番外編2 助手席からの景色
春の花が咲き誇るにはまだ少し早い3月。
卒業式が終わり、大学が始まるまでの何にも縛られないゆったりした時間。
リビングでオレの入れたフルーツティーを飲みながら、ハルが不意に言った。
「ねえ、カナ」
「ん?」
返事ついでに隣に座るハルに手を伸ばす。
指先に触れて、そっと手を取り握ると、ハルはクスッと笑みをこぼす。
「あのね」
「うん」
今日もハルは可愛い。
抜けるような白い肌を彩る柔らかい髪がふわりと揺れる。
暑すぎず寒すぎずの身体に優しい気候で、学校も宿題もないストレスフリーの毎日のおかげか、ハルの体調も落ち着いていて、頬にも赤みがさしている。
「カナの運転する車に乗りたいな」
「……え?」
思いもかけない言葉に、思わずまじまじと見返してしまう。
そんなオレの反応が意外だったようで、ハルは小首を傾げ、困ったような表情になりオレを見返した。
「えっと……無理なら良いんだけど」
「あ、ううん。全然、無理じゃないよ」
免許は持っている。
うちの高校は当然のように運転免許取得は原則禁止。
だけど、結婚だって許してくれる学校が、筋を通して頼んだことをダメと言うわけもない。まあ、オレが言っても断られる可能性大って事で、お義父さん経由で頼んだのは、自分でもちょっと裏技使ったなとは思っているけど。
そんな訳で、去年の秋、手術後のハルの容態が落ち着いた後に自動車学校に通い始めて、今年の一月には無事、免許をもらった。
「ただ、ハルが車に乗りたいって言うなんて、珍しいなって」
そう。昔からハルは乗り物酔いがひどくて、車は苦手だ。
小学生の終わりくらいだったかな。身体に合う酔い止めが出たみたいで、今では体調が良い日なら酔わずに乗れるようになったけど、それも通学程度の距離の話。長時間になると最後まで気持ちよく乗るのはとても難しい。
長時間乗るのは学校の校外学習と夏の別荘への移動くらいだけど、毎回、相当辛い思いをしているはずだ。
ああ、でも、もしかしてバスがダメなのと、夏の暑さでそもそも体調がかなり悪い状態からの移動が問題なのかも。
だったら、体調も気候も良い今の時期なら大丈夫?
「ハルがいいなら、喜んで」
反射的に笑顔で答えてはみたものの、オレの頭はフル回転。
途中でハルの具合が悪くなったらどうするんだとか、いやいや、いつでも車を止められる場所を選べば何とかなるんかじゃないかとか。
「いいの?」
心配そうにオレを見ていたハルが、オレの返事を聞いて、嬉しそうに花がほころぶような柔らかい笑顔を見せる。
「もちろん!」
うん。とにかく、万が一のために行き先と行き方と道中の状況をガッツリ下調べして、ハルの体調の良い日にすれば何とかなるだろう。
何とかなると言うか、何とかする!
そもそも、オレには、滅多にないハルのおねだりを却下するなんて選択肢はないのだった。
☆ ☆ ☆
その週末。オレの隣には、とっても微妙な顔をしたハルがいた。
「……今日、大丈夫だったら、次はどこか、ほんの少しでいいから遠いところに行ける?」
オレがハルを気づかって選んだ場所だと分かっているから、ハルは決して文句は言わない。
ただ、珍しく更なるリクエスト。
「うん、もちろん!」
真顔で力強く頷くとハルは苦笑い。
「ごめんね、無理言って」
「いや、オレこそごめん。……何というか、まだ免許取って日が浅いし、いきなり遠出は怖くて」
思わず言い訳がましい言葉を口にするけど、これも半分詭弁。
ハルは乗せていないけど、兄貴に付き合ってもらったりで、車の運転はボチボチ練習していて、ハルもそれは知っているから。
オレが怖がっているのがハルと二人でのドライブだって、ハルは分かっている。
だって、オレが運転していたら、ハルが具合が悪くなっても、すぐに対応できないし、運転中にハルばかり気にしていたら危険だし……。
やっぱり、近場からスタートは基本だよな?
「ハル、シートベルト締めた?」
自分のシートベルトを締めながら、ハルの様子を伺う。
「うん、今……」
いつもと違うシートベルトを少しもたつきながらハルもカチャッと締める。
運転席にオレ。助手席にハル。
同じ車の中で、ハルとの間に、いつもはないギアがあり、目の前には前の座席の背中ではなく外の景色が広がっている。
ものすごい違和感。
だけど、ものすごくワクワクする。
例え、行き先が車で5分の距離の牧村総合病院だとしても。
「じゃあ、出発しようか」
「うん。よろしくお願いします」
ハルはきっと心の中では色々と思っている。だけど、何も言わずに優しく笑った。
およそ5分後。
ハルが頰を上気させて興奮気味に言った。
「助手席って、スゴイね!」
駐車場に停めた車の助手席には、車に酔うどころか、嬉しそうに満面の笑顔で話すハルがいた。
「気に入った?」
「とっても! 景色がドンドン近づいて来て、いつもの道なのに、まったく違って見えて」
「怖くはなかった?」
そう聞くと、ハルはスッと真顔になった。
「……あのね、いつもの道だったから大丈夫なんだけど。何ていうか、次々に車が近づいて来て、信号のところには人も立ってて、……正直、ちょっと怖かったし、ドキドキしちゃった」
「そっか」
ハルが眉根を寄せてそっと胸を押さえるのを見て、行き先を近場、しかも何かあっても即対応可能な病院にして大正解だったと心から思う。
さすがに、ただ道を走るだけなら大丈夫だと思う。
だけど、事故を目撃しちゃうとか、事故にはならなくても衝突寸前の状況を見たら、健康な人間でも普通に心臓バクバク状態になる。
そんな状況では、ハルは不整脈の発作を起こす可能性が高い。
やっぱり、車は運転手さんに運転してもらって、ハルはオレと一緒に刺激の少ない後部座席で……。
「でも……近くで良いし、病院だけでも良いから、また乗せてくれる?」
オレの心配に気付いているのか気付いていないのか、ハルは小首を傾げ、伺うようにオレを見上げた。
滅多な事で何かをねだったりはしないハル。今回みたいなのは本当に珍しい。
「じゃあ、ハルが元気な日の通院はオレが運転しようか」
そう提案すると、ハルは本当に嬉しそうに笑った。
「うん! ありがとう、カナ!」
ああ。ダメだ。
ハルの笑顔には逆らえない。
「それと、今度、調子の良い日にどこか、近場に出かけてみる?」
「いいの?」
聞き返すハルの目はキラキラと期待に輝いていた。
「もちろん!」
そう答えながら、オレの頭はまたフル回転。
さあ、次の行き先はどこにする?
「ハルはどこか行きたいところある?」
そう問いかけ、ハルが何やら考えている間に、車を降りて助手席に回ってハルをエスコート。
助手席のドアを開けて手を差し伸べると、ハルは、
「ありがとう」
とふわりとした笑みを浮かべた。
ああ、なんか、このシチュエーション、すごく新鮮!
思わず立ち上がったハルを抱きしめてキスを落としてしまい、ハルに叱られながらもオレの心はどこか浮き立っていた。
ハルはどこに行きたいって言うかな?
まずは毎週の通院でオレの運転に慣れてもらって、大丈夫そうなら学校の側のカフェでお茶でもしてみるとかどうだろう?
その後、少しずつ距離を伸ばして、ハルの行きたいところに行くんだ。
ゆっくりと院内へ向かって歩きながらハルとのデートに思いを馳せていたら、エレベーター前で立ち止まった瞬間、ハルが、
「カナ?」
と不思議そうに声をかけて来た。
「ごめんごめん。ハルとどこに行こうか考えてたら、なんか楽しくなっちゃって。……ね、ハル。行きたい場所が見つかったら教えてね?」
繋いだ手をキュッと握りながらそう言うと、ハルは、
「うん。考えてみるね!」
と、オレを見上げて、今日一番の笑顔を見せてくれた。
(完)




