プロローグ
紅蓮の灼熱を潰れかけた眼に映しながら、夜宵怜夜は自身の人生を呪うように嘲笑った。
というのも──、声帯など焼失し笑い声など響く事などないが。
左腕はひしゃげ、筋繊維らしきものが見えてしまっていて右腕など何処に置いてきてしまったか覚えてもいない。両足など自ら動かそうとしても全く言うことを聞いてくれない。腹の中では絶えぬ激痛が続いており骨や内臓などスクランブルエッグ状態だろう。
夜宵怜夜、十七歳八ヶ月の高校二年生。苦痛の日々ではあったが幸福ではなかったというと嘘になる。高校に入って初めての友達が出来た。自身を囲む友人たちの光景が今でも脳裏に蘇る。自分の名前を呼んでくれる度、喜びと胸の高鳴りを抑えようと必死になったことも覚えている。数々の蘇る追憶。ただ、それも肉体と共に炎へと消えていく。レイヤは数時間前の出来事を脳裏に再生し、火の中に佇んでいた────。
◆
「やばいやばいっ、会社遅れちゃう!!」
午前七時半、家中に慌ただしい声が鳴り響く。パタパタと走り回る足音も聴こえる。
「姉さん…あれほど言ったのに。急いだ方がいいって」
「だってぇ! レイヤの朝ごはん美味しすぎるんだもん! 朝からあんなに美味しいの食わせる方が悪いっ」
「遅刻しそうな理由を俺のせいにするのやめてくれない?」
黒いスーツ姿に身を整え、髪留めを口に咥えふてぶてしく声を上げるのはレイヤの姉、夜宵輝夜だった。生まれつきの優しい栗色の長髪をポニーテールに纏めた元気溌剌とした女性、その曇りなき表情はいつも笑顔が絶えずいた。
「それはそうと、お姉ちゃんは会社にいってきますっ。レイヤは……うん、大丈夫そうね! ヤヨネは………」
カグヤはもう一人の家族の名を口にすると、それに呼応した少女が弾むように飛んできた。
「はーい! あ、もうお姉ちゃん会社行くの?」
軽快な足取りで二人の前に現れたのは、セーラー服を身にまとった可憐な夜宵家の次女、夜宵夜々音だ。長く艶やかに伸びた黒髪に、真っ直ぐな瑠璃色の瞳。ヤヨネはレイヤの横に並び立つと背筋を伸ばし、ビシッと敬礼のポーズをとるとふふんと笑い声を漏らす。
「はいっ、兄妹二人出揃いましたっ!」
「うんうん、ヤヨネはいつ見てもかわいいわねっ」
ヤヨネはカグヤに頭を撫でられ、照れるように笑った。カグヤは二人の顔を見直すと、レイヤとヤヨネに抱き寄り、優しい声で言った。
「それじゃあ、お姉ちゃんは行ってきます。二人とも学校には車に気をつけて行って来てください。今日も一日、二人にとって幸せな一日でありますように────」
レイヤはこの時間に、一番の幸せを感じていた。家族の温もりというのがいかに大切であるか。自身の空白の過去を、幸せで埋めてくれるような気がして。そんなレイヤにとって、この時間は特別だった。
「よォーし! そろそろ時間もやばいので、行ってきまーすっ!」
そう言い放つとカグヤは、元気よく家を飛び出していった。姉を見送ったレイヤも、自分の支度に取り掛かろうとしていたその時だった。不意に服を引っ張られ、つまづきそうになる。見るとヤヨネが頬を赤く染めて、顔を膨らませていた。
「おにーいっ!! なにいつも通りにしてるのっ! 今日なんの日か分かってるのっ!?」
「なにって……アレだろ、わかってるよ」
「アレじゃわかんなーいっ! ちゃんと言ってよーっ!」
「えぇ。だから、アレだろ。姉さんの誕生日だろ……?」
「なーんだ、やっぱり分かってるじゃん! なんでそんなにいつも通りなの! 嬉しそうにしたらいいじゃん!」
「そんなこと言われてもなぁ……」
「それに今日は、放課後お兄ぃと買い物行く予定だったでしょ! その後は二人でご馳走作るって話だったじゃん!」
「あ、そういえば……」
レイヤの頭にはすっかりと忘れ去られていた妹との約束。妹の口からこの話が出て来なければ、完全にレイヤは忘れていた。そんな妹に感謝しつつ、学校に行く支度を済ませ二人は家を出た。
「今日の夕方五時に駅前で集合だからね。遅れて来たら私怒るかんね! ぜーったいだからねっ!」
「わかった、わかったから落ち着けって。うまく歩けないから離れろって!」
「だってお兄ぃってば、私との約束忘れちゃうとかひどいんだもんっ」
「謝るから機嫌直してくれよ……。俺が悪かったって……」
「……ふーん。じゃあ一つだけ。お願い聞いてくれるなら許してあげる」
「…………ええ。なんだよ?」
長い沈黙からの問に、ヤヨネは悪戯っぽく笑うとレイヤの元まで駆け寄り、少し照れを隠しながら上目遣いで乞う。
「────お兄ぃの手、触らせて?」
どんな末恐ろしい要求がくるのかと覚悟していたが、とても単純で、可愛らしい内容にレイヤは呆気にとられてしまった。思わぬ妹の要望に思わず、ぽかんと口が開いてしまっていた。
「……な、そんなことでいいのか?」
「……そんなことでいいの。ね、お願い」
レイヤは仕方なく、言われた通りにそっと手を差し伸ばすと、ヤヨネはその手を自分の頬に寄せ、ほっとするかのような安堵の表情を見せた。
「お兄ぃの手ってね、とっても優しくて温かくて。なんだか今日はちょっとだけ甘えてもいいかなって気がしたの。だから、ね。もうちょっとだけ甘えさせて?」
「……そう、か」
頬を染め、兄に抱き寄る妹の頭を撫で、レイヤはそっと溜め息をついた。
「それじゃあまた放課後にね、お兄ぃ!」
「ん、またあとで。────夜々音」
ふと、名前を呼ばれヤヨネは振り返る。不思議そうに首を傾げるヤヨネに、レイヤは姉を脳裏に浮かべながらそっと言葉を言い放つ。
「──────いってらっしゃい」
ヤヨネは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに満面の笑みをレイヤに向けると、元気よく駆けて行った。──これだけは言っておかねばならない、そんな気がしたのを余所に、レイヤも学校へと足を運んだ。
◆
舗装されたアスファルトの道を当初よりは履きなれたローファーで蹴り進む。見慣れた歩道を進み、横断歩道へと向かう。信号機は赤を示し、自分の他にも信号機を待っている人が数人。自分の傍には小学生ほどの小さな女の子が、母親と仲良く手を繋いで待っている姿も見られた。
しばらくして、向こう側から燃料タンクを積んだ大型のトラックが、こちらの信号機に差し掛かっているのが見えた。それを横目に、信号機が青に変わるのを今か今かと立ち尽くしていた。もう一方の信号機の点滅が終わり、青へと変わる頃だった。
トラックの音が猛烈な勢いで近づいてくることに気づき、眼を向けると、何を思ったのかトラックの運転手は──その瞳に狂気を宿し、更にスピードを上げこちらに向かってきていたのだ。
レイヤは自身の身を案じ、その場から離れようとしていた。自分のそばにいた親子も、既に安全な所へと避難したであろうと考えが脳裏を過り、ふと振り返って見るとよもや、その考えは姿を残さす跡形もなく消えた。
────被っていた帽子が風に飛ばされ、それを拾おうと母親の元を離れ横断歩道へと飛び込む少女の姿が眼に映し出されたのだ。
レイヤはその場から目を伏せた。なにせ、少女の死ぬ姿なんて見たくなどなかったから。そうだ、少女が死ぬ。まだ小さい女の子が。目の前で、死ぬのだ。ああ、見たくないとも。だがそれよりも、もっと見たくないことがある。
────それは、人の未来が目の前で奪われることだ。
迷いはなかった。少女へと手を伸ばし、突き飛ばす。
そして、大きな鉄の塊が。青年の身体をいとも容易く壊してしまった。
大きな轟音と共に爆発が起こり、辺りは火の海と化し、今に至る。
意識が遠のき、消えかけているレイヤは、紅く燃える焔の中で、あの時と重なる今の光景に、脳裏で焼け付いていた過去を見ていた。
◇
レイヤは幼くして、両親を失くしていた。理由は知るはずもなく、親の顔すら覚えることも叶わず、レイヤは独り生まれついた。
施設で孤児として引き取ってもらったレイヤは、周りとは誰とも打ち解けずに、いつも独りだった。人の温もりを知らず、本来であれば生まれて間もなく注がれる──愛情を知らない。
同じ人間という生き物でありながら、まるで自分は違う生き物のような気がして。それを拒絶されてしまうのが、たまらなく怖くて。レイヤは幼いながらに、それを理解してしまっていた。
そんな独りで過ごす中で唯一の楽しみであったのが、その施設に置かれていた天体の図鑑を手に取り見ることだった。生まれて初めて興味を持ったものだったので、その不思議な魅力と世界観にレイヤは惹かれ、毎日その本を手に取ると、時を忘れてしまうほどに無我夢中で読んでいた。
月日は流れレイヤが十一になる頃、施設ととある女子学生が訪れるようになった。なんでも、その施設を運営している責任者と知り合いだそうで。子供が好きな彼女は子供たちの遊び相手として、ボランティアで訪れていた。
レイヤは相も変わらずに図鑑を眺めていたある日、ふと隣に誰かが近づいてきたのを感じた。ぎょっとしたレイヤは、図鑑に隠れながら恐る恐る確認すると、そこにいたのは噂に聞いていた女子学生だった。
「ねえっ! その図鑑、お姉ちゃんにも見せてよ!」
ずい、と顔を寄せ話し掛けてきた女子学生に思わず、図鑑で顔を覆い隠した。その様子に、その女子学生は笑いながら再び距離を縮め、近づいてくる。
「あら、恥ずかしがり屋さんなのね。私もその図鑑、見てみたいなー」
「……」
人とここまで至近距離に接したことがないレイヤは、混乱と緊張のてんやわんやで、いやいやと首を振り、顔を再び図鑑で隠す。レイヤの行動に女子学生は諦めがついたのか、残念そうに呟く。
「そっかぁ。お姉ちゃん寂しいなー」
少しふてぶてしく呟いた少女は「でもね」と続け────、
「たまには誰かと一緒に絵本を読んだり、絵を描いてみたり、外で走り回ったりしてみるのもいいんじゃないかな」
彼女の言葉を聞いたレイヤは、どうして自分に構ってくるのだろうかと恐る恐る顔を上げる。どんな人間なのか、少しだけ気になったレイヤは、勇気を振り絞り彼女の顔を見ると、彼女の方もまた、その真っ直ぐな瞳でレイヤの顔を映しだす。
「────時にはこうやって人の目を見て会話して、笑い合うのもね」
照り輝くようなその笑顔と、風に靡く優しい栗色の長髪。レイヤにとってこの日から、彼女が特別へと変わり始めていた。
あれからというものの、彼女と図鑑を一緒に眺めることが日課になっていた。レイヤはいつものように図鑑を手に持ち、彼女が来るのを胸を弾ませながら心待ちにしていた。いつもなら来るはずの時間になかなか来ないので、レイヤは一人図鑑を眺めながら待つことにした。
と、同じ施設の子供たちが数人、市販の花火を持ち出し外へと駆けて行った。止めようかと迷ったが、外には大人もいるだろうと思い、声をかけるのは止めた。そもそも、声を掛ける勇気もないから。レイヤはただ、見届けることしか出来なかった。きっと大丈夫、そう考え直した後、再び図鑑へと目を落とした。
しばらくして、彼女はなかなか姿を見せることはなかった。時計の針と手に持った図鑑を交互に見ながら、今か今かとそわそわしていた。だが、そうしている間に睡魔がレイヤを眠りへと誘い、一時の深い夢の中へとレイヤはゆっくりと落ちてしまっていた。
◆
どれほどの時間が経っただろうか。燻ったような異臭に眉を顰め、深い眠りから覚める。重たい瞼が開かれ、目の前に映し出された光景は、この世のものとは思えないほどの、────地獄が映し出されていた。
人が、燃えている。
花火を持ち出し遊んでいた少年たちだろうか。施設一帯が火の海と化した中、焼け死んだ数人の遺体が転がり落ちている。火達磨となった死体の凄惨さにレイヤは思わず、込み上げてきたものに耐え切れず吐き出してしまう。これが本当に先程まで生きていたものなのか。それを考える度に、嗚咽が増していく。
レイヤはそれを後にし、必死に逃げ道を探し回った。しかし、逃げ道など何処にもなかった。徐々に崩れ行く瓦礫のせいで、退路を塞がれてしまったのである。段々と、息が苦しくなっていく。一酸化炭素中毒がレイヤの小さな体を蝕んでいるのだ。
意識も薄くなっていくのを感じ、途方に暮れ倒れ込んでいた時、ふと声が耳に入り込んできた。消えかける意識の中で朧気に目に入ったのは、黒髪の少女を背負い、涙ぐみながら笑いかける彼女の姿だった。
──そして、物語はここで冒頭に至る。
レイヤは炎に囲まれながら、姉と妹のことを脳裏に描き、涙を流した。その涙は、炎で蒸発することはなく。
「……ごめん、な…………ほ、んと……にご、めんな…………」
意識が遠のく。本当にこれが最後なのだと悟る。
「…ぁ……」
涙は枯れ、短い人生を終えて。今、レイヤは死の国へと堕ちる。
◆◇
そして、死んでから僅かにして数秒、意識が覚醒する。感覚や全身には何の違和感も感じられない。眠りから覚めるように、レイヤは瞳を開かせ、死後の末路を映し出す。
最初に視界に入り込んできたのは見たことのない鮮やかな白い天井。自分が寝台に寝かせられているのを理解し、やがて死者の国ではないのではと疑問が浮かぶ。確認するべく重たい上半身を起こした矢先、疑問は更なる疑問を呼ぶ。
闇がかった紫色の長髪に、艶やかな鮮血のように紅く染まった瞳。顔立ちは整い、今にも惹かれそうな美貌の持ち主の少女が寝台のすぐ横に居座っている。
疑問は疑問を生むばかりで、全く理解が追いつかない。ただ、一つだけ理解した事と言えば『死んでいない』ということであった。
「目が覚めたかな、私の拾ったお客人。ここは天界、我ら天使が住まう世界」
好奇心旺盛にその瞳を輝かせ、少女は謳うように溌剌と語りかけてくる。ただ、彼女の言う拾っただの天使だのは全くわけがわからない。混乱し、ただ聴くことしか出来ないレイヤに対し彼女は自慢げに名乗った。
「そして私こそが、このヴァルファリアの偉大なる司書、ドラシル・フリューシアだ」