弟の代理
弟の叶太がインフルエンザに罹患して家に戻って来た翌日、月曜日の朝。
俺は同じ家にいながら、またしても叶太と電話で話をしていた。いや、話をすると言うか、叶太が話すのを聞いていた。
まだ熱が下がらないらしく、おでこにはジェルのシートが貼られている。ビデオがオンになっているから表情まで分かる。顔色はイマイチだが、高熱が丸一日以上下がらない割には元気そうだ。
「兄貴、聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる」
苦笑しながら、相づちを打つ。
ホント、叶太は過保護だ。まあ、気持ちは分からないでもないけど。ハルちゃんは本当に身体弱いし。
だけどやっぱり、叶太のこれは行き過ぎじゃなかろうか。過保護とか心配性を通り越してる気がする。
……溺愛? ちょっと違うか。
「ハルは大学生になってから、軽く化粧をするようになって、顔色が分かりにくくなったから、気をつけてあげてね?
あ、もちろんオレは分かるんだけどね? やっぱシンドイと表情が違うし、ハル、そんな濃い化粧してないし」
叶太は最愛の妻、ハルちゃんのことを俺に頼むとしきりに言う。
俺にしても、ハルちゃんは可愛い義妹だ。
義理の妹以前に、隣に住む(住んでいた)親友がそれこそ溺愛している妹で、ハルちゃん一家が隣に越してきて以来、十年以上のつきあいだ。叶太と結婚していなかったとしても、俺にとっても実の妹同然の女の子でもある。
気にかけてやってくれと言われるなら、もちろんそうするし、何かあったら助けるのだって当たり前だ。
と思っているのに、叶太はひたすらハルちゃんの事を頼み続ける。
「今日の時間割、さっき送った通りだからね?」
けど、大学院生の俺に一年の授業にまで一緒に出ろと言うのはどうだろう? まあそれは断ったけど。
「俺にだって、都合っつーもんがあるんだけど」
「今週だけ! 今週だけだから! お願い! 来週にはさすがに復活してるはずだから!」
弟は熱く語る。そんなに興奮して、熱が更に上がらないか心配になるくらいだ。
「まあ。できるだけはするけど、できるだけしかできないぞ」
大体、心配なのは分かるけど、ハルちゃんだってここまで来たら重いんじゃないだろうか?
本当に体調に問題があるなら、そもそも大学へは進学していないだろう。おじさんやおばさんが許可してるんだから、通えるくらいの体力はあるんだよな?
と思いつつ、もしかして叶太のこの重すぎる愛が加味されて通学できている可能性に思い至る。
……もしかして俺の責任、かなり重大かも?
「とにかくお願いね?」
「はいはい」
「じゃあ、ハルには連絡してあるから、牧村の車に乗ってってね」
おい叶太、それは聞いてないぞ。
「俺の車でいいだろ?」
わざわざ、よその家の運転手さんの手を煩わせるのは気が進まないでしょ。
「ダメダメ。途中でハルの具合が悪くなったら困るだろ?」
大学までは、車で10分かからないし、ハルちゃんだって通い慣れた道だ。
けど、真顔の叶太を見ていたら、言い返すのが申し訳なくなった。と言うか、言い合っている間に出かける時間が来てしまう。叶太が簡単に譲るとも思えないし。
「はいはい。了解」
どっちにしろ、ハルちゃんが叶太と使う予定だったんだから、叶太が俺になっても、あちらは何ともないしね。それより、早い動きができないハルちゃんと行動するのに、出発が遅れる方が問題だ。
「ありがとう! 何かあったら電話してね?」
「ああ。ハルちゃんは確かに頼まれたから、お前はしっかり栄養と睡眠取って早く熱下げろ」
どんなに元気だって主張しても、インフルエンザって、熱が下がって何日目からしか登校できないんだったよな?
☆ ☆ ☆
「おはよう、ハルちゃん」
「晃太くん、おはよう。ごめんね。わざわざ来てもらっちゃって」
迎えに行くと……と言うか、ハルちゃんの車に同乗しに行くと、開口一番、実に申し訳なさそうにハルちゃんは謝った。
「大丈夫。気にしなくていいよ」
笑顔で返すが、ハルちゃんの表情は晴れないままだ。
「でも、晃太くんは朝から授業がある訳じゃないでしょ?」
よく知ってるな。今日は二限目からだ。
「大丈夫。行けば行ったでやることあるからね」
車の前でいつまでも突っ立っていても仕方ない。
「とにかく行こうか?」
ドアは運転手さんが開けてくれる。
俺はハルちゃんの荷物を預かり、運転手さんに会釈しハルちゃんの背中を軽く押し乗車を促す。自分はハルちゃんが乗った後に、反対側のドアから隣の席へ乗った。
思えば、こう言うシチュエーションは珍しい。同じ車に乗るのすら、随分と久し振りな気がする。
静かに車が発進するのに合わせて、ハルちゃんに声をかける。
「大学はどう?」
「ん。とっても楽しいよ」
ハルちゃんはにこりと笑った。
「課題とかレポートとか大変じゃない?」
「うん。たくさん出るからビックリしちゃった」
「それでも楽しい?」
「えっとね……新しい事を知ることができるのは、楽しいと思うの」
ハルちゃんは、真顔でしばらく考えた後、本当に嬉しそうに笑った。
「課題も一つこなす毎に、自分がね、ほんの少しだけどね、本当にほんの少しだけ、何だか成長した気がして、それがとても嬉しいの」
ふわっと笑顔を浮かべながら嬉しそうに手を合わせて語るハルちゃんは相変わらず、仕草も表情も文句なしに可愛かった。
叶太から聞いたところによると、ハルちゃんは大学生になっても飛び抜けて優秀で、演習1の授業では、一人だけやたらと難しい課題を出されているらしい。
一年次の演習はクラス単位だ。クラス単位ではあるけど、中では5~6人ずつの班に分けられて、グループワークで課題解決を中心に学ぶ。
四月は基礎的な内容で課題は個人のものだけ。五月からはグループワークが入って来て、六月になると一回の授業では終わらないグループ課題も課せられる。最初は分かりやすくマーケティングみたいな内容が多いけど、経営戦略もファイナンスについても考えさせられる。
ハルちゃんと叶太のクラスの担当は山野准教授。うちのゼミの教授とは研究室がすぐ側だから、山野先生はよく知ってる。明るくてサバサバした感じのキツメの美女。そして、今、うちの学部で一番の出世頭と言われている。
その山野先生が今年から演習1で、習熟度別課題を取り入れられていると聞いて驚いた。習熟度別、つまり、できる子はどんどん難しい問題を解かされる。
ハルちゃんと叶太、大丈夫かと少しばかり心配していたけど、この調子なら大丈夫そうかな。
「難しくない? 山野先生の授業とか」
先生の名前を出すと、ハルちゃんの表情が少し揺らいだ。悪い方にではなく、つぼみが開く前にほんの少し膨らみを持つように、嬉しそうに。
だけど、その後に出てきたハルちゃんの言葉は予想外のものだった。
「うん。……あのね、少しだけ、入学前に予習してあって、おかげで何とか付いていけてる感じ」
「入学前に予習!?」
思わず声を上げると、ハルちゃんは大きな眼を見開き、数度瞬きをした。
「……うん。……でも、少し本を読んだくらいだよ?」
その少しが気になる。
「参考までに、どんな本を読んだの?」
「えっとね、パパに何を読めばいいか相談して、」
なるほど、おじさんに相談したか。確かに適任だよな。俺はそのまま頷いてハルちゃんの言葉を待つ。
「MBAの参考書を薦められたから、そう言うのを何冊か読んだの」
「MBA!?」
待て待て待て。
MBAとは、俺が大学院で取得すべく勉強中の経営学修士号のこと。MBAと英語で言う場合は主に社会人がビジネススクールで取るものを指す事が多いけど。
いずれにせよ、その言葉が、高校出たばっかりでアルバイト一つしたことがないハルちゃんの口から出る違和感が半端ない。
それでも、つきさっきのハルちゃんの嬉しそうなはにかむような顔を思い出すと、頭ごなしに否定する気にもならず、
「……理解できた?」
そう聞いてみると、案の定の答えが返ってくる。
「あのね、難しいのね、経営学って」
そう言いつつも理解できないとは言わないハルちゃん。
でもね、ハルちゃん、経営学修士号って、普通、大学を出た後で取るものだからね? 理解できない方が普通だからね?
「パパから最初にもらった本は少し難しかったの。だから、途中で入門書みたいなのを買って、そっちから読んだの」
「なるほど、ね。……で、今はもう理解できる?」
「最初の本?」
「そうそう」
「うん。もう大丈夫」
ハルちゃんがにっこりと嬉しそうに笑った。
MBAの入門書じゃない本をもう理解できるって……。大学に入学してまだ一ヶ月ちょっとじゃないか。
「今度、どんな本か見せてくれる?」
ハルちゃんは不思議そうに小首を傾げながらも、断る理由を思いつかないのか、
「うん。よかったら部屋に見に来てね」
と優しく微笑んだ。
その言葉に、どうやら気軽に持ってきて見せようと思えない量がありそうな気がして、また驚く。
「じゃあ、今週中にでもぜひ」
にっこり笑ってそう言えば、ハルちゃんも嬉しそうに笑顔を見せてくれた。
「それじゃあ、頑張ってね」
三号棟の四階、一限目の教室にハルちゃんを送り届け、教室前の廊下で鞄を手渡す。
ハルちゃんは鞄を受け取ると、
「晃太くん、わざわざ、ありがとうございました」
とペコリと頭を下げた。
律儀だよな~と思いつつ、ふわりと揺れる長い髪が気になり、つい頭に手を置いた。そのまま、何となく、小さい子にするみたいによしよしと手を動かしてしまう。
うーん、柔らかくて気持ちいい。
「晃太くん?」
「あ、ごめんごめん。なんかふわふわして気持ちよさそうだったから」
笑いながら手を引っ込めると、ハルちゃんも笑った。
「こんなのでよければ、いつでもどうぞ」
「あはは。じゃあ、叶太がいない時に、ね。今週はチャンスかな?」
叶太の前でやったら、間違いなく文句を言われる。
ハルちゃんも想像したようで苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、終わる時間に、またここで待ってるね」
「え? いいよ、大丈夫! ちゃんと次の教室に自分で移動できるし」
「まあ、初日くらいは叶太の希望を叶えてやるって事で、ね? この時間空いてるから、そう手間でもないし」
話す俺たちの側を通って、学部生たちが一人、また一人と教室に入っていく。
「そろそろ入らないといい席なくなるんじゃない? あ、具合が悪くなって教室を出たり、早めに授業が終わったりしたら、電話ちょうだいね?」
「……うん」
実に申し訳なさそうに、ハルちゃんは頷き、そして教室の中へと入っていった。
「さて、どこで時間つぶそうかな」
と呟きながらも、足は食堂に向かう。
コーヒーでも飲みながらレポートを片づけよう。
行儀悪いと思いつつ人がいないのを確認し、歩きながらスマホの通知をチェックすると、明仁から連絡が入っていた。
中身は食堂に着いてから確認。予想通りで『陽菜をくれぐれもよろしく頼む』という内容だった。
はいはい。
何というかまあ、叶太といい、明仁といい……。
思わずため息が出るが、まあ自分はいい。叶太にも言ったが、可愛い妹のためにたまには頑張ったっていいと思う。一週間くらい、ハルちゃんを過保護にしまくって、ここぞとばかりに甘やかしまくるのだって楽しそうだ。
だけど、されるハルちゃんは恐縮しまくっていて、逆にこっちが申し訳なくなるものだから悩ましい。
明仁に『了解』の返事を打ちつつ思い出す。
そう言えば、明仁も異様に頭が良かった。いわゆる努力なんてものはしなくても、聞いたり読んだり見たりしたら理解できた。一を聞いて十を知るどころか百を知るような天才肌。
その上、実は必要な努力は一切惜しまない勤勉なところもあるせいで、中高六年間で明仁の上に立ったヤツが一人もいないくらい明仁はトップ独走だった。全国レベルの模試すら一番を取ってくるという化け物じみた頭の持ち主、それが明仁だ。
うん。
可愛い顔とおっとりした性格で気が付かなかったけど、ハルちゃんは確かにあいつの妹だよな。
叶太がハルは頭がいいっていつも言ってたけど、なるほど、だ。
もしハルちゃんに持病がなかったら、叶太、同じ大学に通えなかったんじゃなかろうか? うちの大学は医学部とか特殊な学部以外は割と何でも揃ってるけど、明仁なみに頭が良かったら、普通は外の大学に行くよな?
ことがことだけに良かったとも思えないけど……。
叶太、とにかく、置いてきぼりを食らわないよう頑張れよ。
「ハルちゃん、お疲れ様」
余裕を見て5分前に着くと、程なくドアが開き学生たちが外に出てきた。ハルちゃんはその中でも一番最後の方に出てくる。きっと前の方で真面目に授業を受けているのだろう。
「晃太くん、お待たせしました」
「大して待ってないよ」
相変わらず恐縮しまくりのハルちゃんに笑いかけながらそう言って、鞄に手を伸ばす。
一瞬申し訳なさそうな顔をするものの、ハルちゃんは、
「ありがとう」
と素直に言って渡してくれた。
「なになに、ハルちゃん、浮気? 旦那さまに言いつけちゃうよ~」
一緒に出てきたらしい女の子がからかうように言う。
「え? 違うよ~」
ハルちゃんが大きな眼を見開きながら、小さく左右に首を振った。
そうそう、違います。何しろ、そのハルちゃんの旦那さんに一生のお願いと頼まれてのことだからね。
「冗談冗談。叶太くん束縛きつそうだもんね。いいよ、大丈夫! 内緒にしてあげるから、たまには他の人とも話したらいいし」
叶太、お前ダメじゃん! 束縛はダメでしょ! しかも、色々勘違い入ってるっぽいし!
思わず吹き出すと、二人の視線が俺に向かった。
「ご、ごめんね」
思わず視線を外してくすくす笑いながら謝る。
「……晃太くん?」
ダメだ、止まらない。
「……うん。行こうか。次は一つ上の階だっけね?」
笑いながら、そっとハルちゃんの背を押し歩き出す。
ああそうそう。顔色は、……うん悪くない。俺の方を不思議そうに見上げてるハルちゃんにようやく笑いをかみ殺して笑顔を向ける。
都合、無視される形となったハルちゃんの友だちらしき子もついてくる。
いいのかな? エレベーター使うから遠回りだけど。
そう思っていると案の定、階段前で、
「ハルちゃん、上がらないの?」
と階段を指さす。
なるほど、ね。送り迎えをして欲しい、と繰り返し言っていた叶太の心配がどこにあるか分かった気がした。
エレベーターのない高校とは違い、事情があれば自由に使えるエレベーターのある大学。だけど、学生はできるだけ階段を使うようにと言われてることもあり、たった一階なら普通は階段を使う。
そして、ハルちゃんも余分な体力を使うとはいえ、一階分くらいなら階段の上り下りもできる。だから、同級生が一緒にいたら合わせるのだろう。
歩くのだって、普通の人の速度はハルちゃんには相当辛いはずだけど、教室移動くらいならと無理して付き合うのだろう。
その少しが一回二回ならともかく一週間積もったら、多分、ハルちゃんの心臓にはかなりのダメージなのだと思う。(叶太はその一回二回も許さないだろうけど)
「エレベーター使うから、ごめんね。急いでるなら、こっちからのが早いと思うよ」
ハルちゃんが階段を上ろうとする前に俺が言うと、その子は小首を傾げたが、
「そっか。ハルちゃん、階段ダメだっけね」
とニコリと笑った。
「分かった。お邪魔みたいだし、先に行くね。席は取っておくからゆっくりおいでね~」
その子は楽しそうな笑顔を見せると、数度手を振って軽やかに階段を駆け上がった。
「……えみちゃん」
別に邪魔じゃないよと呟き、呆然としているハルちゃんの隣で、俺はまた笑いをこらえる羽目となった。
ハルちゃんを送っていった後、自分の教室に駆け込みで入る。
ギリギリセーフ。隣の棟で助かった。
ハルちゃんはちゃんと誤解を解けただろうか?
そう思うと、また笑いがこみ上げてくる。
「広瀬? なんか面白いことでもあった?」
「いや、別に」
「……絶対ウソだろ、それ」
そんなに顔に出てるかな? うーん、出てるか。
「いやさ、面白いって言うか」
言いながら、また顔がほころぶ。
ああそっか、ちょうどいい。
「聞きたい?」
「聞きたい」
「じゃあお願い。昼休み、二人分席取っといてくれる?」
「ん? いいけど、二人分?」
そこまで話したところで先生が入ってきたので会話は終了。
ハルちゃんを迎えに行ってからだと食堂の席が心配だったけど、これで安心だ。
複数ある食堂やカフェのどこかは空いてるだろうけど、ハルちゃんをあちこち連れ歩くのはNGだろう。
二限終了後、ハルちゃんを迎えに行くと既に教室のドアが開いていて、学生たちが移動しを始めていた。ギリギリ間に合ったかな?
前の授業が昼休み前だからって少し早めに終わってくれる先生で助かった。
「あ、まただ」
ハルちゃんと一緒に出てきて「また」の言葉を発したのは、一限の後の女の子。
「あのね、えみちゃん」
ハルちゃんは困った誤解を解こうと、えみちゃんというらしい彼女に声をかける。
「えっと、……カナのお兄さんです」
「え?」
驚いて目を大きく見開いて俺を見たえみちゃんに笑いかける。
「はじめまして、は微妙に違うかな。叶太の兄です。いつも弟と義妹がお世話になってます」