空手のお誘い1
4月、カナとわたしは無事大学に入学した。
経営学部経営学科は2クラスあったのだけど、残念ながら同じクラスに高校までで仲のいい子はいなかった。
少しだけ不安に思いつつも、入学式の翌日と翌々日の二日間は、泊りがけのオリエンテーションキャンプ。
早い段階で、学生同士のネットワークを作らせようと言う意図で行われているみたい。
履修案内、グループワーク、キャリア研修、先輩たちとの交流会。二泊三日に色んなものが詰め込まれていた。
グループワークでは4~6人ずつに分けられて、色んなことをさせられた。ワークごとにグループのメンバーは変わり、その度に何度も自己紹介をするので、クラスメイトの顔と名前、ちょっとしたプロフィールは大体憶えられた。
とは言っても、大学のクラスってのは、あってないようなものらしい。だから、この後、ここで知り合った人たちと、どれだけ関係が深まるのか、今はまだ分からない。
オリエンテーションキャンプの翌日午前中は健康診断。わたしは病院から結果を提出すると言うことで参加せずに、家でゆっくりと休ませてもらった。
その日の午後からは学年懇親会。久しぶりに、しーちゃんや斎藤君、そして高等部のクラスメイトと会って、とても嬉しかった。
そして、入学5日目の今日は、大学全体のウェルカムパーティと、部活・サークル紹介。他にも学際実行委員などの紹介もあったりして、大学のキャンパスはちょっとしたお祭りみたいな感じになっていた。
必須参加とは言われていないけど、部活やサークルなんかが一堂に会するから、新入生のほとんどは来ているんじゃないかな?
私だって部活もサークルもする予定はなかったけど、それでも平日だったし、何となく来てしまったもの。
「ハル、大丈夫? 疲れてない?」
「ん。大丈夫だよ?」
各教室では色んな部活やサークルが、普段の活動の様子を見せてくれたり、動画や写真で活動を紹介してくれたり。
入る予定がなくても、見ているだけで結構面白い。
ただ、とにかく人がすごい。そして呼び込みもすごくて圧倒されてしまう。
まるで学園祭の日みたいな人混みの中、先輩方の元気な声が飛び交っていた。
「そろそろ帰ろうか?」
「カナはもういいの?」
「うん。入らないし、見るだけなら、もう充分楽しんだ」
カナはにこりと笑って、わたしの肩を抱いて引き寄せる。その瞬間、周りを見ることなく通り過ぎる4~5人の学生たち。
「危ないよな」
とカナはつぶやくけど、突っかかるようなことはしない。
そのままやり過ごすと、今度はわたしの手を取りゆっくりと歩き出した。
十幾つある校舎の中心辺りに位置する一棟が部活とサークルの紹介に使われていた。校舎を出ると、そこも、結構な人波だった。この道路脇にも、色んな部活・サークルがテントを出していて、興味がある部活やサークル前で立ち止まる人がいる。
校舎から大学正門の隣にある駐車場まではそんなに距離はないはずだけど、左右にテントが張られていたり、呼び込みの人がいたりで、道が狭くなっているせいもあるのかな、なかなか前へ進まない。
校舎内の通路と変わらないどころか、呼び込みが教室内じゃないだけに、飛び交う勧誘の賑やかな声はキャンバスいっぱいに響き渡る。
この人垣、どうやって通ればいいのだろう、と半ば呆然とするわたしの肩を抱き、人波からかばうように、カナは人と人の間をゆっくりと、だけど確実に抜けていく。
途中、渡されるチラシをうっかり一枚受け取ってしまうと、次から次に渡される。受け取れないものは、持っていたチラシの上に重ねられてしまった。
その時、カナの向こうから、「あ」と言う声がした。
「叶太!」
その明るい声にカナが足を止めたので、声のした方に目をやると、結婚式にも来てくれたカナの友だちがいた。確か、小学校の頃から一緒に空手をやっているという……。
「淳!」
「ここで会えるとは」
「ああ、すごい人だよな」
「今、いい?」
そう言いながら、谷村淳くんはカナを人垣の外、呼び込みをしている人たちの後ろ側に誘う。
「ハル、少しいい?」
「もちろん」
離れて待とうと一歩下がると、逆にカナに引き寄せられた。
「人がすごすぎてはぐれそうだから。ハルも一緒にいて?」
確かに、うっかり離れたらはぐれそうな気がする。
小さく頷くと、カナに肩を抱かれ谷村くんのところに連れて行かれた。
そうか、谷村くん、杜蔵学園大学に入ったんだ。カナは知ってたのかな? ……知ってるか。だって、毎週会ってるもんね。
「あ、ハルちゃん! 久しぶり。邪魔してごめんね?」
人混みから抜けたところで、わたしに気が付いたらしい谷村くんは、カラリと笑う。
カナと同じく長く空手をやっている谷村くんは、背の高さはカナとほとんど変わらないけど、カナよりもガッチリした体格をしていた。
「いいえ。ゆっくり話して下さい」
そう笑いかけると、谷村くんは少し困ったように頭に手をやった。
「えーっと、ハルちゃん。俺たち同い年だし、これからは同じ学校に通うんだし、できたら敬語じゃないと嬉しいな」
「あ、ごめんなさい!」
これまで数えるほどしか会ったことがなかったけど、これからは同じ大学に通うんだから、もしかしたら日常的に会うことになるかも知れない。
「そう言えば、そうだよね。えっと、じゃあ、敬語はやめるね」
「ありがと」
谷村くんはにこりと笑った。それから、カナに視線を合わせるととても嬉しそうに言った。
「叶太、空手部入らない?」
空手部?
そう言えば、大学から配られた一覧にあった気がする。
そんな事を思いながらも、話は聞かない方がいいかなと、わたしはカナと谷村くんから目を反らした。すると、新入生の勧誘をする先輩方が目に入る。今いる場所は、まさに空手部のブースの裏手だった。
もしかして、谷村くんは既に入部を決めたのかも知れないと思い当たる。
白い道着を着た先輩たちが、男女問わず十人近くいて、
「初心者も経験者も大歓迎でーす!」
とか言いながら、チラシを配っていた。
体格がいいとは思えない相手にも関係なくチラシは配られていた。初心者も大歓迎と言うのは、言葉だけじゃないのかも知れない。
「まずは、気軽に体験しに来て下さい! 見学も歓迎でーす」
そう言いながら、道行く新入生にチラシを渡しているのは、可愛い感じの女の先輩だった。
道着こそ着ているけど、とても武道をするようには見えない。けど、明るい笑顔にスラリと伸びた手足は見るからに健康そうに見える。
カナだって、知らなければ空手の有段者だなんて分からない。もしかしたら、この人も強いのかな?
そんなことをぼんやり考えていると、
「ハール」
トントンと軽く肩を叩かれて、我に返る。
「お待たせ」
声のした方を見ると、カナが笑顔でわたしの顔をのぞき込んでいた。
「何見てたの?」
「え? あの、空手部なんてあるんだなと思ったら、そこで勧誘してるみたいだったから……」
「見てたの?」
「うん。すごいね、あんな可愛い女の人でもやってるんだね」
わたしの感想を聞いて、カナはくすっと笑った。
「そんないかにも格闘家って感じの人は少ないかな」
「そうなの?」
「そうそう。うちの道場は普通っぽいひとが多いよな。ハルちゃんも一度見においでよ。道場でも空手部でも。って、空手部は俺も入ったばっかりだけど」
カナの向こうから顔を出した谷村くんが笑顔で会話に入ってきた。
「淳!」
なぜかカナがとがめるような声を上げた。思わず、ビクリと肩が震え、カナが「ごめん」と慌てて謝る。
「ううん。大丈夫」
だけど、カナが怒るのが分からない。谷村くんも不思議そうに声を上げた。
「なに叶太。見学、何か問題ある?」
「……いや」
カナが言いよどむのを見て、ふと思い出す。
過去一度だけ、カナが出る試合を見に行ったことがある。小学生の時だったかな?
そこで空手と言うものを初めて見たわたしは、その激しさに、誰かが誰かを殴ったり蹴ったりという状況に驚き、具合を悪くした。
力一杯蹴られた誰かが吹っ飛んでいくとか、誰かが誰かを連打しているとか、誰かが誰かを蹴り倒すとか、始めて、格闘技のそんな激しさを目の当たりにした衝撃で心臓の動悸が止まらなくなった。
驚きで硬直し、心臓のおかしな動きのせいで顔色が悪くなったわたしに、一緒にいた沙代さんとお兄ちゃんはすぐに気が付いた。
即座に、わたしは体育館の外に連れ出され、結局、せっかく行ったのに、カナの試合を見ることもできず、そのまま会場を後にした。
あれは競技であって、喧嘩とか殴り合いではない。だけど、あの時のわたしには、それがよく分からなかった。
そもそも、空手というのをよく知らないままに見に行ったのがいけなかったのかも知れない。
その後、試合の応援に誘われることはなくなり、その事に疑問を抱くこともないまま今に至る。
だけど思い返すと、何となくだけど、あれ以来、カナが空手の試合に出る回数は激減した気がする。中学生以降、激減と言うより、出ていないのではないかと言うくらい、聞かなくなったもの。
あの時、確かカナは県の強化選手に選ばれていたと聞いた気がする。その後、全国大会にも出たとか何とか。それって結構強かったんじゃ……。
……カナが試合に出なくなったのって、やっぱり、わたしのせいなのかな?
中1の冬にカナがバスケ部を止めたのはわたしのせいだと聞いた時にも同じようなことを考えた。
だけど、今ではそれはカナの選択でしかないと分かっている。カナには好きな道を選ぶ権利があって、ちゃんと考えた上で選んだ道なのだと分かっている。
でも、分かっているからといって、改めて気付いた事実はそう簡単に割り切れるものでもないんだ。
だから、わたし、表情が曇ってたのかな?
カナが少し困ったような顔をして、わたしをそっと抱き寄せた。
「えーっと、ごめん。俺、なんかまずいこと言ったかも?」
斜め上から、谷村くんの声が降ってくる。
「いや、大丈夫」
カナはわたしの頭を優しくなでながら、谷村くんに応える。
でも、大丈夫と言いながら、カナ、本当はぜんぜん大丈夫と思ってないよね?
気遣うようにわたしに触れる手が、カナの気持ちを伝えてくるんだ。
手のひらでカナを押し戻すようにして、その腕の中から抜け出そうとすると、カナは止めることなく腕の力を緩めてくれた。
「あのね、カナ、わたし、大丈夫だから」
カナを見上げてそう言うと、カナは心配でたまらないという表情を隠すことなく、わたしの頬に手を伸ばす。
「……ハルは、見たかった?」
「えっと、本当のところ、よく分からないのだけど。でも、一度ちゃんと見てみたい、かも」
正直にそう答えると、カナはまた困ったような顔をした。
「なんでダメなの?」
谷村くんが首を傾げてカナとわたしの顔を交互に見た。
「多分、…昔、カナの試合を見に行って、驚いて具合を悪くしたことがあって。だから、カナは心配しているんだと思う」
カナが言いにくそうにしていたから、わたしが代わりに答えてしまった。
背後からわたしを抱え込むようにしていたカナの腕にきゅっと力が入る。
「……だよね?」
見上げてそう聞くと、カナは諦めたように小さく頷いた。
「具合を悪くって、」
谷村くんも言葉を濁す。
わたしに持病があるのを知っているから、聞きにくいのかな?
「心臓の調子が悪くなって、結局、カナの試合は見られずに帰ったの」
「それは……大変だったね」
「ううん。大したことなかったんだよ? ただ、周りの人が心配して、誘われることもなくなって。で、結局それ以来、一度も見に行ってなくて」
カナが真面目な声で口を挟んだ。
「オレも心配。だから見なくていいよ」
「もう大丈夫だよ?」
「本当に大丈夫かなんて分からないし」
「だって、あの時は子どもで、何も知らなかったから」
「理性と感情は別物だから」
何が何でも見たいと思っていたわけじゃない。何しろ、今日までの長い間、そこに何の疑問も持っていなかったのだから。
ただ、改めて見たいかと聞かれたら、見てみたいと思うのは自然な気持ちだった。だってカナが、大切な人が十年以上続けてきたものだよ? 見たいと思ったっておかしくないと思う。
だけど、ここで言い争うのもごり押しするのもおかしいと思ったら、もう言葉が出てこなくなった。
その微妙な空気を感じたのか、谷村くんが、
「あーもうなんか、ごめん!」
と両手をパンッと合わせて、頭をぺこりと下げた。
谷村くんの朗らかな人柄のおかげかな? なぜか、一瞬で重い空気が飛んでいく。
カナも小さく息を吐いた後、
「いや、オレの方こそ悪かった」
と、固くなっていた表情を崩して、谷村くんに謝った。
「じゃあ、オレたち行くな。立ちっぱなしはハルも疲れちゃうし」
「ああ、悪かったな、呼び止めて」
谷村くんはそう言うと、にっこり笑ってカナの肩をポンと叩いた。
「じゃ、叶太、入部考えといてな。まずは体験来いよ」
「いや、オレ、それさっき断ったよな?」
「まあまあ」
まあまあじゃないし、とカナがぼやく。
「とにかく、またな」
「ああ、今度飯でも食おうぜ」
「機会があったらな」
谷村くん誘いにカナはつれない答えを返した。
「いや、機会作れよな?」
その言葉には答えず、カナは笑いながら軽く手を上げ、歩き出す。
「ハルちゃん、長い時間ごめんね。また会おうね!」
後ろから飛んできた言葉に、少し振り返って肩越しに返事を返す。
「うん。……なんか、ごめんね」
バイバイと手を振ろうと上げたのだけど、カナに肩を抱かれていてうまくいかず、谷村くんはそんなわたしたちを見て、面白そうに笑っていた。