第一話 兆しはいつしか遥か遠く
──そこには埋め尽くすほどの夥しい本棚が整列しており、多量の書物が並べられていて、書斎と呼ぶには相応しい部屋だった。輝く結晶の細工がなんとも美しい、黄金色のシャンデリアが部屋に吊り下げられており、その輝く光の下でレイヤは、片隅にあるベッドの上で唖然を尽くしていた。
「…………今、なにを?」
「え、今のもう一回やれって言うのかい?たしかにさっきは私もノリノリでやったが、二回目となるとさすがに私も恥ずかしいというかなんというか…………」
目の前の少女は頬を赤らめ、照れを隠すように自身の綺麗な白い指に長髪を絡めさせる。
「いや、そうじゃなくて。そのさっきの天使とか天界とかどういう……」
「おっと、確かに。いきなりこの世界に迷い込んだ者からしてみればさぞ難解だろうね。君、名前は?」
「や、夜宵 怜夜です」
「それじゃあ、レイヤクン!優しくてとっても可愛いこの私が説明してあげよう」
何か余計なものが付け加えられたように聴こえたレイヤはさておき、ドラシルと名乗った少女は椅子から立ち上がると、愉快に鼻を鳴らしコツコツと足音をたてながら傍を歩き始めると共に語る。
「まずは、この世界について説明しようか。世界樹については……知らないか。えーっと、つまり。そう、言わばここは君たち人間の世界とは遠く離れ、遥かなる次元を跨いだ天上の異世界。君の想像の遥か上をゆく、多くの神秘が蔓延る超常の世界なのさ」
異世界、という単語に疑問符しか浮かばない。真偽を疑いたくなるが、彼女の言葉に嘘はついていなさそうに見える。本当に自分は、異世界とやらに来てしまったのだろうかと、不安と混乱で埋め尽くされた挙句、たまらずに頭をかかえる。
「その世界に住まうのが、私たちを含めた三種族」
そんなレイヤはよそに、ドラシルは尚も語ることは止めず、書斎机に置いてある三枚の札のようなものを手に取ると、それぞれ一枚ずつレイヤに見せた。
白い翼を広げ、手を合わせ祈る者の姿の絵。
黒い角を生やし、蝙蝠のような翼をはためかせる者の姿の絵。
漆黒の翼を羽ばたかせ、鎖で拘束された者の絵が描かれていた。
「──天使。悪魔。堕天使。この三種族は、永きにわたる戦争を繰り広げている」
「……戦争?」
「そう、事の発端は神代にまで遡る。かつてこの世界には神が存在し、遍く全てを統べるものとして君臨していた。神は人類を守護すべく加護を賜り、天使には人理の抑制と神の言の葉を神託として伝える伝達者として、悪魔には抑制に対する監視と緩和、世界の均衡が乱れぬようにと役目が与えられていたんだ。それぞれ対極の関係であった天使と悪魔だが、互いの在り方を理解し、尊重し合い、決して争いなどはなかった。しかし、ある些細なことが発端となり、悪魔と天使が争いを始めたんだ。それがきっかけとなり、神に反旗を翻す者たち、堕天使が生まれてしまった。新たに加わった堕天使の手によって争いはさらに激化し、世界は混沌を極めていた」
「神様たちは、争いを止めなかったのか……?」
レイヤが感慨げに首を傾げると、ドラシルは眉を顰めると一度目を瞑り、再びその紅い瞳を覗かせる。そして、ドラシルの声が発たれる。
「……神々は何を思ったのか、その争いを止めようとはしなかった。さらに神々は、三種族にあるものを贈った後に姿を眩ませた」
「ある、もの……?」
「神の加護を受け、絶対の破壊と安寧をもたらす神造兵器。名を、──神器という」
「神器……」
「神々が姿を消した後、神器が与えられた三種族の争いは苛烈を増し、争いが止むことはなかった。殺し合い、罪のない者達がただ蹂躙されてゆく。その最中、最悪が目を覚ましたんだ」
ドラシルはしばし沈黙し、顔が少しばかり曇る。
「──終焉帝。終の名を冠し、全てを終わりへと誘う者。世界を枯らし、三種族を絶滅寸前へと追いやった世界の破壊者だ」
「なんだよそれ……」
「詳しい記述は残されてなくてね。ほとんどのことは謎に包まれているんだ。まあなにせ、世界を滅ぼしかけたんだ。そんな終焉帝を、記録として残すことさえ恐れたんだろうね」
「その後、どうなったんですか」
「終焉帝によって世界は三つに分断され、私たち天使の住まう天界、悪魔たちの住む魔界。そして、堕天使が住む堕天界となり、今に至るわけだ。と、この世界のおおよそな説明についてはこんな感じかな。今の君に難しい話をしては混乱させてしまうだけだからね。まあ……今の話でもだいぶ混乱させてしまったみたいだけど。他に聞きたいことがあったら言ってくれ。私の答えられる限りは答えてみせよう」
ドラシルの言葉に、レイヤは心の中で抱えていた一番の不安を口にする。あの火の海の中、確かにレイヤは自分の命が失われていくのを、朦朧としながら感じていた。
それが今では、こうして何の異常もなく生き返っていることに疑問しかない。それに、ここが見知らぬ世界であることが証明され不安が募るばかりだった。
そして、目の前の妖しげな少女に拾われ、今に至っているわけだが。本当に彼女が天使であり、ここが異世界であるとすれば、自らがどういった運命を辿ることになるのか、気になるのは必然である。
「……俺はこれから一体、どうなるんですか?」
レイヤの緊迫と不安が籠った問に、ドラシルは呆気にとられた様子でレイヤの顔を見る。
すると、ドラシルは妖しく悪巧みをするような不敵な笑みを浮かべ、頬を紅く染める。レイヤの乗るベッドに這い寄り、興奮気味に言い放つ。
「君はこれから私の愛弟子となって、この天界の救世主になってもらう。そう、これはもう運命なんだ!」
「は、はぁぁ……?」
────こうして、レイヤの第二の人生の幕が開かれた。