不安と決断
「陽菜ちゃん、食欲ない?」
看護師さんのその言葉に思わず、
「……ごめんなさい」
と声も小さく答えると、
「謝る必要はないよ」
と笑われた。
夜中から熱が出て、朝、ママに軽く診てもらった後、病院に連れて来られた。
朝一番に主治医の先生の診察を受けて、その場で入院が決まった。その後、幾つかの検査をして、いつもの病室に入ったのは十時過ぎ。
それから一眠りして、昼食だと起こされて間もなく、昼食のおかゆが出てきたのだけど……。
「熱高いもんね。食欲も出ないよね」
手に持ったスプーンは二口目のおかゆをすくったまま、かれこれ十分以上が経過していた。
病室に十分前から看護師さんがいた訳じゃないけど、わたしが目の前のおかゆに困っているのは一目瞭然みたい。
「じゃあ、点滴で栄養取ろうか」
「……お願いします」
そう返事をすると、看護師さんは、
「準備するから、待っててね」
と早速、部屋を出て行きかけてから、
「あ、もし果物とか、食べたいものがあったら、持ってきてもらってもいいからね?」
と付け足した。
「はい」
そう答えつつも、今日は果物も食べられる気がしなかった。
……それでも、口から何か食べなきゃいけないんだろうな、とは思う。
夕方、カナに家にある果物、持ってきてもらおうかな。
そんな事を考えながら、ケータイに届いたカナからのメールを思い出す。
相変わらず、わたしへの心配にあふれた文面だった。ただ、病院にいるのなら安心だとも書かれていた。
日曜日までに退院できたらいいな。そうしたら、月曜日から学校に行けるかな?
気が付いたら昼食は一口しか食べないままに眠ってしまったようで、目が覚めると、おかゆの乗ったトレーはなくなっていた。代わりに増えていたのは栄養剤の点滴。
カーテン越しに、夕方前の独特な日が差し込み、病室を照らしていた。
壁の時計を見ると、間もなく夕方の4時という時間。
沙代さんかもう一人の通いのお手伝いさんが来てくれたみたいで、病室の片隅には入院用の荷物を詰めて家に常備していた小さなスーツケースが置かれていた。
多分、中に入っていたタオルやパジャマはクローゼットに移してある。
それから、きっと、もう少ししたらカナが来る。
点滴のおかげか、酸素吸入のおかげか、少し眠ったおかげか、身体は大分楽になった気がする。
ただ、氷枕は新しくしてもらったみたいでよく冷えているし、酸素マスクも心電図モニターも外されてないから、多分、熱は下がっていない。何より、朝方の息苦しさは大分減ったけど、身体は依然重怠くて仕方なかった。
そう言えば、カナに果物持って来てって、メールしそびれちゃった。
それどころか、メールの返事もしていない事を思い出す。
カナは気にしないと思うけど、心配してるだろうと思うと申し訳なくなる。
今からでも書こうかな?
そう思いながらも、携帯電話に手を伸ばすこともできないまま、また、ふわりふわりと眠りの精が訪れる。
次第に視界がぼやけ、まぶたが自然と閉じていく。
……ああ、本当に調子が良くないんだ。どれだけでも眠れそう。
そんな事を思いながら、わたしの意識はプツンと途切れて暗闇へと落ちていった。
☆ ☆ ☆
小学生の頃、校庭のクラス花壇に植えた花や野菜のお世話当番と言うものがあった。
だけど、わたしに当番が回ってくることは決してなかった。そもそも、最初から数に入れてもらえなかった。
三十分しかない休み時間に階段の上り下りをして、水くみ、水やりをこなすのは体力的に無理だろうって。
無理を言えば、やらせてもらえたかも知れない。やりたいって言おうかな、って、少しは考えた。
だけど、いつ体調を崩して休むか分からない自分が当番に入るのは、結局誰かに迷惑をかける可能性が高い気がして……。やらせて欲しいとは、どうしても言えなかった。
多分、わたしが休んだ時はカナが代わりにやってくれるのだろう。そう思ったけど、最初からそれをあてにして、先生の気遣いを無碍にする気にはなれなかった。子ども心に、してはいけないのだと思った。
中学生の時だったかな?
クラス全員で体育大会の準備をしていた時にもそう言うことがあった。
「牧村さんはいいよ。無理しないで、そこで見てて?」
先生の言葉に伸ばした手が宙に浮く。
立て看板の色を塗るくらい、いくらわたしでも、さすがにできる。できるのだけど、その前日と前々日、体調を崩して休んだ後だった。
だから、先生はわたしを働かせたくなったんだろうと思う。
「ハルちゃん、はい、椅子」
「座ってたらいいよ」
いつの間にか準備された椅子。
クラスのみんなの好意に何も言えずに、同じ場にいながら、一人すみっこで椅子に座り、ただ、みんなが作業するのを見ていた。
「牧村、大丈夫か? 顔色が悪い」
授業中、先生に声をかけられた。
みんなと同じように、普通に授業を受けていただけなのに。なんで先生はわたしの顔色になんて気が付くのだろう?
反射的に大丈夫だと思いつつも、心配そうな先生の表情に押されて身体の奥底を探ってみると、いつも以上に気だるさを感じる。
今一つスッキリしない体調なのは確かだった。多分、先生が気にする程度には顔色が悪いのだろう。
だけど、本当は自分で気付かない程度の体調の悪さなら、何とかなるんだ。だから、
「……大丈夫です」
と返事をした。
なのに、先生が真剣な表情でわたしの顔をのぞき込んで言葉を続けた。
「無理するな。勉強より身体のが大事だろ?」
でも先生、今日のところは、来週の期末テストの範囲だから、真面目に聞くようにって……。
「広瀬!」
「はい!」
だけど、反論する間もなくカナが呼ばれて、そのまま保健室に連行。
自分一人が保健室に行くだけならまだしも、カナが授業を受ける邪魔をしてしまうのは、やっぱりものすごく嫌だった。
カナは全く気にしない。それが分かっていても、罪悪感は拭えなかった。
中学何年生の時かな? 中間テスト前に体調を崩したことがある。
カナに連れて行かれた保健室で、
「陽菜ちゃん、勉強より身体を第一にね?」
養護の先生にそう言われた。
無理な勉強をしていたつもりはなかったのだけど……。
なのに、その日、迎えに来てくれた沙代さんには、
「お勉強はやめて、身体を休めましょう」
とベッドで読もうと思っていた教科書を取り上げられた。
みんなが授業を受けている時間、わたしはベッドの中でぼんやりと、ただ不安と戦っていた。
こんな風で大丈夫なのかな……って。
それでも、そんな程度の勉強しかしなくても、成績は割と上の方だった。
だから、尚のこと無理はするなと言われたのかも知れない。
無理してその成績を保つ必要はないという意味なのか、成績がいいのだから無理して勉強する必要はないという意味なのか?
わたしにはどちらとも区別が付かなかった。だけど、漠然とした不安だけは、いつもどこかにくすぶっていた。
高校生になってもそれは同じで……。更に体調も少しずつ悪くなっていき、入院や手術も増えて、勉強をどうのと気にする余裕もなくなっていった。
それでも、いつだって不安は付きまとい、わたしは今も体調が許す限りの無理を自分に課す……。
……ああ、そうか。
……それがダメなのか。
だけど、そう気が付いても、じゃあどうすれば良かったのかなんて、答えは出なかった。
☆ ☆ ☆
「……ル。……ハル、夕飯、来たよ」
カナの声と優しく髪をなでられる感触に、ゆっくりと意識が今に戻る。
のっそりと目を開けると、いつもは白っぽい病室が夕陽に染まっていた。
その景色をぼんやり目にしながら、あれ? と思う。
何かすごく楽しくない夢を見ていた気がする。だけど、どんな夢だったのか思い出せない。ただ、みぞおちの辺りに感じるもやもやした重いものが、嫌な夢の存在を教えてくれた。
ああ、そうだ。
とカナに呼ばれたことを思い出し、声がした方に顔を向けると、そこには、夕陽を受けて赤みがかったカナの笑顔があった。
その柔らかな表情を目にすると、心のどこかにくすぶる苦い思いはスーッと溶けて消えていった。
「おはよう、ハル」
カナはわたしの髪をなで、嬉しそうに笑った。
「……おはよう」
ぼんやりと、かすれる声で返事を返すと、カナはまたにこりと笑った。
「のど乾いてない? お水飲む?」
「……ん。飲む」
「じゃ、ベッド起こそうか」
カナはそう言って、ベッドサイドのリモコンを手に取った。
ウィーンと小さな機械音がして、背中部分が起きあがる。まだ寝ぼけたままの身体が傾ぐと、カナが支えてくれた。
カナがお水の入ったコップを手に取るのを見て、酸素マスクを外した。
「はい」
「ありがとう」
と受け取ろうと思ったのに、寝起きの手には力が入らなかった。カナには想定内だったみたいで、そのまま手を添えて、コップを口元まで運んでくれた。
ゴクリと一口飲んだ水は冷たくて美味しかった。
「ご飯、食べられそう?」
見ると、テーブルにはお昼と同じようにおかゆと、その他に煮物と果物が乗ったトレーが置かれていた。
食べなきゃと思いつつ、食べられる気がしない。
固まっていると、カナがくすっと笑って、
「ちょっと待っててね」
と席を立った。
どこからか紙袋を持ってきたと思うと、カナは夕食のトレーをソファの方のテーブルに移動した。
そして、膝の上に置いた紙袋から、
「これならどうかな?」
と小振りなタッパーを取り出した。
カナがふたを開けると、出てきたのはイチゴ。
「ダメそう? ……じゃあ、こっちは?」
とカナはまた小振りなタッパーを取り出して、ふたを開ける。
今度はパイナップルが入っていた。
「これはどう?」
今度はキウイ。
「これでもない? じゃあ……」
その次にタッパーから現れたのは、薄皮まで剥かれたグレープフルーツ。
カナはにこにこ、楽しげに果物の入ったタッパーを並べていく。
「じゃあ、これとかどうかな?」
そうして出てきたのは、桃、丸ごと一個。
「これは、剥くと味が落ちるから、そのまま持ってきた」
楽しげに笑いながら、カナは紙袋から果物ナイフも取り出した。
次々に並べられる果物に、呆然としていると、最後に大きなお弁当箱が出てきた。
「あ、これはオレの夕飯。ハルが食べなかった果物はオレのデザートになる予定」
カナはくすくす笑いながら、わたしの頭にキスを落とす。
気がつくと、食べなきゃというプレッシャーはどこかへ行ってしまっていた。
病院のご飯に添えられた果物には全く食指が動かなかったのに、カナが並べてくれた果物は、何故か魅力的に見えた。
「……あのね」
「うん」
カナはせかすことなく、わたしを見て優しく微笑んだ。
わたしはそんなカナの目を見て、ゆっくりと桃に手を伸ばす。
「……桃がいい、な」
「了解!」
カナは満面の笑みを浮かべると、
「すぐ用意するから待っててね」
と歌でも歌いそうなくらいご機嫌な様子で、紙袋の中からガラスの器とフォーク、そして、おしぼりを取り出すと、おもむろに桃を剥き始めた。
翌日、金曜日もまだ熱は下がらなかった。39度代後半と前半を行ったり来たり。
さすがにこの高熱が続くのはつらい。
「ハル、じゃあオレ、大学行ってくるね?」
カナが心底心配そうに、ベッドに横たわるわたしの顔を覗き込む。
行かないで、と一言いったら、カナは多分側にいてくれる。だからこそ、絶対に口にはできない。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
気合いを入れて、口角を上げる。
昨日も、カナは病室に泊まってくれた。
こんな落ち着かない環境で、ソファベッドなんて寝心地の悪い場所で、カナは文句一つ言わずに付き添ってくれる。
カナも疲れているんじゃないかな?
「また、夕方に来るから」
慌てないでいいから、とか、家でゆっくりお風呂も夕飯も済ませてから来てね、とか、わたしが言ったとしても、カナがそうしないのは、この十ヶ月ほどの結婚生活でもう分かっていた。だから何も言わない。代わりに、
「待ってる、ね?」
そう言って、カナの手をキュッと握るとカナは心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「講義が終わったら、急いで帰ってくるから」
そう言って、カナはわたしをそっと抱きしめ、額にキスを落とした。
それだけじゃ足りなくて、もっとしっかりカナを感じたくて酸素マスクを外すと、カナはとろけそうな笑顔を見せて、わたしの両頬を手のひらで挟むと、そっと唇にキスを落とした。
ようやく熱が38度台になったのは、金曜日の夕方。
微熱になったのは土曜日の昼頃だった。
そこまで来て、ようやく、行き場のないだるさが少し減った。
今日中に熱が下がったら、明日一日様子を見て、月曜日に退院だと言われた。
月曜日のお休みは決定。
火曜日から、大学行っても大丈夫かな? 自宅療養って言われるかな?
「あ、そうだ」
土曜日の午後、カナが思い出したように言った。
「なあに?」
「伝えて欲しいって頼まれたから、一応伝えるね?」
「……えっと…うん」
「海堂たちが、ハルの見舞いに来たいって」
妙に重々しい前置きに、何が来るのかと思ったら、そんなことかと拍子抜けした。
「ここに?」
「退院してたら、家でもいいって感じだった」
カナはまるで乗り気ではなさそう。
確かに、検査入院とかじゃなく、本気で体調が悪くて入院しているときは、先生からもお見舞いは禁止される。
そこまでじゃなくても、体調が今一つな時、わたしはあまり人に会いたがらない。カナはそれを良く知っている。
熱が下がってきた今ならどうだろう?
やっぱり、誰かに会いたいとは思えなかった。
多分、気乗りしないのが表情に出ていたのだと思う。
「だよね。じゃあ、断っておくね」
カナは気負うことなく、当たり前のように受け流した。
「……みんな、心配してた?」
「うん。えっとさ、ハルの持病のことも話したから、よけい心配してるかも」
「……そっか」
話しちゃったんだ。
ズシンと心が重くなるのを感じた。
思ったより、ダメージが大きいことに驚く。
この病気とは生まれた時からのお付き合いだし、高校までの同級生は、病名まで詳しくは知らない人でも、わたしに持病があることは多分よく知っていた。
だけど、大学で新しく一緒になった人たちは、わたしの身体が恐ろしいほどに虚弱で軟弱なことをほとんど知らない。
でも、周りの人が知らないからって、病気がなくなる訳ではない。そんな事、当たり前なのに……。
「相談なく勝手に話して、ごめんね」
「ううん。知っておいてもらった方がいいし……」
これからの季節、今まで以上にわたしのお休みは増えるから、同じ班の人たちにはきっと迷惑をかけてしまう。だから、知っておいてもらった方がいいのは間違いない。
そう頭では分かっているのに……。
なんでこんなに嫌だって、思っちゃうのかな?
カナにはわたしの気持ち、筒抜けだったのかな。カナは優しい笑顔を浮かべるとベッドに腰掛け、そっとわたしを抱きしめた。
反射的にカナの背中に手を回すと、カナはそのまま、背中をトントン、トントンとあやすように叩く。
「ハル、大好きだよ」
カナが耳元でささやく。
「……わたしも」
小さな声でそう応えると、カナは嬉しそうに笑った。
わたしを包み込むカナの気持ちが暖かい。カナは多分、わたしがどんなことを考えていても、何を言っても受け入れてくれる。それが触れ合った肌越しに伝わってくる。
普通じゃないってことを知られたくないの、かな、わたし……。
それに、お見舞いに気が乗らないのは、弱ったところを見せたくない。ってことなんだよね、多分。
どうあっても、わたしが弱すぎることは変わらないのだけど、それでも学校では、みんなと同じように笑って、おしゃべりして、講義受けて、課題やって、……そんな姿だけを見てもらいたい、のかも知れない。
そんなの、無理だと分かってる。
もう何度も休んだし、授業中に体調を崩して早退した。
わたしの虚弱さなんて、みんな、もう知っている。
それでも、心のどこかかで、せめて体調を崩して臥せっているような状態は、できる限り見られたくないと願っている自分がいる。
……だけど、もう少し、自分を受け入れた方が良いのかも知れない。
カナはわたしの髪をすくように頭をなで、頬にキスを落とす。
今朝ようやく酸素マスクも取れた。カナのぬくもりを阻むものはない。
弱り切った姿はやっぱり見せたくない。
だけど、退院直前の様子見の時とか、復学直前の自宅療養の時とか、それくらいなら良いのかも知れない。
「あのね」
「ん?」
……目の前にある現実を、受け入れよう。
「もう少し元気になって、点滴とか、全部外れてるときなら」
そう伝えると、
「え!? いいの!?」
カナは驚いたように身体を離し、声を上げた。
「しーちゃんは割と抜き打ちで来るし」
そう言うと、カナはクスッと笑った。
「あ~、志穂はね~」
来てくれたからと言って、本当に調子が悪いときは会えないのだけど。それでも、しーちゃんは気にせずに訪ねてくるんだ。
付き合いが長いせいで、救急搬送されるような時も何度も見られているからか、わたしも若干諦めの境地で、しーちゃんと斎藤くんなら、あまり抵抗感を覚えなくなっていた。
だけど、いつまでも二人だけじゃ、ダメだよね。
「……新しい友だちも、作らなきゃ、ね」
そう言うと、カナはわたしの頭をぐりぐりとなでまわした。
「卒業までの四年間。長いつきあいになりそうだしな」
カナの言葉にわたしも笑顔を返した。




