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15年目の小さな試練  作者: 真矢すみれ
15年目の小さな試練
34/42

最初の一歩

 二つ目の練習曲に晃太くんが選んでくれたのは一つ目と同じようにとても優しい穏やかな曲だった。

 心配そうなカナの視線に気が付かないふりをして、短時間だけど、毎日練習してきた。ゆったりした曲だったから、最初の1ページだけは何とか形にすることができた。

 心配そうなカナを振り切ってまで、一生懸命練習してきた成果を見てもらわないと……と思うのに。

 なぜか脳裏にちらちらと山野先生の顔が浮かんで気が散ってならない。

 昨日、返してもらった前回の解答。

「今回は少し考察が甘かったかしら?」

 そう言った先生の表情は、残念そうな顔を作ろうとしながら失敗したようで……、口の端に小さな笑みが浮かんでいた。

 入院前にザッとまとめて、退院した夜に慌てて仕上げたものだったから、確かに考察は甘かったかも知れない……。

 それは分かっている。だけど……。

 だからこそ、その日新しくもらった課題にはちゃんとした解答を書きたかった。だけど、もう体力も限界で……。

 休んでいた間の授業のノートを確認したり、出ていたレポートを書いたり、そんな事をしている間に一週間が経ってしまい、山野先生の課題を完成させることができないまま、昨日の授業の時間がやって来てしまった。

 山野先生の課題は二週間かけても良いって分かっていたから、他の授業の準備や課題を優先させた。それは間違っていない。

 だけど、これまで、ずっと一週間で出していたのを、私が出さなかった……出せなかったのだということに気付いた先生は、

「あら、珍しいわね」

 と、ひどく嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ハルちゃん、今日はここまでにしようか?」

 ……あ……ピアノ。

 晃太くんは自分の大切な時間を使って教えてくれているのに、わたし、今、全然集中できていなかった……。

 指だけは何となく動かしていた気がする。でも、自分がどんな音を出していたのか、どこを弾いていたのかすら思い出すこともできない。

「……ごめんなさい」

 ……何をやっているんだろう。

 だけど、斜め後ろにいる晃太くんを振り返って謝ると、晃太くんは優しく笑いかけながら、

「なに謝ってるの」

 ふわりとわたしの頭に手を置いた。

「疲れてる? ……というか、なにか悩みある?」

 そう聞かれて、ちょっとだけ困惑。

 上の空だった自覚はある。だけど、わたし、そんなに分かりやすいかな?

 だけどその時、ふと、五月から何度か聞いた晃太くんの言葉を思い出した。

 晃太くん、いつでも、何でも気軽に相談してね、って、言っていたよね?

 相談、しても、いいのかな?



 わたしはその後、晃太くんに山野先生のことを相談した。

 話に行くにしても、まずどこで話せばいいのかから分からない。すると、晃太くんは研究室に行けばいいと教えてくれた。更に、山野先生の空き時間も調べてくれるという。

 だけど、今度は何をどうやって話せばいいのか分からない。

 そうしたら、晃太くんは優しく笑って、

「とにかく、まずは会いに行って、それから考えたらどうかな?」

 と言った。

 目から鱗。話すことを決めてから会いに行くしかないと思ってたもの。

「会いに行ってから、考えるの?」

「そう。課題を止めてもらうようにお願いするのが、一番の目的だよね?」

 聞かれて一瞬口ごもる。

「……うん」

 確かに、それは絶対言わなくちゃいけない大切な話。

「あれ? 違うの?」

「……そうなんだけど」

 だけど、それだけだったら、カナが言うように学長先生に話を通せば済むのだとも思う。

 それでいいじゃないって、どうしても思えなかった。何か違うって気がしてならなかった。

 カナにやってもらっちゃダメだし、学長先生にお願いするのでもないとは思う。そして、自分で山野先生と話さなきゃいけないって思うのに、それがなぜかは分からなかった。

 そこが分からないから、何を話せばいいのかも分からなかった。

 分からないままに毎日は忙しく過ぎ、自分で話をしに行くと言ってから、もう一週間。いつの間にか七月に入っていた。

 いっそ、前期は今のまま課題をやってしまおうかと思ったりもした。だけど、既に下り坂の体調が暑さに負けて更に悪くなるまで、もう猶予がない。

 物理的にできなくなる前に、ちゃんと自分で片を付けておきたかった。

 なのに、山野先生に何を言いたいのかすら、わたしは分からない。

「うーん。そこで引っかかってるのか」

 晃太くんは顎に手を当て、何かを考えるように視線を遠くに向けた。

 そして数秒後、にっこり笑って視線を戻し、

「ハルちゃんは山野先生に何を伝えたいの?」

 と聞いた。

「え?」

 伝えたいこと? わたしが先生に?

 言いたいことと、伝えたいことって、同じかな?

 だったら、それが分からなくて悩んでるのだと言ったら、なにか晃太くんはヒントをくれるかな?

「違うかな。じゃあ、何が聞きたいの?」

 ーーあ。

 聞きたいことなら、あるかも知れないと気が付く。だけど、パッと言葉にならなかった。

 わたしが心の中から言葉のかけらを集めている間、晃太くんは急かすことなく待ってくれていた。

 聞きたいこと……それは、知りたいこと、でいいのかな。

 ずっと心に引っかかっているのは……。

「……なんで、だったのかな、って」

「なんで?」

 そう。先生は、なんで教えてもいない内容を課題に出したのかな。

「ん。それから……もし、わたしが途中でギブアップしてたら、おかしな解答を出していたら、どうしたのかなって」

 そう口に出すと、胃の辺りがキュッと締め付けられるように痛んだ。

 先生の嬉しそうな笑顔がパッと脳裏に浮かび、消えた。

 ああ、わたしは、わたしが失敗したら、先生は喜んだんじゃないかなって思ってるんだ。

「先生は、わたしに……どうなって欲しかったのかな?」

 ギブアップを待ち望むとか、失敗を願うとか、少なくとも、先生が教え子に持つべき感情じゃない。

 わたしはきっと、普通に、他の子と同じように扱ってもらえるだけで、嬉しかったのに……。

 目頭が熱くなる。

 晃太くんが心配そうにわたしを見守ってくれているのが分かったけど、わたしは明るい表情を作ることができなかった。



 夜、カナに聞かれた。

「ハル、いつ行こうか?」

 どこにと聞かなくても、山野先生のところにだと分かる。

 先週は休んでいた間のノートを読んだり、休んでいた間に出た課題をやったりしていたら、山野先生の事を考える余裕もなくて、カナとも話しそびれていた。

 ううん。カナはいつも話したそうにしていた。だけど、わたしが山野先生の課題に手を付けなかったからか、カナは何も言わずに待ってくれていた。

「晃太くんが、山野先生の空き時間を調べてくれるって言ってたから、それから決めるね」

「兄貴が?」

「うん。お友だちが山野先生の研究室にいるから聞いてくれるって。でね、研究室に訪ねていけばいいって」

「そっか」

 そう言いつつ、カナはわたしの手元を覗き込んだ。

「それ、山野先生の課題だよね?」

「ん」

「もう、やめるんじゃないの?」

「これを最後にする予定」

 カナは止めようか、どうしようかと視線を宙にさまよわせた。

「本当にこれで最後だから」

 止められる前に言い訳を口にする。

 いらぬこだわりなのかも知れないけど、もらっているものを出さずに終わるのが嫌だった。

 「本当にこれで最後」と言いつつも、もし、山野先生の予定が空いていなくて、もう一度、授業があったら、どうしようと一瞬思った。そして、逆に、なんとしても来週の授業までに片を付けようと言う気持ちにもなる。

 納得したのかしていないのかは分からなかったけど、カナはそれ以上は何も言わなかった。

 代わりに、わたしの肩に手を置いて、

「無理はしないでね」

 と後ろから覗き込むようにして頬にキスをした。



    ☆    ☆    ☆



「ハルちゃん、はい。約束の先生の予定」

 お昼休み、ご飯を食べるのが遅いわたしが、食べ終わるのを待ってから晃太くんに渡されたのは、山野先生の空き時間を書いた紙。

 お願いした翌日のお昼休み。あまりの早さにビックリ。晃太くんがランチに誘ってくれた時から、もしかしてとは思っていたけど。

「ありがとう」

 神妙な表情で受け取ると、ポンポンと肩を軽くたたかれた。

「肩の力を抜いて」

 と晃太くんは笑う。

「見せて」

 と、カナがわたしの手元を覗き込む。

「金曜日の夕方か、月曜日の夕方かな」

「……ん。いつ伺いますって連絡した方が良いかな?」

「しておいた方がいいかも知れないね」

 晃太くんが口を挟む。

「研究室って、けっこう、ゼミのメンバーとかが集まるからさ」

「そっか~。どうやってアポとろうかな」

 カナが悩ましいという顔をする。

「ハルちゃんから、相談があるからお時間くださいって連絡したら?」

「それでいいの?」

 わたしが聞くと、晃太くんは笑顔で教えてくれた。

「うん。学部生でも熱心な子は質問に来たりするし、問題ないと思うよ。相談って言うなら、それはそれで嘘じゃないし」

「でもさ、その連絡って電話でするの? それとも研究室に訪ねていくの?」

 カナがもっともな質問をした。

「ああそっか、俺が聞いておいてもいいけど」

「なんて?」

「妹が相談したいことがあるって言ってるから時間くださいって。……ああそうだ。当日も同席しようか?」

 晃太くんは優しくわたしをじっと見つめた。

「それはオレが!」

 とカナが身を乗り出し声を大きくしたのを見て、晃太くんはくすりと笑った。

 心配してくれているんだよね。

 だけど、ここでカナに付いてきてもらうのは、どうなんだろうと疑問が浮かぶ。

「一人で行ってこようと思ってるの」

「ハル!?」

 カナが慌てたようにわたしを凝視。

「叶太、落ち着け」

 と晃太くんがカナをなだめた。

 そんなにおかしいかな? だって、自分のことだよ?

「えっとね、ハル、一人で行くのはオレは反対」

 晃太くんの制止を受けて少しばかり冷静になったカナがそう言った。

「なんで?」

「危ないし」

「なにが?」

「いや、先生が何かするかも……」

「学校の中だよ?」

「密室だし」

「……女の先生だよ?」

「……そういう心配はしてないけど」

 カナは小さくため息を吐いた。

「ハルはなんでオレが一緒に行くのは嫌なの?」

 カナはジッとわたしの顔を覗き込んだ。

「いい年して、そんなことも一人でできないなんて……恥ずかしいし」

 先生にお願い、というかクレームしに行くんだよね? 夫同伴で行くとか、どうななんだろうと思ってしまう。

「別に恥ずかしいとか思う事じゃないでしょ」

「だけど」

 どうすればカナが諦めてくれるのかと思い悩んでいると、晃太くんが優しく口を挟んだ。

「ハルちゃん、俺が一緒に行くのは嫌?」

 カナじゃなくて、晃太くんが?

 さっきも聞いてくれたよね。

 晃太くんと山野先生のところに行くことをイメージしてみる。不思議とカナの時のような抵抗感が沸かなかった。

「……ううん」

 そう答えると、

「ハル!?」

 わたしの返事を聞いて、カナが信じられないという顔をする。

「なんで!?」

 晃太くんは気の毒そう、かつ面白そうにカナを見る。

 そんなにおかしいかな?

「だって、……カナは同い年でしょう? だから、カナを保護者として連れて行くのはなんか違う気がするんだもの」

 わたしの言葉を聞いてカナは眉を下げる。

「そんなの気にするなよ!」

「……気になるんだもん」

「夫はダメで、なんで兄貴ならいいの!」

「……晃太くんは、先輩で大人で、大学卒業してるし」

「まだ大学にいるじゃん」

「……院生だよ? 先生のお手伝いもしてる人だよ?」

 絶望的な顔でカナが晃太くんを見た。

「まあ、任せとけ」

「兄貴~!」

「ハルちゃんが一人で行くって言うよりはいいだろ?」

 その言葉に、カナはがっくり肩を落とした。

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