断罪の時
「なんで、兄貴だけ……」
夜九時過ぎ。
目の前にはハルちゃんが眠った後、実家に戻ってきて愚痴を言う弟、叶太がいた。
本人も、ハルちゃんの意志が固いのは分かっているみたいで、俺にどうしろとは言ってこない。
だからこそ、むしろ不憫でつい笑いが漏れる。
「……ひっど。笑うかなぁ」
ふてくされて、リビングの机に突っ伏しながら、叶太はつぶやく。
「まあまあ、ハルちゃん一人で行くよりはよかっただろ?」
「そう、それ! 兄貴を連れてくなんてやめてよとか、連れてくならオレにしてとか言って、じゃあやっぱり一人で行くって言われたら大変だから諦めたんだからね?」
なるほど。
やけに諦めが早いと思ったら!
「だから~、なんでそこで笑うかなぁ」
「いやごめん。ホント、ぶれないなって思って」
いかん。
……笑いがおさまらない。
「ちょっと、兄貴……」
「悪い悪い。えっと……で、何の用だっけ? 愚痴を言いに来たんじゃないよな?」
「そう。打ち合わせをしておきたくて」
「打ち合わせ?」
「うん。だって、月曜日に行くことになったでしょ?」
今日の午後、早速、山野先生に聞いてみたところ、月曜日の夕方ならと返事をもらった。
なんで俺の妹がって思ったみたいだけど、日時だけが決まったタイミングで先生に電話が入ったため、話はアポ取りまでで終わった。
「ああ。月曜日の四時半」
「だったら、すぐだからさ、ちゃんと打ち合わせしなきゃと思って」
「いや、……なんの?」
「え!?」
叶太が信じられないものを見るような目で見てくる。だけど、悪いけど何の事やら。
「俺はハルちゃんに付き添って、隣に座ってればいいよな?」
叶太はそんな俺の答えを聞くと、驚いたように目を見開いて俺を見てきた。
叶太の眼力は、けっこう強くて焦る。
まさか、兄貴、冗談だよね?
副音声で叶太のそんな声が聞こえてきそうだ。
結局、俺はコイツに甘い。そう思いながら、気が付くと俺は苦笑しつつも、
「……で、叶太は俺に何をさせたいの?」
と口にしていた。
☆ ☆ ☆
「……え? 牧村さん?」
俺がドアを開けてハルちゃんを中に通すと、山野先生は珍しくポカンと無防備な顔を見せた。
「こんにちは。今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ハルちゃんはとても丁寧に頭を下げた。
「え? 広瀬くんの、妹、さん?」
「はい」
直前まで緊張した空気を身にまとっていたハルちゃんは、今は肝がすわったのかとても落ち着いた笑顔を見せた。
妹違いではあるけど、わざわざ訂正する必要はないだろう。ハルちゃんが俺の義妹なのは確かだし。
「えっと……どうぞ」
困惑気味の先生にソファを勧められて、俺はハルちゃんの背を押してソファへと導く。
うちの教授の無骨な研究室とは違って、山野先生の研究室は中々洗練されている。小ぶりなソファは多分日本製の有名メーカーのもの。ここの家具は座り心地が良い。
「失礼します」
二人で席に着く頃には落ち着きを取り戻したらしい先生は、
「で、今日は何かしら?」
とにこりと笑った。
ハルちゃんはゆっくりと一つ息を吸うと、まっすぐ先生を見て告げた。
「先生にいただいている課題のことで相談があります」
「課題? 個人課題かしら?」
動じることもなく先生は微笑を浮かべたままに答えた。
「はい。あの課題を止めていただきたくて」
「止める?」
眉根を潜めた山野先生から出てきたのは不機嫌そうな声。
嫌な空気が流れる。
「それは、あなただけを特別扱いしろ、と言うことかしら?」
先生が醸し出すのは威圧感。
ハルちゃんが小さく息をのんだ。
不意に、ああ、これか、と思う。
以前、山野研究室に所属する友人が、
「サバサバしたイメージがあるだろうけど、山野先生、結構怖いぞ」
と話すのを聞いたことがある。
「いや、怖いと言うより、ねちっこい、かな」
友人はそうも言っていた。なるほどだ。
これはハルちゃんにはキツいだろう。俺が話した方がいいかも。
そう考えた瞬間、ハルちゃんが口を開いた。
「申し訳ありませんが、お願いします」
そう言って、ハルちゃんはとても丁寧に頭を下げた。
それに対して、先生はわざとらしくため息を吐く。
「私の授業の単位はいらないと言うことかしら?」
「いえ、まさか!」
「じゃあ、やるべきことをやりなさい」
鼻で笑うように、先生はハルちゃんを一瞥した。
「特別扱いはしません。……話がそれだけなら、もういいかしら? 私もそう暇でもないのよ」
何がおかしいのか、ハルちゃんを見てバカにするようにくすっと笑ってから、先生は俺に視線を向けた。
「広瀬くんも妹さんの言うことを真に受けてないで、大学の勉強は高校とは違うと教えてあげなさいよ」
「いえ、先生……」
と俺が続けようとすると、ハルちゃんがそれを止めるように、俺の腕に手を置いた。
「先生、でしたら、他の子たちと同じ課題をください」
続くハルちゃんの言葉に、先生は一瞬虚を突かれたような顔をした。まさか反撃があるとは思わなかったらしい。
それは、俺も同じ。ハルちゃんが誰かに刃向かったり言い募ったり、そう言うことができるとは思ってもみなかった。
「他の子と、同じ?」
だけど、先生もすぐに気持ちを立て直したようで、不遜な表情が戻る。
「悪いけど、習熟度をみて課題を選んでいるの、そもそも全員に同じものを渡している訳じゃないわ」
確かに、建前はそうだろう。
だけど、あれはやり過ぎじゃないだろうか?
「そう授業の中で説明したと思ったけど? まさか、牧村さん、聞いていなかったのかしら?」
先生はそう言うと、また、ため息を吐いた。
「……いえ、説明はしていただいています」
「じゃあ、話は終わりで良いわよね? 先々週の課題は明日出してもらえるのかしら? まさか、課題を解くのが面倒で話しに来たのではないわよね?」
あまりに失礼な物言いに、さすがの俺もムッとする。
なのに、言い返そうとした瞬間、ハルちゃんがまた俺を止めた。俺の動きを押さえたハルちゃんの手は、ひんやり冷たかった。
「解くのが面倒な訳でも、解きたくない訳ではありません。頂いている課題は明日出すつもりでいます」
固くこわばったハルちゃんの声。
「ならいいじゃない」
「……体調が良くなくて、とても個人課題までこなしきれないので、本当に申し訳ないんですが、免除してもらえないでしょうか?」
ハルちゃんはもう一度、とても丁寧に頭を下げた。
「体調、ねえ? あなた、ずっと二週間以内でいいところを毎週出していたわよね? 今回みたいに、これからは倍の時間をかければいいだけじゃないかしら?」
山野先生は吐き捨てるように言う。
確かに、倍の時間をかけていいのなら、何とかこなせるのかも知れない。
だけど、それでも無理だと思ったから、ハルちゃんは今ここにいるのだと、なぜ先生には分からないのだろう?
少しの沈黙の後、ハルちゃんは話し始めた。
「わたしの持病は、気温が上がって来るこれからの季節、徐々に悪化します」
とても静かに語られるハルちゃんの言葉を聞いても、先生のふてぶてしい表情に変化は現れなかった。
「多分、まともに大学に来られる日が少しずつ減っていきます」
「それが、私に何の関係があると言うの!」
先生が激昂したように、ドンッと机を叩いた。
その動きと音に、ハルちゃんはビクッと身体を震わせた。
「できないなら、できないでいいでしょう!」
「先生」
これはさすがに、と思って口を挟もうとしたのに、ハルちゃんから止められる前に、山野先生が早口に言葉を続けた。
「できなかったから出しません、って、そう言えば済む話じゃないの!?」
そこまで声を荒らげて怒鳴った先生は、フウッと息を一つついて、それからハルちゃんを見据えた。
「で、課題を出さなくて、それで単位を落としたって、それは仕方ない話よね」
いや、それはダメでしょう。
山野先生の授業は単位を落としたら留年が決まる必修科目だ。
だけど、そもそもハルちゃんは一年次に必要なだけの知識は既に持っている。それを三年や四年で学ばせるような課題を出して、できないから留年させるって、おかしいだろう!
話にならない。
隣に座るハルちゃんは、先生の発言を聞いて固まっていた。
ただでさえ白い顔が蒼白になっている。
もうダメだ。ハルちゃんを連れて部屋を出よう。
だけど、そう考えた瞬間、ハルちゃんは静かに言葉を発した。
「……先生は、何をしたいんですか?」
「……は?」
ハルちゃんの言葉に虚を突かれたように、先生は息を飲んだ。
先生が答える前にハルちゃんは続けて問う。
「先生は、わたしに、何をさせたいんですか?」
「何を……って」
やはり答えられない山野先生。
きっと、何をしたいのでも、何をさせたいのでもなくて……。
「先生は、わたしの何が、気に入らないんですか?」
ハルちゃんが三つ目の問いを投げかけた瞬間、山野先生の中の何かがパリンッと音を立てて壊れた気がした。
「何が気に入らないか、ですって?」
忌々し気にハルちゃんを睨みつけた先生の表情は、とても教育者とは言えないような醜いものだった。
「全部よ、全部! どれもこれも気に入らないったらないわねっ!」
「……例えば?」
ハルちゃんが冷静な声で受け答えしているのが信じられない。
もう部屋を出ようと、その手を取るのに、ハルちゃんは気にすることもなく真っ直ぐと先生の目を見て聞く。
「例えば? そんなに聞きたければ教えてあげるわよ!」
吐き捨てるようなセリフの後、先生は不機嫌を全面に押し出した声で続けた。
「事務局から、特別な配慮を頼むと言われるから、どんな病弱な子が入って来るかと思ったら、ブランド物に身を包んだお嬢さまで? なんと高校生で学生結婚していて、夫からは溺愛されていて?
配慮、配慮。あんまりうるさいから調べてみたら、多額の寄付金ですってね。
寄付金の出どころを調べてみたら、夫の家と同い年の夫から? ふざけんなって感じよね。大学を何だと思ってるの? 楽して通いたいなら、うちじゃなくて、もっとレベルの低いところを選びなさいよ。
で、腹が立って入学時の成績を調べたら付属の高等部からの進学で? 高等部の成績はトップクラスで、入試も学部で一番の成績。配慮、配慮って、どこに配慮なんて必要なのよ。ズルをする必要なんて、どこにもないじゃない!
課題を出せば、どこに配慮が必要なのか分からないくらい完ぺきな回答を出してくるし、試しに、他の子より難しい課題を出したら、それにもまた馬鹿みたいに完ぺきな回答を出してくるし。
三年や四年で習うような内容すら、あなた、完ぺきに理解しているじゃない? 理解、なんて生易しいもんじゃないわよね。あなた、私の授業を受ける必要って、ある? きっと、ないわよね?」
先生は一気にここまで言うと、フウッと大きく息を吐いた。
論理も何もあったもんじゃない。
それは、多分、ただ、ハルちゃんが豊かな家庭に育ったのが気に入らないというだけ、ハルちゃんが頭が良いのが気に入らないというだけの話で……。
「ああ、そうそう。こんな場所にまで付いてきてくれる優しいお兄さまもいらっしゃるのよね。今日は旦那さまじゃなかったのね。同い年の旦那さまより、院生のお兄さまの方が心強かったかしらね?
今度は、広瀬コーポレーションの社長から圧力がかかるのかしら?
ホント、世の中には、こういう苦労知らずのお嬢さまもいるのね。羨ましいものだわ」
先生はジロリとハルちゃんを睨みつけた。心の底から忌々しいという表情で。
ハルちゃんはキュッと唇を引き結んで、目線を下げて、硬い表情のままに先生の言葉を聞いていた。
もう充分だろう。
今日はもう帰ろう、後は学長辺りと話をした方がいい、そう思うのに、ハルちゃんは動こうとしない。
ハルちゃんがスッと顔を上げ、山野先生を見据えた。
「……先生は私が持っているものだけを見ていて……、私が持っていないものは見ていないんですね」
いつになく厳しいハルちゃんの声、そして表情。人を責めるような、こんな顔もできたのだと驚く。
ほんの一瞬ためらった後、ハルちゃんは静かに続けた。
「寄付金を積み上げて、配慮をお願いしたこと、申し訳ありませんでした」
ハルちゃんはゆっくりと頭を下げた。
山野先生はハルちゃんの行動の意味が分からないようで、怪訝そうに眉根をひそめた。
「だけど、先生、お願いするにはちゃんと理由があるんですよ? それは一緒に聞かなかったのでしょうか?」
ハルちゃんの真っ直ぐな視線を受けて、ひるんだように山野先生は答えた。
「持病があって、身体が弱い、と」
それだけ? 心臓が悪いとは聞かなかったのだろうか?
もしかして、心臓が弱い、くらいは聞いたのかもしれない。
だけど、山野先生にはハルちゃんが、ちょっとした持病のせいで甘やかされているお嬢さまにしか見えなかったのだろうか?
「……そうですか」
ハルちゃんはとても静かな表情で山野先生を見る。
そして、少しの間の後、表情を変えずに言葉を紡いだ。
「わたしには未来はありません」
ハルちゃんの告げた言葉、最初は軽く聞き流した。次の瞬間、その意味が頭に染み込んできてハッと息を飲む。
先生は何を言われているのか分かっていないように見えた。
「わたしは生まれた時から、常に命の期限と隣り合わせに生きています。今まで何度も余命宣告を受けているんですよ」
とても静かに、ハルちゃんは言葉を紡ぐ。
先生は怪訝そうにハルちゃんを見ながらも、口をはさむことはなかった。
「生まれてから今までで、走ったことは一回だけです。たぶん、走るって言うのがおこがましいくらいのスピードだったと思います。ほんの十秒くらい走った代償に、わたしは死にかけて、その後、生死の境をさまよい続け、半年ほど入院しました」
当時四歳だったハルちゃんを走らせたのが叶太で、それがきっかけでハルちゃんに恋をして……、やがて二人は付き合い、そして去年、結婚した。
ハルちゃん側から聞く、初めての話。だけど、ハルちゃんはそれ以上、叶太との話は語らず、先を続けた。
「泳いだことは一度もありません。早歩きもできないし、階段の上り下りも息が切れて、途中で休憩が必要です」
淡々とハルちゃんは自身の事を語る。
「一年の半分とは言いませんが、三分の一は病院か自宅で寝て過ごしていると思います。毎日飲まなきゃいけない薬を止めたら、一週間どころか、三日後には死んでいるかも知れません。そんな身体だから、家族は私にかけるお金を惜しみません」
ハルちゃんはおもむろにブラウスに手をかけると、上から順番にボタンを外した。
「胸を切っての手術の回数は片手じゃ足りません。胸元の空いた服は恥ずかしくて着られません。お腹まであるんですよ。見ます? これでも綺麗な方なんです。心臓血管外科の権威と呼ばれる先生方が執刀してくれたから」
思わず止めようとすると、ハルちゃんは「大丈夫」と小さく微笑んだ。
そしてまた、先生の方に向き直る。
山野先生はハルちゃんの胸の傷を凝視していた。
実際には下着があったから、下の方までは見えなかったけど、鎖骨の辺りから続く傷は俺にも見えてしまった。
ハルちゃんは少しの間、先生を見つめると、そのままボタンを留めなおした。
「家族が私を大切に思ってくれて、私に惜しみなくかけられるお金があったから、今、私はここに生きているのだろうなと思います。先生はズルをする必要なんてないと仰いましたが、多分、私はこの環境でなければ、今、生きていません」
ハルちゃんは微笑を浮かべた。
その微笑みがあまりに綺麗で、そして寂しくて心が痛む。
「先生、私には先生と同じだけの持ち時間はありません。今、後何年生きられるかは聞いていませんが、二十歳を超えられるかどうか、大学を卒業できるかどうか、そんなところだと思います」
ハルちゃんの心臓の状態が良くないのは知っている。何度も手術していて、それでも完治していないのも知っている。だけど、その口から余命なんて言葉が出ると、実際に数年後だと言われると、背筋が凍るかと思うような、胃をわしづかみにされたような思いがした。
ハルちゃんは自分の余命というものを考えている。
多分、ずっとずっと意識して生きて来たんだと、まるで動じず、淡々と語るハルちゃんを見ていると、それが分かった。
「それでも、先生はわたしを羨ましいと思いますか? ……先生は、私のような人生を望みますか?」
ハルちゃんの語りが終わり、山野先生に質問を投げた。
ハルちゃんの言葉にひるんだ先生は、だけど次の瞬間に噛み付かんばかりに怨嗟の表情を浮かべた。
「あなたは周りから大事にされまくって、お金も使いたい放題で、誰もが振り返る可愛い顔して、そんな年で結婚までしているじゃない! あなたみたいに身体が悪くて、だけど、為すすべもなく死んでいく子だって、世の中にはいくらでもいるでしょう! すべてを持っているあなたが、偉そうに言わないで!」
「山野先生!」
何てこと言うんだ!
既に、会話にすらなっていない。
ハルちゃんが何を思って、自分の身体の事を話したのかは分からない。だけど、少なくとも、こんな言葉を聞くために話したのではないはずだ。
「ハルちゃん、もう行こう」
思わず立ち上がり、ハルちゃんの手を引こうとした俺に、ハルちゃんは穏やかな表情で、
「大丈夫」
と言う。
ハルちゃんは山野先生の悪意たっぷりの視線や言葉にもまったく動じていない。
もう一度、
「晃太くん、大丈夫だから」
と俺に言うと、ハルちゃんは山野先生に視線を戻した。
仕方なく、俺はもう一度ソファに腰を落とす。
「もしかして、先生はわたしのことを羨ましいと思っているんですか?」
「そ、そんな訳ないでしょう!」
そう言い返しつつ、表情が、態度がその言葉を裏切っていた。
確かに、病気のことを抜きにすれば、ハルちゃんはとても恵まれているのだろう。
整った愛らしい容姿だって、誰もが持てるものではない。その上、祖父は大病院の院長、父は大会社の経営者、母は医師という経済的にも治療環境的にも恵まれた家庭。
山野先生は若く見えるけど、既に四十代。何年か前に付き合っていた彼氏と別れたらしいと噂に聞いた事がある。その頃、研究室にいた先輩方が、先生が荒れて大変だと言っていた。十七歳で既に結婚して、夫から溺愛されているハルちゃんを妬ましく思ったとしてもおかしくはない。
だけど……。
「私は今の自分に満足しているわよ!」
ドンッと机に手を叩きつけ、怒鳴るように先生は言った。
「……そうですか」
ハルちゃんは先生の怒りを静かに受け流した。
「ただ、あなたみたいに自分が恵まれている事を自覚もしないで、当たり前のように享受している人間を見ていると、苛立つのよ!」
山野先生、その感情は多分、妬みですよ。それにハルちゃんは自分が恵まれていると、多分ちゃんと自覚している。
そう言いたかったけど、ハルちゃんの横顔が俺の口出しを拒否しているように見えて、口を挟めなかった。
「……確かに、わたしのように持病があっても満足な治療ができない人もいるでしょうね。好きな人ができても病気のせいで結婚できない人もいるでしょうね」
「ええ、そうでしょうね」
「だけど……先生のように研究者として職に就くことを目指しながらも、叶わない人だって、いくらでもいますよね?」
どこまでも穏やかな、だけど鋭いハルちゃんの言葉に、先生はまたひるむ。大学の教員というのは、とても狭き門だ。そんな中、うちみたいに割と名のある大学で三十代後半で准教授になっている山野先生は出世頭だ。
その山野先生は、ハルちゃんの言葉に顔を赤くし、声を大きく荒らげた。
「あ、……ああ言えば、こう言う!」
そんな山野先生をハルちゃんは憐れむような眼でじっと見つめた。
「先生。誰もが、自分の持ちうる以上のものは持てないんです」
静かに、とても静かにハルちゃんは先生を見つめ、そして言葉を続けた。
「そうですね。……じゃあ、もし十年前に戻って、准教授の地位を諦めるなら、結婚して子どもを持つ人生が手に入ると言われたら、准教授の地位を捨てますか?」
「捨てられるわけないわよ!」
バカなことを聞くなと言わんばかりの剣幕で山野先生は大声を上げた。
それを聞いて、ハルちゃんは小さく肩をすくめた。
「先生は欲張りですね。すべて手にできる人はいないんですよ?」
もう、どっちが先生でどっちが生徒か分からない。
「あなたは違ったかも知れないけど、世に中にはいるでしょ!」
ハルちゃんは、困ったように眉根を寄せた。
「どうして、その人が本当にすべてを持っているなんて分かるんですか? だって、先生は、こんなにも負の荷物ばかり背負っているわたしのことも、すべてを持っていると勘違いしていたのに」
ハルちゃんの問いに、山野先生は口をつぐむ。
確かにハルちゃんが持っているものは多い。だけど、持っていないものも、とても多いのだと思い知らされる。幼いころから知っている俺ですらそうなのだから、表面的なことしか知らない山野先生なんて、なおさらだろう。
「じゃあ、例えば……わたしの夫は何もかも持った人だと思いますか?」
パッと表情を明るくして、山野先生は得たりとばかりに頷いた。
「ええ! 間違いなく、彼こそはすべてを持っているじゃない。全国規模の会社を経営する親に恵まれて、初恋を叶えて、親公認で学生結婚。家族仲も良いみたいだし、その上、ビジネスの才能まであって、既に一財産も二財産も築いていて。背も高くてイケメンで、料理が得意で空手は黒帯。完璧でしょう!」
スラスラと叶太の事を述べる山野先生。
ただの一生徒の事を、どうしてこの人はつっかえも考えもせずに語れるのだろう? どれだけ、ハルちゃんの事を嫉んでいたのだろう?
ハルちゃんは山野先生の言葉を聞いて、悲しげに笑みを浮かべた。
「叶った初恋の相手は、自分の寿命の遥か前に死ぬことが分かっていて、その後、四十年も五十年も一人で過ごすかも知れないんですよ? 結婚しても、子どもは望めないから。
それに仮に…もし新しい出会いがあったとしても、かつていたわたしという妻の存在は、きっと彼の生活の影となります」
ハルちゃんの言葉の意味がゆっくりと脳裏に染み込んでいく。
今にも泣きだすのではないかと思うくらい、ハルちゃんの表情は辛そうだった。
そして、その言葉に虚を突かれたようにハルちゃんを凝視する先生。
「だけど……!」
それでも何か反論を言おうとして口を開いた先生の言葉は、数秒口を開けたまま、結局何も続けることができずに、そこで止まった。
「……いいんです、別に分からなくても。でもね、先生。そんな感じで、傍目には幸せそうに見えたって、プラスのカードだけを持って生きている人なんて、まずいないんですよ」
ハルちゃんはとても静かに言い、言葉を切った。
そして、少しのためらいの後、スッと頭を下げた。
「長々と話をしてしまい、すみませんでした」
それから、穏やかに言葉を続ける。
「最後に、もう一度お願いです。これ以降の個人課題は免除して頂けませんか?」
だけど、ハルちゃんの願いは、懸命に語られた言葉は届かなかったようで、その言葉を聞いた瞬間、山野先生は両手でドンッと机を叩きながら立ち上がった。
「あなたは!! まだ、そんな勝手な事を!!」
怒りに駆られて、ハアッハアッと山野先生の息が荒れる。
ハルちゃんはそれを見て、とても悲しそうに目を伏せた。
「やるべきことを、やりなさい! 課題は今まで通りに出します。他の子と同じように、二週間は時間をあげましょう。それまでに出してこなかったら、単位は出しません!」
山野先生の言い放った言葉の後、ハルちゃんは何も言わなかった。ただ、とても悲しそうな目で山野先生を見つめていた。
研究室に居心地の悪い沈黙が落ちる。
---カチャッ。
そんなタイミングで、研究室のドアが前触れもなく開けられた。
振り返ると、そこにいたのは久保田教授だった。俺の所属する研究室の教授で、杜蔵大学経済学部の学部長をしている実力者。
なんで、久保田教授がここに? しかもノックもせずに。
「久保田先生、どうされましたか?」
山野先生は瞬時に握り拳を緩めて、表情を引き締めて立ち上がった。その変わり身の早さに驚く。
恥ずかしながら、俺は何が起こっているか分からなかった。
隣にいるハルちゃんもそれは同じで、驚いたように久保田教授の方を見ていた。
久保田教授はゆっくりと室内、俺たちの座るソファのところまで歩いてきた。
「山野先生、聞かせてもらいましたよ」
「……は?」
久保田教授が手に持っていたスマートホンを触ると、スピーカーから音が流れ出した。
「私の研究室でね、最初から聞いていたんです」
教授の言葉が半秒ほど遅れてスピーカーから流れ、教授の言葉が二重に聞こえてくる。
……ああ、なるほど。叶太か。
「な……にを?」
事の次第が徐々に理解できて来たのか、山野先生の顔色が一気に蒼白になった。
叶太がせめて音声を聞かせろというので、山野先生の部屋に入る前にスマホをつないだ。近くにいたいと言うので、廊下で待たせるのもなんだからと久保田教授の研究室で待たせてもらえるように頼んだ。
教授の部屋で待ちながら、イヤホンで音声を聞くという話だったけど、何をどうしたか、叶太は久保田教授に話したらしい。そして、二人で一緒にハルちゃんと山野先生の話を聞いていた、と。
「あなたが、牧村さんを罵倒していたところも聞きました。全部、最初から聞いていたんです」
教授は深い深いため息を吐いた。
「久保田先生!? ……え!? まさか、……広瀬くん!」
山野先生が驚愕の表情で俺に視線を向けた。
今更隠してもどうにもならない。俺は自分の胸ポケットからスマートホンを出して机に置く。ガサリッと耳障りな音が、久保田教授の持つスマートホンから聞こえてきた。
「あなた、何てことをしてくれるの!」
「やめなさい」
掴みかからんばかりの怒りを見せる山野先生を、久保田教授が制止する。
「話は全て聞きました。あなたが牧村さんに出していた課題も、すべて見せてもらいました。あそこまで難しい、教えてもいない内容の課題を出しておいて、できなかったら単位を落とすと脅すとは……」
「久保田先生! 違うんです!」
「学部長として、来週一週間、自宅謹慎を申し渡します。講義は全て休講。あなたの進退については、謹慎期間中に学内で相談し、追って連絡します」
「久保田先生!」
山野先生の悲痛な叫びは無視し、久保田教授はハルちゃんの方に身体ごと向き直った。
「牧村さん、山野先生に変わってお詫びします」
深々と頭を下げる久保田教授に、ハルちゃんは慌てて立ち上がる。
「先生、やめてください!」
「身体は大丈夫かい? 気付かなくて、本当にすまなかったね」
「いえ、……あの」
「とにかく、ここを出ようか」
久保田教授に手を差し伸べられて、ハルちゃんは一瞬ためらった後、その手を取った。
まるでハルちゃんをエスコートするようにして、久保田教授は山野先生の研究室から出た。俺はその背後を守るように歩き、ドアを閉める時に一度だけ後ろを振り返った。
山野先生は呆然自失といった様子で立ち尽くしていた。
「ハル!」
部屋を出た瞬間、叶太がハルちゃんに駆け寄ってきた。
外で待っていたのか。
……って、当たり前か。久保田教授と一緒に山野先生の部屋に入って来なかっただけ、まだ冷静だったのだろうけど、多分、相当やきもきしていたのだろう。
「大丈夫?」
心配そうな顔で、ハルちゃんの顔を覗き見る。
ハルちゃんの隣にいる久保田教授なんて、まるっきり無視。いや、無視というより、その存在にすら気付いていない感じ。
ハルちゃんがホッと安堵のため息を漏らし、久保田教授はハルちゃんの手をそっと放した。
「とりあえず、うちの部屋に来るかい?」
久保田教授の言葉はありがたいけど、山野先生の動向が気になる。
今はまだ呆然としているだろうが、しばらくして我に返ったら、真っ先に久保田教授のところに来る気がする。
「いえ、山野先生が訪ねてくる気がしますし、今日は失礼します」
「ああそうか、確かに……」
久保田教授は眉をひそめて、山野先生の部屋の方を振り返った。
「じゃあ、ハル、帰ろうか。車はもう来てるから」
叶太はハルちゃんの肩を抱いて、ハルちゃんを連れて行こうとしたけど、ハルちゃんがそれを慌てて止めた。
「ちょっと待って?」
ハルちゃんは叶太の腕から抜け出し、久保田教授の方に向き直った。
そして、
「ありがとうございました」
と、久保田教授に深く頭を下げた。
深く長い礼に、ハルちゃんの気持ちが込められているような気がして、何だか切なかった。
人と争うなんて考えた事もなさそうな口下手なハルちゃんが、悩んだ末に選んだ山野先生との会話。
だけど、ハルちゃんがどんなに言葉を尽くしても、山野先生の心に届くことはなかった。
半面、ハルちゃんが知りたがっていた、山野先生の心の内側は怖いくらいにあらわになった。見えた内面は、ハルちゃんにはツラいだけのものだったけど……。
今、ハルちゃんは何を想っているのだろう?




