第五十六話 独白
「──起きて、レイヤ」
単調で、短く放たれた言葉には、静かに怒りが宿っていた。機能不全へと陥っていた聴覚は研ぎ澄まされており、微かにだがさざなみの音がする。地面から伝わる感触から、砂浜に仰向けで寝かされていることも分かる。それを機に、舞い戻ったことを理解する。
「クオン──────」
もはや瞼を開くことにさえ恐怖しつつ、視界へと接続する。
そしてそこには、白く透き通った髪をそよ風に靡かせ、前髪に隠れた煌めく濃紫の片眼。レイヤはまるで乞うように、縋るかのように、掠れた声で彼女の名を呼んだ。
◆
「…………何か、言いたいことはあるかしら」
俯き、へたりこんでいるレイヤに、クオンは尚も単調に言葉を投げかける。この状況下にて、今のクオンには少女らしい側面など皆無に等しかった。彼女の放つ眼光は神威そのものであり、レイヤは今、文字通り神の御前なのである。
「………………して、くれ」
レイヤの擦り切れた心を表すような、か細く枯れた声が漏れる。弱々しく放たれた声は、この空間に吹く偽りのそよ風にも吹き飛ばされてしまいそうな、生気すら感じさせないほどに脆弱だった。
「俺を……殺してくれ」
「は──────」
二度目にしてようやく聞き取ることができたクオンは、レイヤの告げた言葉に思わず、空いた口が閉まらなかった。様々な感情が入り乱れ、思考が定まらない。彼の言葉を鵜呑みに出来ず、信じたくないと懸命に心が否定する。
だが、現にレイヤがクオンに向けている黒の双眸は、既に生命の輝きを失っていた。それがレイヤの欲していることだと、全てを決定付ける彼女への証明になっていた。
「……なんで。なんで、そんなことが、言えるの。よりにもよって、どうしてレイヤの口から、そんなことが」
「…………守りたかった。助けたかった。死なせたくなかった。でも、俺は何も出来なかった。救おうと思うほど、大切な人たちが死んでいく。必死にこの手を伸ばしても、みんな離れていく。俺が助けたいと願えば、助けたかった人たちは、俺のために死んでいく。……俺が、みんなを殺してるんだ。大切な人たちみんな、俺が殺してるんだ」
僅かな時間で、多くの死を味わった。それは着々とレイヤの心を壊し、蝕んだ。────精神が極限までに擦り切れたの者の末路。今のレイヤには、希望などは無い。在るのは澄み渡る絶望と、死への執着のみ。
「俺が、いなくなればいい。俺がいなくなれば、誰も死なずに済むんだ。……もうっ、みんなが死んでいくのは、嫌なんだよっ……!」
砂浜に項垂れ、内にある思いを弱々しく叫ぶ。レイヤの弱りきった心は、拒絶の情動に駆られる。
クオンの権能の行使により、レイヤはこれまでに三度死の淵から蘇り、三度とも死人が出た。傷だらけで、歩くことすらおぼつかない自分が無力であることは重々承知だった。
それでもレイヤは、少しだけでもなにかの役に立ちたいと、こんな自分でも誰かの助けになれるならと、動かずにはいられなかった。
しかし現実は、非情なまでに残酷であった。
救うどころか、数多の屍を積み上げて。ただ自分は、惨たらしく殺されて。自分の弱さから逃げて、逃げて、自殺して。逃げようとして、愛されて、毒されて、殺されて。
あの日、己の心に立てた誓いの楔。錆びつき、ひび割れ、折られ、砕かれ。
今のレイヤは、時の流れと共に死にゆくだけとなった、廃人へと変わり果てていた。
「……………………………………………………ょ」
長い沈黙の終わりと共に、クオンは肩を小さく震わせ、ぽつりと呟く。
「…………返して、よ。ねぇ……返してよ。…………返してよ!! 私の想いを!! 私の気持ちをっ!! 返してっ!!」
大粒の涙と共に、一度溢れ返ってしまった感情は瓦解し、土砂崩れのようにあらゆる想いを掻き混ぜ、呑み込み。怒りと悲しみだけが、クオンを支配する。
クオンは砂浜に項垂れたレイヤを力任せに押し倒し、乱暴に胸ぐらを掴む。それに対してレイヤは、弱々しく、ただぼんやりとクオンを瞳に映す。なんの反応すらないレイヤの様子に、クオンは更に激昂し、噛み付くような形相で想いを叫ぶ。
「一生懸命努力して、血の滲むような思いで鍛錬を重ねて、必死に強くなろうとしてたあの毎日はなんだったの!? あなたは、何もかも放り出して全てから逃げるの!? これまでの自分の努力を全て否定するの!? あなたは……レイヤは……本当に心からそれを望んでいるの!? 」
涙の大瀑布を流しながら、クオンは悲痛さながらに声を荒げる。全てを放棄し、逃れようとするレイヤに、これまでのレイヤを見てきたクオンは無我夢中に問いかける。
見てきた。近からず、遠からず。
彼女は、レイヤを見てきた。
彼の苦難を。葛藤を。弱さを。努力を。勇姿を。優しさを。
「私はっ……!」
わかっている。自らの行いが、どれほど偽善に満ちているのか。それをひたむきに隠すために、周囲はおろか、自らにまで欺瞞を被せ。よりにもよって、その人までをも騙すことになって。
それでも。心までは、騙すことはできなくて。
心は。心だけは。常に叫んでいた。
失意の底へと堕ち、悲憤の涙は止まず。感情が揺れ、その弾みと共に心の淵へと鎖された想いが溢れる。
制止は効かない。昂った感情の勢いのままに、解き放たれる。
────だが、彼女にとってはそれが今、永き人生で得ることができた、最初で最後の好機であった。
この想いを伝えるには、あまりにも勇気が足りなくて。
こんな形でしか伝えることのできない、小心者で。
そんな彼女の────告白。
「私が好きで、愛したのは、誰よりも努力して、誰よりも悲しんで……! なにより、自分が傷だらけになっても、この世界で誰よりも優しい──夜宵 怜夜よ!」
神の、愛の告白。──否、愛の独白。
凛々しくも愛らしい顔が、くしゃくしゃにもなるまで泣いて。クオンはレイヤの掴んでいた胸ぐらをそっと離し、その場で弱々しくへたり込んで、小さな啜り泣く声をあげる。
そんな神の告白を受けたレイヤは、ただ茫然とクオンを眺めていた。目の前の彼女が口にした言葉を理解できずに、ただひたすらに傍観する。
「────」
泣いている彼女を見て、レイヤの頭に浮かんだのは──疑問。
なぜ、クオンはこんなにまで泣いている。
「……っづ」
考えようとした時、不意に頭を軋むような痛みがレイヤを襲う。
それとほぼ同時に、遠くから砂浜を踏み締める音が近づいてくるのを感じた。その音はなぜか、砂上を歩いているにも関わらず、重質感を錯覚させる。
やがて、足音はレイヤの背後まで近づいてくると無くなり、その代わりに足音の主が声を放つ。
「────女にここまで言わせておいて、お前さんはまだわからんのか」
低く。そして、クオンとはまた違う静寂の怒りが込められた声音だった。
親しんだその声の主を知っているレイヤは、ゆっくりと後ろの方を振り向き、見上げる。
聳え立っていたのは、見慣れた姿の老漢。但し、見慣れぬ、初めて目にするものがたったひとつだけ。
──その男は、ひと睨みでもすれば射殺せるような、まさしく神威と言えた気迫を込めた眼差しで、レイヤを見下ろしていた。




