エピローグ1
「……ったく。お前がついていながら」
いつの間にか梅雨も明け、季節は初夏となり、窓の外には晴れ渡る青い空。
ベッドにはスヤスヤ眠るハル。顔色も呼吸状態も悪くない。
朝ご飯も昼食も、完食とはいかないけど八割方食べられた。
そんなハルを遠目に見ながら、病室のソファでオレは明兄に絶賛叱られ中。
「ごめんね」
オレは言い訳することもできずに、うなだれるしかなかった。
春から続いたあれこれに片が付いたその夜、つまり山野先生の研究室に行った日の夜、ハルは体調を崩した。
張りつめていた緊張が解けて、疲れがどっと出たようで、夜中に発作を起こして救急搬送。
入院後も不整脈がなかなか治まらないし、熱は高いし、本当に心配した。
だけど、ようやく昨日、点滴も酸素マスクもすべて取れて、このまま何事もなければ明日には退院予定。
明兄がハルの様子を見に帰郷したのは、そんな土曜日の午後だった。
「大体、お前、なんで相談して来なかったの?」
あ、それで怒ってるの、明兄?
「山野、だっけ? 叩けば幾らでもホコリが出るだろ」
確かに明兄に相談したら、いつの間にか担当の先生が変わってるとか、十分にありそうだ。
実のところ、それも考えないではなかった。
「……でもさ、ハルがあんまり楽しそうだったから」
オレの言葉を聞いて、明兄は眉をひそめた。それから、ハルの方に目を向けると、ふうっと長く息を吐く。
「……まあ、な。確かに楽しそうにしてたな」
ハルはけっこうマメに明兄と連絡を取っている。
兄貴からも色々聞いているだろうし、きっと明兄はオレが思ってる数倍は色んなことを知っているのだろう。
って言うか、ハルの気持ちなんかは、もしかしたら、オレよりもよく知っているかも知れない。
そう思うと、何だか悔しい。
だけど、多分、ハルが気軽に相談できる相手がいるってのは、すごくいいことで……。だから、オレにはヤキモチを焼く権利もない。
そうは思っても心から納得してる訳ではなくて……。
なんて、思わず物思いにふけっているオレにはおかまいなしに、明兄は話しを続けた。
「だけどな、叶太。……間違えるなよ」
真顔で明兄は、オレをじっと見つめた。そうして、オレが居住まいを正すのを待って、おもむろに口を開いた。
「陽菜がどうしたいかは確かに大切だ。……けどな、それよりも、陽菜の身体の方が大切だからな」
明兄は静かに、そしてゆっくりと言い聞かせるようにそう言った。
ハルがどうしたいかは大切。
だけど、それよりも、ハルの身体の方が大切。
……だよな。
ズシンと心が重くなる。
月曜日の深夜、胸を押さえて苦しんでいたハルの姿が脳裏に浮かぶ。呼吸が上手くできなくて、呼びかけても、ハルは返事をすることすらできなかった。
救急車を待つ間、オレにできるのは名前を呼び続けることと、背中をさするくらい。
オレだって分かってた。
本当はもっと早くに止めなきゃいけなかったんだ。
家族の中で一番に過保護なのはオレだと思う。いつもだったら、ここまで待たずに止めていた。
今回だって気をつけてはいた。
気をつけないはずがない。
……だけど、今回は……やっぱり、間違えたんだよな。
オレがうなだれているのを見て、明兄は
「まあ、済んだことはいいさ。大事には至らなかったし、今後、何があっても、卒業まではこぎ着けそうだしな」
とニヤリと笑った。
「えーっと、それって……」
どういう意味なんでしょうか、明兄?
「山野准教授のことを新聞沙汰にもしないし、週刊誌にも売らないし、ネットに書き込むこともしない。大学側もそりゃあ感謝するだろう?」
……明兄が黒い。
思わず絶句すると、明兄はとっても綺麗な笑みを浮かべた。
……これ、何考えてるか知らなかったら、イケメンの極上の笑みって思うんだろうか?
そんな事を思うくらいには、明兄は楽しそうに輝く笑顔を見せる。
「……でも、そこまでの事かな?」
確かに、嫌がらせはされていたと思う。だけど、もしハルに持病がなければ、今でも普通に楽しく勉強を進めていたかも知れないくらいには、ハルは楽しそうだったし、出された課題を解くことには困っていなかった。
そういう意味では、悪質ではあったけど、山野先生の目論見は外れていたとも言える。
「叩けば幾らでもホコリが出るって言っただろ?」
あきれたようにそう言い、明兄は鞄の中から、A4サイズの封筒を取り出すと、ポンとオレの方に投げて寄越した。
「……ん? これ」
テーブルの上に置かれた封筒には以前、どっかで見た覚えがある探偵事務所の名前が印刷されている。
一体、いつの間に?
封筒に手を伸ばすと、オレが中を見る前に、明兄は叩いて出たらしいホコリについて話し始めた。
「事務員の女性、大学院生が数名、メンタル病んで退職に追い込まれたり、退学してたりするぞ。いずれも顔やスタイルのいいリア充の若い女性」
「……え?」
思わず身を乗り出すと、明兄は
「打たれ弱いヤツも中にはいたかも知れないけどな」
と言って、肩をすくめる。
「陽菜があそこまで頑張ったくらいだし?」
「……確かに」
本気のメンタルを攻撃が、あれくらいで済むわけはない。
ハルがされたのは、パワハラ一歩手前の嫌がらせレベルだった。
普通ならやり切れない無理難題だったとは言え、ハルにはこなせる内容だった。嫌味は言われていたけど、素直で人を疑うことをしないハルにはあまり通じていなかった。
「まあ、寄付金とか、一応気にかけて陽菜には手加減してたって可能性もないではないけど?」
「……うん、そうかも」
相づちうちながら、思わずため息。
自分の甘さがイヤになる。
一歩間違えば、ハルだって退学に追い込まれるくらいのひどい目に遭わされていたかもしれない。
相手がそこまでする人間だったとしたら、オレはもっと早くに手を打たなきゃいけなかったんだろう。
「読まないの?」
落ち込んでいると、明兄はオレが手にしたままの封筒を指し示した。
「あ、読む」
既にザックリ聞いたとは言え、やっぱり気になる。
うわ、事務の人、3年前にやられて今でも心療内科に通ってるんだ……。
院生は、研究者への道を断念して、一般企業に就職、か。
あ、これはひどい。悪口を広められて、集団いじめに発展。子どもか!?
三十五歳で結婚を考えていた男性と別れて以来、性格が更にきつくなったとか、よく調べてあるなぁ。
……ん?
って、調査開始、五月かよ!?
「なに?」
「いや、明兄、ずいぶん早くから山野先生に目を付けていたんだね」
「晃太が心配してくれてたから、念のため調べてみた」
「……念のため」
明兄、念のために一体、幾らかけてんだ。
「役に立っただろ?」
オレの心を読んでか、明兄はあきれたように言う。
「ってか、明兄、これ使うの!?」
「親父にはもうとっくに渡してある。有効に活用してくれたと思うけど?」
明兄はまたにっこりと極上の笑顔を見せた。
……ああ。明兄が限りなく黒い。
ハルが倒れた翌日、つまり、オレたちが山野先生の研究室に行った翌日の夜、早速、学長、学園長、久保田教授が三人そろって謝罪に来た。
その場にはオレも同席したけど、お義父さんは、こんな調書の事なんて何も持ち出さなかった。
……ああ、でもそう言うことか。
と納得する。
「……だから、いきなり懲戒免職だったんだね」
正式には学内調査をしてからだけど、まず確定だと言っていた。
きっと、事前に送ってあったんだ。
オレにとっては許せないことだけど、世間的には学生にちょっと厳しく指導した程度なのに、罰が重すぎると思ったんだ。
「一刻も早く、陽菜の前からは消えてもらいたかったからね」
明兄はそう言うと、スッと立ち上がってハルの元へと向かう。
そして、枕元の椅子に座ると、愛しげにハルの長い髪を手に取った。オレはそんな明兄の後ろからハルを覗き込む。
ふんわり柔らかな雰囲気のハルと、硬質な空気で全身を覆っているような明兄の間には、兄妹だけどあまり似ているところがない。
少し茶色がかった緩いカーブを描くハルの髪に対して、明兄は漆黒のストレート。黒目がちの大きな目をしたハルに対して、切れ長の目をした明兄。
どちらも、ちょっと見ないくらい整った綺麗な顔をしているけど、まるで系統が違う。
「明兄」
「……なに?」
オレが知ってる限り、明兄に彼女がいたことはない。
だから、不安になるのかな?
ハルはオレの奥さんなのに。
「彼女できた?」
「それは、どういう質問?」
……明兄の冷たい視線が刺さる。
「あ……いや、ただ何となく」
「なるほど?」
オレを一瞥して、明兄はハルに視線を戻す。
あー、で、結局、質問には答えてくれないのね。
明兄がハルの頭をそっとなでているのを眺めつつ、諦めてソファに戻ろうと踵を返したところで、明兄が言った。
「彼女が欲しいと思ったことは、今まで一度もない」
「……え?」
明兄の言いたいことが分からない。
「だから、彼女を作ったことはない。……はっきり言って、鬱陶しい」
「ん?」
「言い寄ってくる女」
「……ああ」
明兄くらい優良物件だと、そりゃ、色々アプローチも受けるだろう。そして、そういう条件に釣られてくるような女は、正直鬱陶しいに違いない。
「どうせいつかは結婚しなきゃいけないだろうとは思ってる。だけど、それまでは自由にさせてもらうつもり」
自由に女遊び、じゃないよな。自由に……何をするんだろう?
自由に……ハルを可愛がる?
え? もしかして、思う存分、ハルを可愛がらせろ、ってこと!?
明兄は小さくため息を吐くと、静かに立ち上がった。
そして、おもむろにオレの頭をガツンと殴って、そのままもう一度イスに座る。
「えっ! なに?」
「そんなに不安そうな顔するな」
明兄はわざとらしくため息を吐くと、呆れたように
「お前、陽菜の夫だろ」
と言った。
「年に数回、妹をかまうくらいさせろ」
「……あー、うん。……ごめん」
少しばかり大きな声で騒いだからか、ハルが目を覚ました。
「……ん」
ハルの長いまつげがふるりと何度か震えて、程なく目を開ける。
「おはよう、陽菜」
ハルは至近距離に明兄を見つけると、とっても不思議そうな顔で何度か瞬きした。
「……あれ? ……お兄ちゃん?」
今日の明兄の訪問は抜き打ちで、オレも来るまで知らなかった。
ハルはそこにいる明兄が本物かどうかを確かめるかのように、明兄に手を伸ばした。
明兄はそんなハルの手を取ると、とろけそうな優しい笑顔を向ける。
いつもの明兄しか知らなかったら、こんな表情見せられたら一発で落ちるだろうってくらいの愛に満ちた笑顔。
これを見せるのが妹だけっつーんだもんな。
「具合はどう?」
「うん。もう元気だよ」
「元気はないだろ」
そう言いながら、明兄はハルの頭を愛しげになでる。
確かに元気と言える程、調子が戻っている訳ではない。だけど、ハルは明兄に笑顔を見せる。
「でも、明日には退院予定だから」
本当なら、もう少し入院しておいて欲しいと言われたのだけど、学校に行きたいからとハルが無理を通した。春から二度目の入院だし、それ以外にも欠席が募っていて、出席日数が心配らしい。
「そっか。無理するなよ?」
「うん」
ハルが身体を起こそうとすると、明兄はリモコンを手にとって背もたれを起こす。
「ありが…とう」
ハルは手を口元に持って行くと、ふわぁっと小さなあくびをした。
「ハル、何か飲む?」
時刻はまもなく午後三時。
お茶にはちょうどいい時間だ。
「あ、カナ」
明兄の後ろにオレの姿を見つけて、ハルはニコッと嬉しそうに表情を緩めた。
明兄の背中から、若干の怒りを感じる。
……ごめん。
もしかして、オレ、邪魔?
たまの兄妹の時間、邪魔するな? だよね~。
ただでさえハードな医学部のしかも最終学年。本当なら、何時間もかけて帰郷してる時間なんてないよな。
そんな中、ハルのことを忘れず、気にかけてる明兄。
やっぱり、年数回程度のハルとの貴重な時間、邪魔しちゃダメだよね。
「えーっと、明兄もなんか飲む? 用意するよ」
「じゃ、豆轢いて入れたコーヒー」
……明兄、それ多分、嫌がらせだよね?
「ごめん。それはない」
「用意しとけよ」
「んー、でも、コーヒーはハル、飲まないしなぁ」
ね、ハル?
と明兄の後ろからハルをのぞき込むと、ハルは少し困ったような表情。
まさか、ハルが豆も用意しておけって思ってるなんてことはないだろうし、明兄の無茶ぶりに困っているのだろう。だけど、明兄がオレに無茶を言ったりからかったりするのは、割といつものことだからか、ハルは何も言わなかった。
「でも、ドリップコーヒーならあるよ」
そう伝えると、明兄は仕方ないとばかりに、
「それでいい」
と言う。
「ハルは何がいい? ピーチティーとかストロベリーティーとか、後、カモミールティーとかもあるよ」
「えーっと、……お水でいいよ?」
「水? 麦茶もあるけど」
「じゃあ、麦茶」
「了解。ちょっと待っててね」
オレは明兄の横から手を伸ばして、ハルの頭をなで、明兄に小突かれる前にスッと手を引き、ミニキッチンへと移動した。
お湯の準備をしながら二人の方を見ると、明兄は慈愛に満ちた優しい表情でハルに何か話しかけていた。
兄貴なら幾らでも邪魔できるけど、明兄がハルを可愛がるのは邪魔できない。二人の間には、オレよりも長い歴史がある。正真正銘、この世に二人きりの兄妹なわけだし……。
それに、なんか、明兄からハルを取り上げたらダメだって、そんな気がするんだよな。オレが明兄を邪険にしたら、ハルも困るだろうし。
仕方ないだろ?
オレは明日も明後日もその次も、ずっとハルと一緒なんだから。
そんな事を自分に言い聞かせながら、オレはコーヒーと麦茶の準備をしながら、二人の様子をそっと見守るのだった。
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