも、なぜか素直になれない自分がいるのだ。


ヘファイストスが嫌いということではない。むしろ、彼には恩義を感じているし、感謝の念でいっぱいだ。

それなのに。理由も分からないまま、いつもこうだ。



「気まぐれに少し気になっただけじゃ。答えたくないのならこれ以上詮索はせん、忘れてくれ」



ゆっくりと腰を上げながらヘファイストスは言うと、その場で踵を返してクオンの家へ向かおうとする。


ヘファイストスの行動に、レイヤは先程の発言を深く後悔すると共に自責の念にかられる。


ああ、また俺は間違いを。

いや、間違いなんかじゃない。

俺自身の意思で、この気持ちを偽るために。

違う。違うんだ。ただ、俺は────



「……最初は不安しかなかったよ。死んだはずなのに、生きてる自分にも納得がいかなくて。残した二人が気がかりで、生きた心地もしなくて。何より、戦う選択をしたことに後悔したこともある。俺みたいな普通の人間がいざ戦場に立てるかってなんか聞かれたら、自身をもって立てるなんてとても言えない」



レイヤは俯きながらぽつぽつと語り始めると共に、ヘファイストスの足が止まる。その語り口調はまるで、この場に居て欲しいと懇願するように。そして、それを静かに受け入れることを示すようにヘファイストスは背を向けたままで。



「でも……そんな俺にも、この世界で大切な人たちができた。守りたいって思える人ができた。言葉で言い表すのは少し難しいけど、この世界での暮らしが好きなんだってことは間違いないんだと思う……ただ、それだけ」



その場でもじもじと気まずそうに視線を下げるレイヤに、ヘファイストスはその大きな背中で頷くように。沈黙の後、「そうか」と一言だけを残すと海岸沿いを一直線に歩き去っていった。



その場に漂い続けた形容しがたい感情の渦。そのいたたまれない空気がレイヤを包み、押し堪えていた思いの枷を外す。





「──じ、じいさんはおれのことをなんだと思ってんだよ!!」





もはや暴発と言っても過言では無い、勢い任せに出た自らの発言に、レイヤは言ったそばから後悔の念に押し潰されそうになる。



「……お前さんこそ急になんなんじゃ。小っ恥ずかしくないのか」


「う、うるさい!! なんでもない!! なんでもないから早く行ってくれ!!」


「まじでなんなんじゃお前……」



呼び止められて振り返れば顔を真っ赤にして吠えるレイヤに、やれやれと眉を顰めるヘファイストスは軽く溜め息をこぼして再び背を向ける。




「家族じゃよ」




去り際、ヘファイストスは何かを呟いた。


波のせせらぎに消されてもおかしくないほど、外にも響かない小さな声でヘファイストスは呟いた。


しかし、レイヤは彼の言葉を聴き逃さなかった。


言葉を噛み砕き、反芻し、理解するまでにしばし時間はかかったが、確かにレイヤの心には響いていた。


その後、去っていくヘファイストスを呼び止めることはなく。ただその背をぼんやりと眺めることしか出来なかったレイヤは、予想もしていなかった言葉を返されたことにひたすら動揺を隠せなかった。

それ以上に、レイヤの中で心が沸き立つほどに嬉しかったのだ。

唯一の家族だった姉と妹を残し、先立ってしまったことがレイヤにとって何よりの後悔であり、この天界へと行き着いてからはそれが日を増すごとに戒めとなり、レイヤの心が安らぐことはなかった。


だが、今この時──レイヤが感じたのは清々しいほどの解放感だった。あらゆる葛藤や自責もない、澄み晴れた喜びという感情だけだった。


()()()()()()()

その行いは、刻まれてしまったのだから。


()()()()()()()()()

その罪は、あまりにも業が深い。


()()()()()()()()()()()()()()

その夢は、覚めることのない永劫の──


ならせめて、いっときの安らぎを。




「……二人に、会わせてやりたかったな」






彼方の空を見上げ、思いを馳せたあの日。

虚ろで空の心が、大きく脈動したように感じた。













「なんで……じいさんが、血を出して……?」





目の前の光景に心臓の鼓動は速くなり、背中に針を刺すような緊張感と共に汗が噴き出す。


呼吸がおぼつかない上に、視界がさだまらない。

否、レイヤの全ての感覚がそれ(・)を否定しようとしている。


血の海に身を沈ませた彼の姿を、焼けた大地と血腥さが混じった匂いを。そして、倒れたヘファイストスの横に立った男が放った言葉を。



「お前たちが私のもとへやってきたということは、彼女はどうやら失敗したようだな」


「てめぇ、よくもジジイを……」


「戦神アレス、女神アフロディーテ。この老人のような末路を辿りたくなくば、大人しくその娘を私へ引き渡してもらおう」


「あなたのやっていることは、神々が行っていい所業ではありません。それに、おじい様にこんなひどいことを……あなたがたとえゼウス様であったとしても、私はあなたを許すことはできません」



ひどく冷めきった赤い瞳で、獲物を睨む蛇のような目つきで要求をかける⬛︎⬛︎⬛︎に、アレスは鬼気を込めた怒りの視線を向け、アフロディーテは蒼の瞳を涙で潤ませながらに言葉を返していた。



「……くだらん。オリュンポスの神々はここまで落ちぶれていたとは、もはやお前たちも救いようがない」



くだらないと吐き捨て、⬛︎⬛︎⬛︎は手に持った神剣を握り締める。それに呼応するかのように一帯の空気が震え、電撃がほとばしる。

冷徹の紅き瞳がアレスとアフロディーテを捉え、両者に重圧と緊張感を与える。対して、アレスはアフロディーテたちを背に庇い赤槍を構える。


そして、戦慄きに口を開けたまま愕然とするレイヤの腕の中。

今まさに鋭い殺意をこちらに向ける彼と同じ白髪の少女は目に涙を浮かべながら、ただその目の前の光景を眺めることしか出来なかった。



本当の親のように慕っていた、自分を我が娘のように可愛がってくれた、たったひとりの家族が。あまりにも無惨な姿に成り果てているのだ。

その惨状には言葉も出ず、息が詰まるばかりで。ただ見ているだけで、胸が張り裂けんばかりに辛く悲しかった。


平穏で幸せにありふれた日常を過ごしたかっただけなのに。なにも、贅沢なんて言わない。ただそれだけでよかったのに。



いったい何が、この惨劇を生み出してしまったのか────





「あいつらを頼む」





二振りの神槍を握り締め、最初に仕掛けたのはアレスだった。振り向くこともなく、ただ一言だけを添えて戦車から飛び出すと、一直線に⬛︎⬛︎⬛︎へ突っ込んでいくアレス。



「愚か」



豪速の刺突を難なく躱すと、次に繰り出された斬撃も容易く受け止める⬛︎⬛︎⬛︎。



「おいてめぇ、なんでこんな真似しやがる。クオンを連れてどうするつもりだ」


「邪魔をするな。これから死にゆくお前に話すことはないのだからな」



激しい鍔迫り合いの後、両者が大きく後退する。しかし、⬛︎⬛︎⬛︎はアレスの着地の隙に狙いをさだめて地面を踏みしめると、雷光のごとく跳躍すると共に神剣を握る。互いを隔てていた距離は一瞬にして無くなり、⬛︎⬛︎⬛︎の間合いへと変化する。魔力を帯びた刃が稲妻を帯び、アレスの胴体めがけて一閃が放たれる。

だが、刹那のような出来事にアレスは一切の動じた様子を見せることもなく、洗練された槍捌きで攻撃を受け流す。光速の一閃が軌道を外れると共に、遅れて落雷のような凄まじい轟音が周囲に響きわたる。

全身が痺れるほどの余波が駆け抜け、剣撃の凄まじさにこの場の全員が息を呑む。さらにレイヤたちへ追い討ちをかけるかのように、弾かれた一閃の斬撃が崩れた空間を切り裂き、大きな亀裂を作り出したのだ。

これにより崩壊は速度を増し、残された猶予も僅かとなってしまったのだ。



「ど、どうしよう。このままじゃ……」



一方で、ヘファイストスに治癒魔術を行使していたアフロディーテは、上空に広がった亀裂の空を青ざめた表情で見上げていた。

由々しき事態へと陥ったこの状況下において、この場の全員が無事に生還できる方法を見出さなければならないのだ。現にアレスと⬛︎⬛︎⬛︎による戦闘は苛烈を極めており、戦闘から途中離脱できるほどの余裕を与えてくれるとも思えない。



「あ──」



ここで、アフロディーテの脳内に浮かんだのはアレスの去り際に呟いた言葉だった。



『あいつらを頼む』



アレスは確かにそう言い残し、戦車を飛び出していった。

この言葉がどんな意味をもっていたのか、アフロディーテの脳裏に最悪の未来が答えとなって映し出される。



「そんなのだめだよ。なにも、解決してないじゃん。アッくん、アッくん……!」



想い人の背を眺めながら、潤んだ蒼い瞳から涙がこぼれ落ちる。


──いつも、私は彼に守られてばかりで。

あの人の役に立てたことなんて、あったのかな。


赤槍を振るうアレスの姿を見て、アフロディーテは心の中で自分自身に問いかける。


今の自分に、あの戦いへ割って入るほどの度胸もなければ、共に戦える力もない。

それでも、彼の力になりたい。傍で彼を支えてあげたい。自分だけ守られて、彼に先立たれるなんて耐えられない。



「……私だって、アッくんを守りたい!」



今ここで踏み出さなければ、絶対に後悔する。自らを奮い立たせ、手足に力を込める。すぐに恐怖で挫けそうになるも、手を握り締めることで紛らわす。目を瞑り深く息を吸い、覚悟を胸に再び目を開ける。


アフロディーテが宙に手をかざすと共に、魔力の片鱗が薄紅色の花弁となり周囲を舞う。

散った花びらが手元へと集まっていき、みるみるとかたちを形成し、それは神器となってこの世に顕現する。


神弓カリス──輝かしき美と優雅の名を冠した神器を手に、アフロディーテがアレスのもとへと────





「──アフロディーテさん、クオンを頼みます」





通り過ぎる間際、()()()()()()を告げて。



「────え?」



この時、アフロディーテは言葉を返すこともできずに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

すれ違った僅かな間に垣間見たもの。それを見たアフロディーテはかける言葉はおろか、背筋が凍るような怖気を感じた。





刃を交え、死力を尽くして戦うアレスたちのもとへと歩みを進める。戦闘の余波が衝撃となって妨げようとも、足が止まることはない。



初めての感覚だった。


内から沸き立つような、抑えることのできない衝動。制御しようがないほどの激情が、思考を全て遮る。


激昂し、怒りに支配された脳内はひどく冷静に、冷徹に。激怒に震える思考を鎮静する。


恐怖はない──今の彼にあるのは、たったひとつ。





「はぁっ、はぁっ……お願い、誰か……!」



そこに、唖然と立ち尽くすアフロディーテの足元に、満身創痍の体を引き摺りながら縋るのはクオン。声を絞り吐き出すように、涙ながらに必死の形相で訴えかけるクオンに、アフロディーテは仰天の声をあげる。


「クオンちゃん!? そんな体で無理なんてだめだよ!!」


「私のことなんて、いいか、ら……レイヤを、レイヤを止めて、ください……!」



溢れる涙で視界が不鮮明になりながらも、クオンの紫の瞳は彼の背だけは捉えていた。


その先を進み続ければ、彼の身に危険が訪れるのは目下の事実だ。それをわかっていて危機に晒すなど到底我慢ならない。

しかし、今のクオンに彼を引き止める力は無い。それどころか、呼び止める声を出すことさえままならない。






突き進む彼の瞳に、一切の光もない。

暗黒に映るのは、たった一人の標的のみ。


初めて覚えた、全てを呑むほどの感情。

どす黒く、激情の坩堝へと身を投げ、支配に染まる。


「お前は死ぬべきだ」


止まらない、止まることのできない衝動が、彼を突き動かしている。


「お前がいる限り、不幸な人が増えるだけだ。誰もお前を望んじゃいない。この世界にお前はいらない」


激しい憎悪と怒りが、言葉となって溢れ出る。まるで自分自身にすら言い聞かせるようにも聴こえるそれは、決して誰がためにではない。


「傷つけて、命を奪うことになにも思わないのか。なにも感じないのか。お前の行いのどこに正しさがあるんだ。命を弄ぶようなお前が、生きていい理由がどこにある」


全てを否定したかった。否定しなければ気が済まなかった。くれてやる慈悲の欠けらも無い、凄惨な死による贖いだけが望みだった。





「────お前は殺されるべきだ」





夜宵 怜夜に無かったもの──それは、殺意。


武器を手に取り、戦場へ立つことを選択したレイヤにとって戦いとは、誰かを守るためにあるものだった。戦場での命のやり取りに、生半可な覚悟では生き残れない。承知の上とはいえ、内の何処かに捨てきれない情があった。


────だがもう、それは過去と成り果てた。


レイヤに芽生えた、恐ろしく純粋な殺意。黒く、何色にも侵されず、全てを呑み干すほどの殺意。


⬛︎⬛︎⬛︎への明確な殺意だけが、今のレイヤをかたどっているのだ。





「……黙って聞いていれば。貴様、なんのつもりだ?」




激戦を繰り広げていたアレスをたちまち一閃にて振り払うと、⬛︎⬛︎⬛︎は怒りの頭角を顕にし、低い声で唸るようにレイヤを問い詰める。



「────ってめぇ、なに考えてやがんだ! あァ!? 巻き込まれてぶっ殺されてぇのか!?」



振り払われた反動で大きく後退りするも、神槍を地面に突き刺して留まったアレスがレイヤに向かって吠える。だが、返答はないどころか聞く耳を持たないと言わんばかりにレイヤは歩みを止めない。



「無視してんじゃ──」



レイヤの態度へのイラつきに目付きを尖らせ、噛み付くようにレイヤに突っかかろうとしたアレスだったが、レイヤの表情を見たと同時に言葉が堰き止められる。



「あいつは俺が殺ります、殺らせてください」



時に人間とは──神々を凌駕する。


地球ほしが生まれ、神々の手によって生命が芽吹き、人を中心に文明と歴史は築かれた。敷かれた歴史の帯に記された多くの人間が存在する中、神々すら成すことができなかった偉業を遂げた人物は実在した。


レイヤの声音にのせられた殺気は、とても人のものとは思えない尋常ならざるものだったのだ。復讐に身を焦がすレイヤは今、神々が気圧され怖気を覚えるほどの殺気を纏っていたのだ。



「随分と傲ったものだな。もっとも、醜悪で愚かな人間には相応しい末路だ」



レイヤと正面から相対した⬛︎⬛︎⬛︎は、吐き捨てるように罵倒し宙へと浮遊する。手に持つ神剣を高く掲げ、レイヤたちを見下ろすと⬛︎⬛︎⬛︎は忌々しげに不服を孕んだ表情を浮かべる。



「貴様の不遜が招いたことだ、もはや貴様には後悔すら与えん。この空間ともども塵芥となるがいい」



掲げた剣の鋒から魔力の渦が発生し、割れた空模様を書き換えるように暗雲が広がっていく。赤き閃光が空を翔るように走り、怒号の雷鳴を轟かせる。それが合図だとでもいうように、空間がみるみると崩れ、生み出された魔力の大渦へと呑み込まれていく。



「……クソが」



空間の崩壊を見上げながら、アレスは食いしばるように呟く。手の打ちようがないと言わんばかりの力ない表情に、この場の全員が絶望する他なかった。


崩壊する世界を前に、全身の戦慄きが止まらない。生死の淵へと落ちた経験があるからこそ、この瞬間がまさに終わりへと近づいていると理解できた。浮き立った感情の波は静寂と化し、冷静さを取り戻した思考がひとつの結論へと到達する。



「……俺が時間を稼ぎます。その間に皆はここから逃げてください」



勝機があるなんて甚だしいほどの算段しかない。それでも、何もせずに終わるよりかは幾分かはマシだと思った。今の状況を引き起こしたのも、自分の落ち度であることは重々承知の上でのレイヤの決断だった。



「……相手はあの最高神だ。ひとりの人間の力でどうにかなる話じゃないのはお前もわかってんだろ。無駄死にするような真似はよせ」


「でも、でも……俺がやらなきゃ──」



この危機的状況下においても、冷静さを欠くことなく的を射たアレスの言葉に、レイヤは動揺した弾みで言い淀みながらも意志を曲げない主張をみせた────そんな時だった。





「だったらここは、わしの出番じゃな」





背後から親しみ慣れた、待ち焦がれた渋い声がかかる。


一瞬豆鉄砲でも食らったかのように固まったが、考えるよりも先にレイヤは振り返る。


全身くまなく傷が蔓延り、赤で汚れたその姿は機能不全に陥っていてもおかしくない有様だった。血が滴り、胸に刻まれた斬撃の痕がなんとも痛々しく、血溜まりに身を沈めていた光景と重なる。





「……じいさん」





だが、それらをもろともせずにと言わんばかりに巨体を起こし、そこに漢は立ち上がっていたのだった。



「お前さんにはちと荷が重すぎる役割じゃろうて。こういうのは後腐れなく死ねるわしの方が適任なんじゃよ」


「……は? 起き上がって早々、なに言ってんだよ……? 死ぬって、なんなんだよ……」


「そ、そうよ。おじいちゃん、縁起でもないこと言わないでよ……」



だが、感傷に浸る間もなく。ヘファイストスからの発言にレイヤとクオンの二人は動揺を隠しきれない。心臓の鼓動が早まり、どっと汗がにじみ出るような感覚が走る。対してアレスとアフロディーテ、二人の神は全てを悟ったかのような苦渋の表情を浮かべていた。



「いいのかよジジイ。まだ間に合うかもしれねぇぞ」


()()()()()()()()()()()、自分の終り際くらいわかっとるわい」


「……そうかよ」



一瞬だけ眉を顰めるように見えたが、アレスはそのまま戦車の方へ振り返る。



「かえる場所、間違えるんじゃねえぞ」



去り際──アレスは顔を見せることなく背中で語りかけると、戦車へと歩いていった。



「──もう、行ってしまうのですね」



素っ気ないようにアレスが立ち去った後、入れ替わるようにヘファイストスのもとへ、その蒼い瞳を潤ませながら歩み寄るのはアフロディーテだった。彼女の感情が表れたかのように瞳が揺れて、それでも眼差しだけは真っ直ぐに。泣くことを必死で我慢するあまり、強張った顔を見せるアフロディーテに、ヘファイストスは思わず表情が綻ぶ。



「ありがとう、アフロディーテ。これまでお前さんの優しさに、どれだけわしが救われたことか。こんな別れ方になってしまって申し訳が立たないが……どうかこれからも、皆と仲良くしとくれ」



分厚く顔を覆いかぶさってしまいそうなほどの手で、アフロディーテの頭を優しく撫でる。そんなヘファイストスの手を、対称的な白くか細い小さな手で──彼女は静かに涙を流しながらそっと触れる。



「うん──また会おうね、おじい様」



涙に声を震わせ、女神は天上の笑みを贈ると共にその場を去っていった。踵を返す間際、アフロディーテの鼠色の長髪が揺れるのと同時、ふわりと甘美な香りを残していった。

漂う残り香がやり切れない複雑な感情と寂寥の念を包み込んでくれるような気がして。しかしそのおかげで──ようやく愛しい娘のもとへと目線を送ることができた。





「クオン────」





大粒の涙が白い頬を伝い、ぽろぽろと雫が流れ落ちる。まるで小さな子供が不安や寂しさを訴えるかのように啜り泣く少女──クオンは、懇願するような眼差しで見つめていた。



「いかないでよ。私を置いて、いかないでよ、おじいちゃん。私……私……おじいちゃんがいなくなったら、どうすればいいか、わかんないよ……」



立つことさえままならない体をレイヤに支えられながら、うわ言のように言葉を垂れ流したままでふらふらとヘファイストスのもとへ近づく。

重症を負い、傷つき衰弱した体で必死に縋るように歩み寄るクオンを、ヘファイストスはたまらず駆け寄ると、倍もある大きな体で包み込むようにクオンを抱き寄せる。

そして、決して流すまいと必死に堪えていた熱いものが、漢の頬に起動を描きながら溢れ出る。



「すまん……本当にすまんかったのぉ。苦労ばかりかけて、ろくに外の世界も見せることもできずに、あまつさえ隠し事までして、なにも……なにも……クオンにはしてやれなかったわしを……どうか……許しとくれ……」



後悔と無念に心と体を打ち震わせ、ヘファイストスは涙ながらにクオンへ懺悔の言葉を並べる。そんな彼の見たこともなかった弱い一面を見るやいなや、ヘファイストスの腕の中に収まったまま、クオンは微笑みを浮かべながら首を横に振る。



「そんなことないよ、おじいちゃん。ずっと私を大事にしてくれて、見守ってくれて、そばにいてくれて、愛してくれた。それだけで、私は十分すぎるくらい幸せだったよ」



これまでたくさんの愛情を注いでくれた、愛する家族との思い出を振り返りながら、クオンはヘファイストスを労るように優しく語りかける。


「それに、謝らなきゃいけないのは私の方だよ。おじいちゃんには貰ってばっかりで、なにも恩返しできなくてごめんね。だから……私はこれからもずっとおじいちゃんと一緒にいたいよ」



そんなクオンの言葉が、心に染み渡るようにヘファイストスの胸に響く。そして、脳内で鮮明に映し出されるのは──クオンとの日々の思い出だった。


クロノスから託された小さな命。自らの命を引き換えにしようと、必ず守ると誓ったあの日から今この時まで。

ただひたすらにクオンのことだけを一心に、自らの尽くせる限りを全力で彼女に注いできた。降りかかる災いからクオンを守るために、自らの力を奮ってきた。


それでも、やり切れない気持ちと葛藤に苛まれる日々だった。


彼女を取り巻く運命から逃れるためについた嘘が、こんなにも辛いことだとは知らなかったのだ。彼女の幸せが偽りに満ちたものになってしまうことがあまりにも怖くて。彼女の笑顔を守るにはそれしかなくて。咎め、憎んだところでほんの慰めにしかならず、更なる罪の意識を加速させるだけだった。


しかし、それはとんだ杞憂だった。


ヘファイストスに対して、クオンはたくさんの愛情を一心に受け止め、感謝の気持ちでいっぱいだった。それどころか、恩返しできていないことを負い目にまで感じていたのだ。


クオンの優しさと家族の温もりに触れ、いまや己を戒めていた咎めの鎖はない。これで、ようやく前に進むことができるのだ。



「おじいちゃん……?」



抱かれていた腕が解かれ、離れるヘファイストスをその場で座り込むクオンが顔を除くように見上げる。


彼の視線の先、⬛︎⬛︎⬛︎が作り出した膨大な魔力の大渦をただ見据えていた。その横顔は凛々しく、決意と覚悟がみなぎっている反面──儚く切ない表情に写って見えた。


「……のぉ、レイヤ。今のこの状況で、もうすぐ目の前に死が直面しておるって時に、普通は恐怖や不安でいっぱいなんじゃろうが……今のわしにはそれがまったくないんじゃよ。なぜだかわかるか?」


いよいよ終わりが刻一刻と迫る中、不意にヘファイストスはレイヤへ問いかける。

唐突な問いかけにレイヤは沈黙で返すと、ヘファイストスは清々しいほどの微笑みを浮かべながら答える。


「かけがえのない仲間たちがおって、家族にも恵まれて……わしは今、世界で一番の幸せ者かもしれんなぁ」


和やかに嬉々とした笑みを浮かべ、家族と仲間たちへの思いに溢れた言葉を紡ぐ。

切なげに、愛おしげに。

今この時だけの──たった数分にも満たない幸せを噛み締めるように。そして、ヘファイストスは「でも」と続け────



「心残りがあるとすれば……レイヤ、お前さんの晴れ姿を見届けることができんことかのぉ」



そっと青年の頭を撫でながら、ヘファイストスは静かにそう告げたのであった。


そしてこの時、レイヤは確信してしまった。

今生の別れ──今がその時なのだとわかってしまった。



「お、おれ……お、れは……」



もっとたくさんのことを教えて欲しい、学ばせて欲しい。聞きたいことだって山ほどあるのに、教わることだってまだ残っているのに。強くなったところを見て欲しかったし、じいさんのおかげで強くなれたんだって証明したかった。


それに、まだなにも恩返しできていないのに──



「……おれ、まだ……」



言いたいことがたくさんあるのに、口が思うように動いてくれない。思考がまとまらず、何を喋ったらいいかも分からなくなってくる。


今、必ず伝えなければ後悔する。


そんなこと、わかっているはずなのに──




「────えっ……」




言い淀みに口をもごもごしていた時、胸に押し付けられるかたちでなにかを渡される。

それを一目見た瞬間、レイヤは目を見開いてヘファイストスの方を見やる。



「ずっと渡しそびれておったんじゃが……こんなかたちで渡す羽目になってしまってすまんのぉ。色々試行錯誤したんじゃが、お前さんに似合う神器はやっぱり神剣かと思っての」



ヘファイストスから受け取ったのは──神剣だ。

そして、この時手に取ってすぐにわかったのは、ドラシルが本来の神器を模倣して象ったレプリカと同じ性質を持っていることだった。


その剣に伝説はなければ、英雄や加護も宿っていない。鍛冶神によって打たれ造られただけの、なんの変哲もない空の器なのだ。

それでも、ヘファイストスが自分のために打ってくれたということが、なにより嬉しかった。その嬉しさが、余計に別れの辛さを強くしてしまう。





「っづ……」





目の奥から、熱いものが込み上げてくる。

彼の前で泣く姿を見せるのはこれで何回目になってしまうのだろうかと、自らの情けない姿を思い返す度に、己の不甲斐なさには反吐が出る。

一度くらい、格好いい姿を見せたかった。堂々と胸を張って見せれるような、成長した姿を。

結局最後まで、女々しい姿を晒して別れを告げなければいけないのか────





「クオンを頼んだぞ」





その大きな拳をレイヤの胸に突き立てるように押し当て、ヘファイストスは最後の言葉を静かに、それでいて力強く告げた。


告げた、次の瞬間──鋭利な刃先がヘファイストスの魔力炉もろとも確実に刺し貫いた。





「貴様の最期を飾るには相応しい終わり方だろう?」





臓物が潰された鈍い音が鳴り、赤い飛沫がレイヤの顔へと飛び散る。


致命傷だった。

治癒が施されたとはいえ、既に機能不全へと陥っていたヘファイストスの身体は、無理やりに酷使していると同義だった。

そんな手負いの肉体に、⬛︎⬛︎⬛︎はとどめと言わんばかりの一撃を加えたのだ。



開いた口が塞がらなかった。


またもや目の前で、大切な人の命が奪われる瞬間を目の当たりにして──







「走れぇぇーーーーーー!!!!」







死力を尽くした怒号の叫びが響き渡る。

──瞬間、レイヤはクオンを抱いて無我夢中に走っていた。



「逃がすものか」



眼鏡の奥の鋭い目を光らせ、レイヤの背を捉えると、⬛︎⬛︎⬛︎はヘファイストスに突き刺した神剣を引き抜く、が──



「おいおい、わしを無視できるとは思わんことじゃのぉ」



その引き抜こうとした腕を掴み離さず、不敵な笑みを浮かべたヘファイストス。魔力炉ごと内蔵を串刺しにされているにも関わらず、その瞳からは決して光が損なわれることはなかった。



「死に損ないの老骨め、あそこで逝ってしまえばよかったものを。なぜそこまでする。あの人間に肩入れする理由はなんだ」


「そんなもの決まっておろうが。あの子は、レイヤは──わしの家族だからじゃよ」







決して後ろは振り向かなかった。

ただひたすらに走った。


無駄にしてはならないと、使命を帯びて。

必ず、彼の願いを成し遂げるために。


想いを胸に、崩壊する荒野を駆けた。







抱きかかえたクオンだけが、その顛末を見届けていた。











・ヘファイストス

種族:神

契約神器:神斧タロース、神掌ネーレウス、神弓アルテリオンetc…

好きなもの:神器制作と鑑賞

嫌いなもの:特に思いつかなかった(本人談)


オリュンポス十二神の一柱、鍛治を司る神。神器を造り出した張本人であり、殆どの神器は彼によって造られている。


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