第五十五話 毒白
「────ねぇ。起きて、レイヤくん」
何かが上に覆い被さる感触と共に、聞き覚えのある声がした。
────いや、聞き覚えがあってはいけない。聞こえてはいけない声がしてしまった。
「おはよう、レイヤくん。久しぶり、レイヤくん。レイヤくんにまた会えて嬉しいな」
おぞましく甘い猫撫で声で、蕩けるような吐息を零しながら。その悪魔は、────アスモデウスは頬を紅く染めていた。
息が、苦しい。酸素を無我夢中に欲するたび、呼吸が出来なくなる。ひゅうっ、と音を鳴らしては、肺が灼けるように痛む。
声が、出ない。助けを求めようと喉を振り絞るも、ひたすらに虚空に喘ぐことしか出来ない。
「どうしたの?苦しい?悲しい?なんでそんな表情をするの?」
レイヤの上に跨り、その艶めかしい上体を押し付けるかのように、ぴったりと密着してくる。そして、彼女の顔との距離は僅かにして一寸ほど。興奮に頬を染めた彼女の熱い吐息がかかる。
「あの時は邪魔が入っちゃったから、二人きりでゆっくりお話出来なかったけど。今はたっぷりと時間があるから、たくさんお話しましょ、レイヤくん?」
レイヤの耳元まで顔を寄せ、熱の篭った言葉を囁く。ひたすらに愛でるようにレイヤの名を呼ぶ。だが、レイヤには呪いにしか聞こえない。得も言われぬ愛に当惑し、怖気と嫌悪が循環を繰り返す。表情の伺えないアスモデウスを横目で睨みつけ、牙を剥くように歯ぎしりする。
「レイヤくん。────あの女、なに?」
あの一瞬の彼女への憎悪を向けた途端、アスモデウスの態度は一変した。先程までの熱く蕩かすような淫靡な声では無く、凍てつくように冷めきった声音が響く。
「──────っっ!!!?」
そして、右肩に熱く、鋭い激痛が走る。見れば、過去にレイヤを裂いた、あの時の凶刃が骨を断ち、突き刺さっている。アスモデウスはレイヤに凶器を深く突き刺したまま、光明の無い眼差しでレイヤを見下ろす。
「図書館の女も。小さい狐女も。遺跡の銀髪の女も。さっき殺した黒髪の女も、槍を持った青髪の女も。気に食わない。レイヤくんに纏わりついて、邪魔でしかない。でも、──あの白髪の女が一番気に食わない」
怨嗟に塗れた言葉が次々と並べられる度に、同じ箇所を何度も、何度も、何度も。彼女の手に持つ血だらけの剣によって突き刺される。重く、鋭い激痛に襲われる中、レイヤはアスモデウスの言葉に耳を疑った。それは、彼女がクオンの存在を認知していることだった。
「あの女なんでしょ、レイヤくんを生き返らせたの。私があの城を襲撃した時、最初は気付かなかったの。でも、戦いの最中でレイヤくんが私の間合いを知ってるような動きをして、違和感を感じた。それがきっかけでわかったの、私の記憶にブランクがあることに」
異常なまでの洞察力、思考力、何より感の鋭さ。それらが彼女を一層に悪魔たらしめる。しかし、クオンの存在を知る理由には不十分であることに、苦痛に耐えながらも違和感を覚える。
だが、それも束の間。アスモデウスはレイヤに突き刺さった神剣を抜き取ると、次は首元を目掛けて凶器を振り下ろした。喉を掻っ切ろうと迫る刃を、レイヤは寸前で彼女の腕を掴んで回避したが、彼女の力に押し負けてしまうのも時間の問題だった。
「痛いね。辛いね。苦しいね。でも、レイヤくんが悪いんだよ?こんなにもレイヤくんを愛してるのに。レイヤくんのことが大好きでたまらないのに。────私を愛してくれないもの」
アスモデウスは神剣を構えた腕に入った力を弱め、愛でるようにレイヤの頬に手を添える。
────その時、彼女が垣間見せた表情に、レイヤは刹那に迷いが生まれた。
「ぁ……」
だが、時は同じくして生まれた一瞬の隙をレイヤは見逃さなかった。腕の力が緩んだのを機に、跨ったアスモデウスを突き飛ばし、寝台から飛び起きるとそのまま、廊下へと死に物狂いで飛び出した。
「はぁ、はぁ、はぁ!……っはぁ!」
身体への縛りも消え、解放されたレイヤは深手を負った片腕を庇いながらも、何とか脱走し教室へと身を隠すことに成功した。追ってくるアスモデウスの姿は無く。それどころか、学園内には不自然な人気の無さが立ち込めていた。
「なんで、なんで、あいつが、ここにいる。なにが、どうなってる……」
医療室の去り際。部屋の片隅で壁に寄りかかり、血溜まりに浸かったメロウの亡骸を目にしてしまった。再び、大切な恩人を死なせてしまった悔しさに、涙が溢れかえる。望んでなどいない未来に絶望し、己が無価値であるということを再認識させられる。
「………………ぐ、っ」
虚空から取り出したるは、────贋作の剣。脳裏に焼き付いたあの痛みが蘇り、手にはじわりと脂汗が浮き出る。
「俺は、もう…………」
剣の鋒を自らの喉に突き当て、再び命を終わらせる。
「──────レイヤ……?」
名を呼ばれ、突きかけていた手がぴたりと止まる。艶のある紫色の長髪に、鮮血のように紅い瞳。レイヤの目に映ったのは、紛れも無く天使のような彼女の姿だった。
◆
「はい、これでもう大丈夫。他に痛むところはないかい?」
「……ああ、もう痛くない。体の方は平気」
再び命を絶とうとしたところをレイヤは、天使のような彼女、────ドラシルに無理やりに連れられ、書斎室にて傷の手当を受けていた。
自らの弱さから逃げ、またしても自殺の道を選んだレイヤを、ドラシルは何も問うこともなく、普段通りに接し、傷を癒してくれた。師である彼女にだけは見せたくなかった醜態を、見られてしまったという羞恥心と、何より彼女の期待を裏切ってしまったという罪悪感。きっと言いたいことが山ほどあるだろうに、平然と変わらない彼女でいることが、レイヤにとってはまさに耐え難い地獄の責め苦であった。
だが、それと同時に救いでもあった。彼女の何気ない仕草のひとつひとつが、こちらに向けてくれる彼女の微笑みが、今のレイヤにとって、なによりの救済だった。
「……ドラシル、ありがとう。俺を、止めてくれて。本当に、ありがとう」
「ふふ。どうしたのさ、急に素直になって。君らしくないな」
「……何回も、何回も。そして今も。本当に救われたんだ。俺は、お前に」
ぽろぽろと、言の葉と共に涙が止まらない。如何なる時も支えであってくれる彼女には、本当に感謝しかない。だが、感情が溢れんばかりで、上手く言葉にできない。ただただ、心から救われたことが何よりも嬉しくて。
「ほら、おいで」
泣きじゃくるレイヤを、ドラシルが優しく抱き寄せる。削り抉られ、死の淵まで追い込まれたレイヤの心が、彼女の温もりによって癒えていく。人肌の温かみと、ドラシルが傍に居てくれているという心からの安堵に、レイヤは堪らず泣き崩れてしまう。
「どんなに君が辛くとも。君が絶望に陥ったとしても。君の心が壊れてしまっても。私はいついかなる時も、君の傍に居続ける。どんな時だって、私が君を抱きしめてあげるとも。だからもう、泣く必要なんてないよ」
泣き止まぬ赤子をあやす母親のような、慈悲深き声音だった。安らぎに満ちた彼女の福音は、レイヤの心の淀みを禊祓うかのようだった。
「ほぉら、私の可愛い愛弟子のお顔を見せておくれ」
抱き寄せていた腕を解き、ドラシルは自らの胸元に泣き埋めていたレイヤの頬にそっと両手を添え、項垂れていた顔を正面から愛でるように直視する。
「もう、こんなにも目を赤く腫らして。せっかくの綺麗な顔が勿体ないぞ?」
「…………そんな、真正面から見つめないでくれ。今は、色々と駄目なんだ」
レイヤの瞳から零れる涙を、ドラシルの細い指で拭うと、からかうように笑みを見せる。そんな彼女にまじまじと泣き顔を見られるのにも、今のレイヤには耐えることなど不可能というものだ。赤面し、耐えきれずに目線を逸らす。すると、ドラシルは不意をつくようにレイヤの首に手を回し、再び抱き寄せる。
「私は、────君を愛しているよ」
ドラシルは、レイヤの耳元で愛の告白を囁く。
「……あ、ぇ?」
彼女の言葉と共に、レイヤは紅く染まる。
どくり、じわりと。腹から灼けるように。熱く、熱く。紅に染まっていく。
「────夢から醒めた心地はどう?」
またも、してはいけない声がした。
「──ぅ、ぶ」
血を含んだ泡が口から逆流し、倒れる。
「安心してね。君の師匠だった女は、私が殺したから。狐女も、銀髪の女も、青髪の女も、ちゃんと殺したから」
ゆっくりと視界が霞む。甘い死の匂いが、段々と濃さを増す。
「だからね。安心して眠っててね」
蕩かすように。甘い接吻を交わす。
「愛してるよ、レイヤくん」




