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15年目の小さな試練  作者: 真矢すみれ
15年目の小さな試練
26/42

不調

 最近、雨の日が増え、じわじわと上がってきた気温と湿度が不快感を増している。

 そんな気候もあってか、ハルの体調が良くない。ハルは何も言わないけど、疲れが溜まってきているのがよく分かった。

 元々、ハルは朝が苦手だったのだけど、最近は今まで以上にスッキリと起きられない。朝起きられないのは調子が悪いせいだ。そういう日は休んで欲しい。だけど、ハルはとてもダルそうにしているのに、ちゃんと起きてくる。

 食欲も落ちている。ただでさえ少ない弁当を食べきれない日が増えてきた。夕飯など疲れから、まともに食べられない日もあるくらいだ。それでも、本格的に食べられなくなると入院が視野に入って来るから、ハルは頑張って果物やゼリーを口にしていた。

 通院は週一。心臓の調子があまり良くないと言われている。くれぐれも無理はしないように、と。ハルは先生には「はい」と返事を返しつつも、これまで通りにすべてをこなそうとする。

 ピアノの練習すら、短い時間ながらちゃんとやる。止めたかった。だけど、たった五分や十分の練習を止めることはできなかった。

 授業や課題だって、疲れているのが分かっていても、ハルが大丈夫だとやってしまうのまでは止められなかった。もし、それを止めてしまうなら、大学に通う意味って何だろうと思ってしまったから……。

 何一つ手を抜こうとしないハル。

 そんな風だから、高校時代と比べて、ハルが身体を休められる時間は明らかに減っていた。



 そして、6月3回目の水曜日。

 ハルの体調が気になって、どうしても部活に行く気になれなかったオレは、部活を休んで放課後はハルと一緒に家に帰った。

 ハルが楽しみにしているピアノのレッスンを見学させて欲しいと言う口実を使って。

 だけど、そもそも、なんで、ハルはあんなにもオレを部活に通わせたがるのだろう?

 兄貴の言葉を借りるなら、オレが束縛しすぎているということらしいけど……。

 たまには、ハルも自分一人の時間が欲しい?

 オレは毎日一日中ハルと一緒にいられるなら、むしろ嬉しいし大歓迎けど、ハルは違うのだろうか?

 ……違うかも。

 そう思うと、ちょっと寂しくなる。

 だけど、ハルとオレの温度差は昔からだから、仕方ない。

 見学させてもらったピアノのレッスンで、ハルは本当に楽しそうにしていた。

 兄貴は笑っちゃうくらい誉め上手だった。

 そして、オレにはピアノなんてまるで分からないけど、それでも兄貴が何か教えるたびに、ハルの弾く曲がどんどん綺麗になっていくのはよく分かった。

「じゃあ、次で最後にしよう。思いっきり、楽しんで弾いてみて」

 兄貴の言葉を合図に、ハルが演奏をし始めた。

 ゆったりした優しい音楽が、ハルの指から紡ぎだされる。

 ハルの演奏は、そりゃ、子どもの頃から習っているような人に比べたら、まだまだ拙いと思う。

 だけど、ハルが紡ぐのはの人柄がにじみ出るような優しくて穏やかな、とても暖かい音だった。

「ハル、すごい!」

 気が付くと、ハルの後ろに立って手を叩いていた。

「すごく綺麗だった!」

 今すぐ抱きしめたいくらい、素敵な演奏だったよ、ハル!

 だけど、まだレッスンが終わっていないっぽいから、我慢した。

 そんな興奮気味のオレの言葉に、ハルはなぜか

「えっと……精進します」

 と返す。

「え? なんで、そうなるの?」

 ものすごく不思議だったけど、そのまま沙代さんと会話が始まり、ハルの答えは聞けなかった。

 今日のレッスンはそのまま終わり、兄貴も入れて三人で夕飯を食べた。



 そんな充実した時間を過ごした日の深夜、オレは

「……う……んん」

 ハルの声で目が覚めた。

「……ハル?」

 ハルの体調が良くない時は二つ並べた隣のベッドに寝る。具合が悪い時は一人で寝たいだろうから。だけど、元気な時は同じ布団にくるまって寝ることにしているんだ。

 最近は一人で寝かせてあげた方が良いのかどうか、迷う日が多い。

 それでも、今日は同じベッドにお邪魔した。ハルは先に寝ていて、オレが寝ようとした時には、スヤスヤと気持ちよさそうな寝息を立てていたから。

 なのに、そのハルが今は寝苦しそうに身じろぎし、うめき声を上げていた。

「ハル、……ハル、大丈夫? ……ハル」

 何度か声をかけると、ハルはうっすらと目を開いた。

「大丈夫? うなされてたみたいだけど」

 って言うか、あんまり大丈夫じゃなさそうな気がする。

 やけに息苦しそうだし。

 額に手を当てると、案の定、熱かった。

 ちゃんと計った方がいい気がする。

「熱、ありそうだね。ちょっと待っててね」

 体温計を取ってこようと身体を起こすと、ハルがパジャマの裾を掴んで引っ張った。

「ハル?」

「……行かないで」

 ささやくように、ハルは言った。

 可愛い!

 そんなことを思っている場合ではないのに、珍しく甘えてきたハルに目も耳も奪われる。

「どうした? 嫌な夢でも見た?」

 そのまま、思わず抱きしめると、やっぱり、全身があったかい。いや、あったかいと言うか熱い。明らかに発熱している。

「ハル、身体熱いよ。少し冷やそう?」

 取りあえず、氷枕。熱が高そうだったら、脇の下も冷やした方が良いかも知れない。

 だけど、ハルは小さな声で

「……寒いから、いい」

 と言う。

 寒気を感じる時は熱が上がる時。寒いのなら、冷やすより、あったかくしてあげた方が良い。

「まだ上がるかな」

 それなら、綿毛布でも出そうかと思っていると、ハルはオレの腕をキュッと握った。

「側にいて?」

 ……ダメだ。

 ハル、そんなこと言われたら、オレ、離れられないよ。

 ……うん。麺毛布よりオレの方があったかいよな?

 オレはもう一度、ハルを抱きしめなおし、ハルの頭をなで、背中をなでた。

 オレの腕の中でホッとしたように力を抜き、ほどなくハルの呼吸が寝息に変わった。



 明け方には、ハルの熱は上がり切ったようで、熱いと言うので身体を冷やし始めた。あわせて、呼吸も苦しそうだったから、酸素吸入も開始した。

「……カナ」

「うん。いるよ」

 ハルは寝苦しいのか、何度も目を覚まし、そしてオレを見つけるとホッとしたように、また眠りについた。

 こんな風に求められるのは、はじめてだ。嫌な夢でも見たのか、何か不安なことでもあるのか?

 布団の上に出た、ほっそりとした手を握り、頭をそっとなでる。

 髪の毛越しに触れた頭すら、怖いくらいに熱い。ハルの熱は39度を超えていた。

 土曜日の通院で、先生からは疲れが溜まっていると注意されていた。なのに、オレはハルが体調を崩すのを止められなかった。



 あまり眠れないままに日が登りはじめた。

 ハルを一人で置いていくのは心配で、今日の走り込みは中止。

 その代わり、雨の日にやる筋トレを寝室ですることにした。

 筋トレをしながら、昨夜の兄貴の言葉を思い出す。

 ……やっぱり、無理やりにでも課題をやるのを止めれば良かったのかな。

 いや、でも、あんなに楽しそうにしていたハルを止めるの?

 楽しそうにしている上、ずっと難しい問題なのに、オレなんかより、よっぽど短時間でこなしているハル。寝る時間だって、遅くなったと言っても、夜十時。今時、小学生だってもっと遅くまで起きているだろう。

 土日だって、平日の夜だって、普通の大学生は遊びまわっている。

 だけど、ハルは体調を崩さないように、部活もサークルもせず、遊びに行くこともなく、本当に家でゆっくりと身体を休めている。

 そんなハルが唯一力を入れているのは、勉強。

 ……それを、オレが止められるのか?

 ピアノだって、習っていると言っても、自宅で兄貴から週にたった三十分だ。気心が知れた相手だし、ストレスだってないと思う。

 兄貴には散々くぎを刺しておいたから、無茶なことは言わないだろうし。

 普段の練習だって、ハルがするのは十分、十五分程度で、身体の負担になると言う程ではない。大体、体調がひどく悪かったら、練習だって休むわけだし。

 それくらいの楽しみ、あったっていいよな?

 何より、本当に嬉しそうにピアノを弾く昨日のハルを見て、オレにハルを止められるか?

 ハルの趣味は読書と手芸。だけど、それがハルの趣味になったのは、多分、ベッドの上でできるから。休み休みでもできるからだ。

 ハルは手芸も読書も大好きだけど、それ以外に好きな物を持ったって、良いだろ?

 腕立て伏せ、拳立て伏せ、指立て伏せ。

 腹筋。

 スクワット。

 プランク。

 考えながら、ひたすら鍛錬。

「……しまった。やり過ぎた」

 いや、やり過ぎても別にいい。

 今更、やり過ぎたからって筋肉痛になるようなやわな身体じゃない。

 問題はそこじゃなくて、昨日、ハルと一緒に寝たくなって放置したレポートのこと。

 取りあえず、レポート片付けよう。

 オレは最後にストレッチをして、朝のトレーニングを終わらせると、デスクに移動してパソコンのスイッチを入れた。



 自分の支度を済ませた後、薬を飲ませるためにハルを起こした。

「ハル、ハル」

 好きなだけ寝かせておいてあげたいけど、ハルは決まった時間に薬を飲まないといけない。

「ハル」

 何度か声をかけると、ハルがうっすらと目を開けた。

「ハル、おはよう」

 ぼんやりとオレを見るハル。

 だるそうな呼吸と、熱に上気した肌と潤んだ目がかわいそうでならない。

「……おは、よ」

 少しかすれた声で、ハルは答えてくれた。

 頭をなで、額に浮かんだ汗を拭う。

「ハル、ご飯食べられそう? 薬飲まなきゃいけないから」

 そう聞くけど、ハルは左右に小さく首を振った。

「おかゆか、ゼリーならどうかな? それか、自家製スムージーとか」

「……ゼリー、少し、なら」

 本当はたぶん、まったく欲しくないんだろうなと思う。

 ただ、何も胃に入れずに薬を飲むのは良くないと、ハルはよく知っているから。

「すぐ持って来るね」

「ん。……ありがと」



「お義母さん、ハルのこと、お願いね?」

「はいはい。それもう5回目だから」

 今日は日勤だというお義母さんが通勤の時に、沙代さんと一緒にハルを病院に連れて行ってくれると言うから、オレは後ろ髪を引かれながらも大学に行くことになった。

 お義母さんが診察しただけじゃ足りない程度には、ハルの調子は良くない。

 さっき熱を測ったら39度8分もあったし、呼吸も酸素を吸入してもなお苦しそうで。

「何かあったら、電話お願いします」

「うん。それも5回目」

 苦笑いしながら、お義母さんは答える。

「でさ、陽菜は叶太くんの愛妻だけど、私にとっても可愛い娘なんだって、思い出して欲しいな~なんて」

「あーうん、もちろん分かってるんだけど」

「うんうん、分かってても陽菜のこと好きすぎて、抑えが効かないんだよね」

 からかうような声で言われるけど、そこに異存はない。

「そう! そうなの! だから、若干くどいのは許して!」

 そう返したオレの言葉にお義母さんは吹き出し、キッチンからは沙代さんの忍び笑いが聞こえてきた。



「……あ」

 一限目の授業が終わってすぐ、スマホを確認すると沙代さんからメールが届いていた。

 そこに書かれていたのは、ハルが入院したという報告。熱が高いから様子を見るための入院で、心配はないとのこと。そんな訳で、入院しているのもいつもの病室だと言う。

 だからって心配せずに済むわけでもない。

 熱があっても調子がそんなに悪くなければ、家で様子を見るんだから。

 今すぐ帰ってハルの側に付き添いたい!

 ……とは思えども、許されるはずがないわけで。

 思わずため息を吐くと、オレの様子をうかがっていたらしい河野が、

「何かあった?」

 と聞いてきた。

 木曜の朝イチは専門の講義。で、何となく山野先生の授業のメンバーで固まって受けていた。授業が始まる前にオレが話したから、ハルが熱を出してお休みというのは、みんな知っている。

 だから、隠す必要もないよな、

「ハルが入院したって」

 そう思って答えた瞬間、

「え!?」

「マジ!?」

「入院!?」

「大丈夫!?」

 四人から同時に返事が返ってきた。

 どうやら、河野以外もみんな、話に耳を傾けていたらしい。

 そっか。ハルの病気が心臓病だってのは、まだ言ってなかったんだっけ。

 高校までのクラスメート辺りとは違う反応が、少し新鮮だった。

「ああうん、大丈夫。割といつもの事だし」

 心配をかけないようにと思ってそう言うと、逆に四人の声がなくなり、なんか失敗したなと思う。

 考えてみれば、入院がいつもの事って、普通はあんまりないよな。4月、5月は大きく体調を崩すことはなくて、入院は3月以来。上手く体調をコントロールできていたと思う。

 ただ、これからハルの苦手な夏が来る。今くらいから秋の終わりまでは、多分、体調は下り坂。例年通り、何度も入院して治療する事になる気がする。

「えっと、取りあえず、移動しながら話そうか?」

 次の講義は一般教養だから、それぞれ違う教室になる。とは言え、途中までは一緒に歩けるし、少しくらいは話せるだろう。

 ハルの病気のことと、これから、休みが増えるだろうと思うこと、きっと話しておいた方がいい。


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