お願いと忠告
「兄貴、今週のピアノはお休みでお願いします」
火曜日の夜、叶太から電話がかかってきたと思ったら、開口一番そんな内容。
「え? なんで?」
「いや、ハル、昨日まで入院してたし」
「ああ。今日から大学だっけ? ハルちゃん、疲れちゃったかな? 調子悪い?」
高熱が下がらず入院したと聞いていたけど、昨日退院して、今日は大学に行ったと言うから安心していたけど。
GWのインフルエンザ騒ぎからこっち、叶太は何かにつけてハルちゃん情報を俺に送ってくる。何かあったらサポートしろという事だと思って、謹んで拝聴・拝読している。
「いや、元気だけど」
「そりゃ良かった」
「だけど、今週はのんびり身体を休めさせたいから」
「ああ、先生から言われた?」
医者の言う「無理しないように」の『無理』をどこまでと取るかは悩ましいけど、そう言われたら、まあ、一週くらい休ませたいよな。
「……いや、いつも以上には言われてないけど」
なるほど。
だから、「今週のピアノは休みだよね?」だったわけか。
医者から止められているのでもなければ、ハルちゃん、やるって言うだろうしな。
少し前の俺なら、多分、叶太の意をくんで休みにしていたかも知れない。
「ハル、練習もしてないし」
「いや、それは大丈夫。元々、あんなに真面目に練習してくるって方が想定外だったから。ってか、先週で最初の曲が終わったから、今、何の課題も渡してないし」
叶太は言葉に詰まり、一瞬、黙り込む。
「しんどそうだったら、もちろん止めるし、無理はさせないよ?」
心配する叶太の気持ちは分からないでもない。
だけど、ハルちゃんが何故ピアノを始めることにしたかという裏話を知っている俺としては、やっぱりここは全力で叶太を空手部に送り出すべきだろう。
何より、先週、叶太は空手をサボってピアノのレッスンを見学に来た訳で、二週連続サボりって選択肢はないだろう。
いや、俺は別にどっちでもいいんだけど、多分、ハルちゃん的にはなしなんじゃないかな?
「いや、でも……」
「叶太、何がそんなに心配?」
まあ、過保護な叶太にしたら、何をやってても何もやってなくても心配なのかも知れないけど。
そう思いつつ、俺は続けた。
「ピアノを教えるって言っても、ホント簡単にだし。ってのは、先週、お前も見てたよな? 教える場所はハルちゃんの自宅で、沙代さんだっているんだし。それに、明日はおじさんが夕飯に間に合う時間に帰って来るんじゃなかったっけ?」
「……兄貴、よく知ってるね」
叶太が驚いたように言う。
「ダイニングのカレンダーにおじさんとおばさんの予定が書かれていたから、水曜日だけチェックしておいた」
返す言葉がないようで、叶太は電話の向こうでフーッと長く息を吐いた。
ああ、なるほど。
叶太は、ハルちゃんがピアノを弾くのが嫌なのではなく、ハルちゃんがピアノを習えるくらい元気だと、病み上がりのハルちゃんを置いて空手部の練習に行かなきゃいけないってのが嫌なんだ。
「まあなんだ。……あんまり、束縛すると、お前、ハルちゃんに嫌がられるぞ」
「え!? いや! 束縛とかじゃないし!」
「心配も過ぎれば、束縛と同じようなもんだよ」
「いやいやいや、ちょっと待ってよ、兄貴!!」
必死で否定する叶太は可愛いが、身内のひいき目で見ても、叶太のそれは、かなりの過保護で束縛にも通じるものがある。
「ああでも、まあ束縛とは違うかな」
叶太の場合、無理させないようにはするけど、それ以上に何かするわけではない。
けど……
「お前、ほっといたら二十四時間、365日、ハルちゃんに張り付いてるだろ?」
俺の言葉に叶太は一瞬言葉を失う。
うん。普通引くよな。
「……いや否定はしないけど、ね?」
でも否定はしないんだ?
思わず吹き出し、忠告する。
「少しはそれぞれに自分の時間を持っとけ」
いや、それぞれと言うか、叶太がって話かも知れないけど。
「いや、でも今までだって、土日のどっちかで道場行ってたし」
「長くて半日? 週に数時間かな?」
「いや、後、朝は外に走りに行ってるし」
「一時間くらいな。しかも、ハルちゃん、まだ寝てるだろ」
笑いながら答えると叶太は黙り込んだ。
「取りあえず、明日、ハルちゃんが元気だったら決行。体調が悪かったら休み。後、病み上がりのハルちゃんに無理はさせないから、安心して」
「ええ~」
「ハルちゃんに嫌われたくなかったら、おまえは空手行ってこい」
「ええぇっ!? そりゃ、嫌われたくはないけど! なんで嫌われたくなかったら、空手行かなきゃいけないの? そこ、繋がりないでしょ?」
そうは言いつつ、お前だって、本当は自分でも分かってるよな?
電話の向こうで叶太は何やらぶつぶつ言っていたけど、俺はもう聞くことなく、
「じゃあ、おやすみ」
と話を打ち切る。
「……おやすみなさ~い」
電話の向こうからは、長いため息の後におやすみの言葉が聞こえてきた。
そして、おやすみと言ったくせに、叶太からは数分と経たずにメールが送られてきた。
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TO:兄貴
件名:お願い
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ハル、今日の昼間に少し調子崩して、
三限目、医務室で寝てたんだ。
大した事なかったし、四限は出たし、
夕方、友だちと楽しそうにお茶してたし、
元気だとは思うんだけど……。
本当に無理させないでね?
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ああ、叶太の心配にもちゃんと理由があったかと納得。
あの心配性の叶太が大した事なかったというくらいだから、本当に大丈夫だったのだろう。
だけど、叶太がそこまで心配するくらいには、ハルちゃんの体調は良くないのも本当か。
……まあ、そうだよな。
昨日まで、入院してたんだもんな。
俺は、「了解」のメールを打ちかけて、途中で思い立って、着信履歴から叶太の番号を出して電話を鳴らした。
少しばかり長い呼び出し音の後、
「ごめんね。お待たせ」
とスマホの中から、叶太の声が聞こえてきた。
「いや、こっちこそ、ごめんな。寝室にいたんだろ?」
「うん。ハルの寝顔見てた」
嬉しそうな声に思わず笑みが浮かぶ。
「あのさ、叶太」
「なに?」
「俺が言うのもなんだけど、ハルちゃんが心配なら、少し、勉強をセーブさせたら?」
そう。
本当に、俺が言うのもなんなんだけどな内容。
ハルちゃんが楽しそうにしているのを知っているから、本当は口出しなんかしたくない。
「……それって、山野先生の授業のこと言ってる?」
「そうそう」
あれは、ちょっと普通じゃない。
だけど、ちゃんと解けていて、本人は楽しそうにしている。だから、これまで何も言わなかった。
「……兄貴、あれ、どう思う?」
「いや、おかしいよね? 正直、なんで、一年生であんな課題出されてるんだって思うよ?」
「難しい?」
「新入生にとったら、難しいなんてもんじゃないでしょ。……と思うけど、ハルちゃん、ちゃんと解いてるんだよな~。しかも、模範解答みたいな綺麗な正答。中には、俺でもおっこれはスゴいって思うような回答もある」
「……だよね」
ため息交じりの叶太の声に、叶太自身もどうしたものかと悩んでいたのがうかがい知れる。
「えっとさ、ハルちゃんが健康で、ただ楽しく課題をこなしてるんだったら、反対しないよ。鍛えられるとは思うしいい勉強にもなると思う」
「うん」
「だけど、体調が悪くて、無理させたくないんだったら、やる必要はないと思う」
「……そっか」
「あのさ、あんな問題もらってるの、ハルちゃん一人だけなんだろ?」
「うん。俺の課題も見たんだよね? あれが普通。別に、俺一人が遅れてる訳でもなんでもないよ?」
叶太の言葉に思わず笑う。
「大丈夫。分かってるって」
「ホント?」
「ホントホント。俺だって、五年前に同じ授業取ってたし」
「あ、そっか」
電話の向こうから、叶太の笑い声が聞こえた。
「全員が同じ課題出されてたけどね」
「うん。今年からだってね、習熟度別の課題って」
「ああ」
だけど、それも不思議な話だった。
年度末までに、各授業の内容は打ち合わせに基づいて決められていて、そこでは例年通りとされていたんだ。
もちろん、同じ授業名でも担当の先生が変われば、先生ごとの特色は出るし、生徒の様子を見て授業内容に多少の変更はある。だけど、いくらハルちゃんが賢かったからって、四月中にいきなり習熟度別課題に変えて、一人だけに難しい課題を出したりするかな?
別にスキップ制度がある訳でもないから、ハルちゃんが今年、山野先生の演習1で頑張ったからって、来年以降の演習の単位をもらえる訳でもない。そもそも、今年は大教室で一学年まとめて受けてる演習も、二年後期からは先生別の少人数制だ。
ハルちゃんが今もらっているレベルの課題は、来年以降の経営戦略とかマーケティングとかの各学科で習っていくような内容のものだ。
「今は習熟度別の課題ってことでハルちゃん一人が難しいのを出されてる訳だけど、その課題、今やらなくても、三年くらいでちゃんと、同じようなのを全員が出されるから」
どれも必修科目だから、既に勉強した内容だったとしても、分かっている内容だったとしても、ハルちゃんも来年以降もう一度勉強することになる。
「……あ、そっか」
「そう。ハルちゃんがもし元気いっぱいで体力が有り余ってるんだったら、別に勉強してもいいと思うんだけどね。でも、入院するくらい体調が悪いんだったら、無理にする必要はないと思うよ」
「……だよね」
珍しく、どうにも歯切れが悪い叶太。不思議になって、
「なんで、お前、ハルちゃんを止めないの?」
と聞いてみると、
「あんまり、ハルが楽しそうでさ」
と、叶太は困ったように言葉を濁した。
「確かに楽しそうだったな」
「うん。……ハル、いつだって色んな事、我慢してるだろ? 高校の時から部活も入ってないし、大学入っても部活はもちろん、サークル活動もやらない。友だちと飲みに行ったり、遊び歩いたり、バイトしてみたりとか、いわゆる大学生っぽい事とか、何にもしてないんだよな」
そう言われて、言葉に詰まる。
叶太もバイトはしていなかったと思うけど、こいつの場合、既に仕事を持っているようなもんだから、それはいいだろう。部活をやらないのも、叶太の場合は自分の意思でしかないし。
ちなみに俺は、社会経験を積むべく、学部生の頃には割と色んなバイトをはしごしていたし、人並みにはサークル活動なんかもしていた。飲み会にも出ていたし、今もそれなりの付き合いはある。
「そんな色々我慢してるのに、嬉しそうに勉強してるのまで、止めるのかって思ったら……なんか、さ」
確かに、ハルちゃんの生活は、まるで大学生っぽくはない。いや、高校生だってもう少し遊んでいる気がするくらいで……。
「ハルね、高等部までは毎晩九時には寝てたんだよ」
「……早いね」
「だろ? で、今は課題が多くて、毎晩十時くらい」
「それでも、早いな」
「うん。高等部までは、土日のどっちかは、ほぼ一日寝てたんだけど、最近は半日昼寝ができるかどうか、かな」
「……えっと、土日に寝るのは、身体を休めるため?」
「そうそう。身体を休めるって言うより、疲れて起きられない感じなんだけどね」
叶太は当然のように言うけど、ハルちゃんの生活はホント、俺が思っていたよりずっとストイックだった。いや、ストイックって言うか、制限が多い?
「夜九時までには寝ろって言われるのって、小学校の低学年くらいまでかな? 俺、三年か四年の頃には、もう十時まで起きてたような気がするんだよね」
叶太が自分の子どもの頃のことを口にした。
「あー、俺はもっと夜更かしだったかも。四、五年生の頃には、十一時までは起きてた気がする」
叶太は空手なんかやっていて、朝早く起きるから、夜も割と早く寝ていた。反対に俺は夜型だったから。
「普通そうだよね。今でも、小学生より早く寝てるのにさ、……なんかね、学生の本分の勉強を楽しくしてるだけのハルに、勉強するな、もっと早く寝ろとか言いにくくてさ」
叶太は深く息を吐いた。
「だけど、……ハルの身体のが大事だよね。疲れが溜まってるのは本当で、そろそろ限界かなって思うもんな」
「ああ」
ハルちゃんの身体が一番大事。
きっと、そこを忘れなければ、間違えたりはしないんだろう。
「ありがと、兄貴。ハルと話してみる」
「ん。何か力になれそうなことがあったら、何でも言って」
「うん! ありがとう。頼りにしてます」
吹っ切れたように叶太の声が明るくなった。
「それじゃ、おやすみなさい!」
「おやすみ」
俺は二度目のおやすみを口にして、電話を切った。




