第五十九話 hollow in the dark
「──っはぁ! はぁ! クオン! クオンッ!! 」
鮮血に濡れ、音を立てて倒れ込んだ少女の名を叫びながら、レイヤは必死の形相で駆け寄る。
その様子を傍で見下ろしている大男など気にも留めずに、レイヤは仰向けに倒れたクオンを抱き抱える。
諸に斬撃を喰らったクオンの体は、右肩から左の脇腹までに傷口が開き、絶えず血が溢れ出てきている。体を揺らし、名前を叫んでも、彼女は微動だにしない。いくら神といえど、こんな終わり方などあまりにも呆気なさすぎる。
「クオンッ!! クオンッ!! なぁ、返事をしてくれ!! 目を覚ましてくれ!! お願いだぁっ、頼むっ!! 死んじゃだめだ!! クオン!!」
動かなくなったクオンに、涙を浮かべながらも必死に呼びかけるレイヤ。その叫びも虚しく、がらんどうの器にはなにも響かない。クオンの体から温もりが失われていき、吹き出し終えたと言わんばかりに流血が止まる。考えたくもないことが脳内を過り、涙を散らして頭を振る。
するとレイヤは、咄嗟にクオンの赤く汚れた手を握りしめる。なにかできないか、死に物狂いで頭を捻り回して導き出した答えだった。
それはかつて、──ドラシルが自らに施術してくれた時のように。
知恵も、力も足りない自分に、今できる最善の策。レイヤは両手に魔力を集中させると、クオンの体へなけなしの魔力を一気に注ぎ込む。
「咄嗟の判断にしちゃあ上出来だ。だが、お前ぇも無駄だってことくらい分かってんだろ」
「うるせぇッッッ!! お前は黙ってろよ!!」
アレスの言葉に、レイヤは反射的に拒絶の叫びを上げ、怒りと憎悪を込めて涙ながらに睨みつける。その後すぐにクオンの方に目を向け、再びありったけの魔力を流し続ける。
仄かな輝きを放つ燐光が繋がれた手を包む。みるみるとレイヤの魔力が流れていくのに対し、クオンは目を瞑ったまま沈黙を続けている。ただでさえ少ない自分の魔力だったが、底が見えてくるのは予想よりはるかに早かった。魔力が失われる共に全身から力が抜け始め、目眩と眠気に襲われる。
だが、そんなことなどどうでもよかった。
彼女の命を繋ぎとめるためならば、何度も救われたこの命、彼女のために費やすことも惜しくは無い。
「……はぁ。悪ぃがてめぇに要はねぇんだ。さっさと失せやがれ」
今までレイヤの様子を見下ろしていたアレスだったが、しびれを切らしたかのように苛立ちを見せ、殺意と共に鋒を向ける。
しかし、レイヤは一切気にも留めることなく、クオンの蘇生に無我夢中であった。
「俺を無視するたァいい度胸だ。せいぜい冥界で後悔するといい」
猶予もなければ、慈悲もなく。振るわれた赤き大剣が問答無用に命を切り刻む。例外はない、確実にそれは命を奪うものだった────。
────だった、はずなのだが。
その刃が命を刈り取ることはなく。斬ることは疎か、掠れることすらなく。
「──おい、洒落にならねぇぞコラ。どういうつもりだ────アテナ」
厳しい目つきで睨みつけ、堪え難い怒りを込めた声音で、忽然と目の前に現れた女神の名を呼ぶ。
光弾ける美しい黄金の髪。翡翠色の瞳に、女神に相応しい整いすぎた顔立ち。古代ギリシャに伝わる純白のペプロスを身につけ、その上から金色の鎧を装着した姿で、持った黄金色の神槍で大剣を受け止めながらアレスと対峙していた。
「これ以上の殺傷は見過ごせません。それに、クロノスの娘とこの人間を殺すわけにはいきません」
「んだと……? てめぇ、なに企んでやがる」
「それはこっちの台詞です。あなたも既に気付いているのでしょう? であればなぜ────」
「────俺は俺のやり方でケリをつける。余計な手出しするんじゃねぇよ」
言葉を続けようとしていたアテナを遮り、突き放すようにアレスは言葉をぶつける。
刹那、その瞳の奥にあらゆる感情と思惑が織り交ざり、それを悟られまいと隠しているようにも見えて。
互いの思惑が衝突し合い、はたまた譲歩することもない。ただ、その隠された真意はお互いに理解していたようで────。
「立ちなさい、人間。その子はまだ死んではいません。私が時間を稼ぎます、なるべく遠くへ離れていてください」
「わ、わかりました。……ありがとう、ございます」
「……これが最後だ。そこを退け、アテナ。今ならまだ間に合う」
「退きません。……たとえ貴方が相手でも」
「……ああ、そうかよ」
折れないアテナの答えに、アレスはそっと目を伏せる。一瞬、アレスの表情が強ばったように見えたが、すぐに覇気に満ちた表情へと変わる。
そして、その瞼が開かれたと同時に、爆発的な殺意と闘気が牙をむく。
その様子を垣間見ることはなく。レイヤはクオンを連れて、ひたすらにその場から駆けた。
◆
「悪ノリが過ぎるぞ。……おぬし、覚悟はできとるんじゃろうな」
「あはっ。あんまりそう睨むなよクソジジイ。もっと虐めたくなるだろうが」
険しい睥睨の視線を向け、睨みつけるヘファイストス。その視線の先には、空中に留まりこちらを見下す燃ゆる神の姿がひとつ。
時は遡り、爆風と共に開戦した神々の衝突。レイヤとクオンがアレスと対峙している頃、ヘファイストスとゼウスもまた、苛烈な激戦を繰り広げていた。
そこに、不意をつくように現れたのがアポロンだった。
突如として姿を見せたかと思った次には、契約している神弓を引き絞り、特大の紅蓮の矢をヘファイストスに向けて撃ち放ったのだ。
豪速で自らに襲いかかる炎の矢に気付いた頃には時すでに遅し、防御する手段をとることも叶わずにヘファイストスは爆発と共に火炎に包まれた。
物語は今に至り、陽炎に焼かれ、灰燼と化したかに思えたヘファイストスなのだが。
険しい表情はそのままに、炎の中から無傷で巨体を現したのである。凄まじい怒気と威圧を発しながら、ヘファイストスは鋭い視線をゼウスたちへ向けていた。
「……アポロン。手出しは無用だと言ったはずだが」
「そう怖い顔しないでよ。さっきのだって、俺がやらなかったら重たいのもらってたでしょ。あんなんだけど馬鹿力なのは間違いないんだからさ」
ゼウスが横目にアポロンへ冷たい視線を送る。それをへらへらと軽く流すように弁明するアポロン。
アポロンのふざけた態度に、ゼウスはイラつきを覚える。だが、そんなことよりも他に注視すべきことがゼウスにはあった。
それは、炎の中から姿を現したヘファイストスにひとつの変化が生じていたからだ。
猛々しい彼の両腕に、神器がまたひとつ装置されていたのである。
銀と水色の冷たい輝きを放つ神掌が、鎧の具足のように装備されていた。
「未だこの世に醜くしがみついていたか。いいだろう、今度こそ終の果てへと送ってやる」
気に食わないと言わんばかりに不機嫌さを伴った低い声で呟き、ゼウスは再び殺意を向ける。
その横ではアポロンが挑発するような笑みを浮かべている。
アポロンも加わり、二対一を強いられたヘファイストス。三者共々に神器を構え、殺伐とした痺れる空気の中、いつ死闘が再開されてもおかしくない──そんな状況だったのだが。
この時、三人の神々は同じものを察知した。
察知したと同時、この場の全員が同じ方角へと目線を寄せていた。
「……ふ。くふ、くふふ。くっふっふっふっふっふっ……あーーーーっはっはっはっはっはっ!!!! ああ! こいつは傑作だ! まさかまさかだ! ────死んじまったなぁ!! お前が大切にしてたクオンちゃんがさぁ!!」
彼らの目線の先。そこでは今、血の池に我が身を浮かべたクオンと、受け入れがたい現実を前に嘆きと怒りに揺れたレイヤの姿がある頃だ。
この場の三人が感知したのは、クオンの魔力反応の消失である。
外気中の魔力と違い、体内の魔力炉で生成される、或いは体内に秘められた魔力には一個人として判別できるほどの波形が存在するのだ。
魔術の行使や神器にもそれらは該当し、これを通じてゼウスもクオンの作り出した異空間への侵入に成功している。
そのクオンの魔力反応が、ぷつりと糸切れたように消えたのだ。
これにアポロンは、屈託のない笑みを見せた。子が親に新しいおもちゃを与えられたように、邪気に溢れた悪辣な表情で喜々としていた。
「随分と呆気なかったなぁ!? 本当にくだらない最期だったなぁ!? 大人しく俺たちに従ってればよかったのにさぁ、馬鹿にもほどがあるよなぁ。……ああ、そっか────」
アポロンはニタリと凍りつくような笑みを浮かべた。
この瞬間、アポロンはヘファイストスの神経を削り、逆撫ですることだけをひたすらに考えていた。どうすればその顰めっ面を歪ますことができるか、何を言えば膝から崩れ落ちてくれるか、存在さえ気に食わない彼の自尊心を貶すにはどうすべきか。
そして、それは間もなく閃いた。
閃いた瞬間、脳から全身余すところなく快感が走り、昂る高揚感にニヤつきが治まらない。
早く。早く、早く。早く早く早く。
言いたい。言いたい言いたい。言いたくてたまらない。
言霊にのせて紡ぐ、彼へ送る言葉。今の自分にできる最大限のまごころがこめられた、最悪の侮辱。
「その愚かで醜い死に様は──親譲りだもんなぁ」
──瞬間、アポロンが消し炭になった。
断末魔が空虚に響き渡ることもなく、燃え尽きた灰の匂いが漂う。
堪えがたい怒りをふつふつと滾らせていたヘファイストスだったが、目の前で起きた光景に動揺を隠せない。
「…………一体、何が起きた?」
──なにより、自らの手で葬ったその張本人が困惑に苛まれていたのだから。
言葉が耳に入った瞬間に、ゼウスはアポロンの頭上めがけて凄まじい落雷を起こした。大地を揺らすほどの雷がアポロンを直撃し、瞬く間に焼き去ってしまったのだ。
あまりにも一瞬の出来事にヘファイストスは唖然としたが、同時にゼウスに対して違和感を覚えた。
偶然にも思えたのだが、ゼウスは反射的にアポロンを始末したかのように見えたのだ。それもなにか、いっときの感情に身を流したかのように。
今のゼウスに、一切の感情の起伏などあるはずがない。冷血にして無慈悲、言い表すのであればこれほど似合う言葉は他にない。
だが今、彼の一変することのない表情に初めて歪みが生まれたのだ。かつて、彼を傍で見ていたからこそわかるその違和感に、ヘファイストスにひとつの可能性が浮かんだ──それは、
「──お主、ゼウスではないな?」
「…………だったら、なんだというのだ? 鍛治神ヘファイストス」
しばしの沈黙のあと。
⬛︎⬛︎⬛︎は初めての笑みを見せた。




