最初の曲
翌週の火曜日、カナから聞いていた通りに、山野先生の授業では二週連続で行うグループワークが始まった。一週目に班で課題をこなして、二週目に発表と講評をするという。
だけど、やっぱり、九十分の授業の中では全てを終えることができなかった。
そして、終わらなかった分を進めるために、放課後、班のメンバー六人でやって来たのは学内のカフェ。
お昼に比べて、夕方の時間帯は随分と空いていた。
小一時間議論して一段落。今は休憩中で、カナは飲み物を買いに行っていた。
四限目までの授業を受けた後の課外活動は、やっぱり体力的に相当厳しい。
疲れたなーと思っていると、
「ハルちゃんってさ、頭良いよね~」
と柚希ちゃんから声をかけられた。
「え?」
突然言われた言葉の意味がパッと頭に入って来ずに、思わず首を傾げると、
「でさ、天然って言われない?」
と続けて聞かれた。
「……てん、ねん?」
突然飛び出した言葉の意味が分からず、柚希ちゃんに聞き返すと、
「分かる分かる。なんか独特な雰囲気あるよね」
と柚希ちゃんの隣にいた美香ちゃんが同意した。
「いやでも、天然とは違うんじゃない? もっと、こう何て言うかさ……」
今度はわたしを天然ではないと、河野くんが口にする。
そこに飲み物を買いに行っていたカナが戻って来たので、思わず助けを求めるように見上げてしまった。
「なになに? どうした?」
隣の席に座り、わたしの前にミルクティーを置きながら、自然と会話に加わるカナ。
「いや、本城がハルちゃんは天然って言うから、天然じゃないと思うんだけど、じゃあなんだろうって話をしてたんだけど」
カナに状況を説明してくれたのは海堂くん。
放課後に集まるのは初めてだけど、5月から始まったグループワークで何度も一緒に課題をこなしていて、みんな結構仲がいい。とは言っても、授業中のワークでしか話していないから、みんなのプライベートなんかは全然知らないのだけど。
「ハルが?」
「うん。ハルちゃんって、ものすごく頭良いよねって。でもって、天然だよねって思ったんだけど」
柚希ちゃんがカナに説明する。
……そもそも、天然ってどんな意味だっけ? ちょっと普通とは違う行動をする人?
あんまりいい意味じゃないよね?
……わたし、そんな変なこと言ってた?
会話をする場が授業中で、話す内容がほとんどグループワークでの議論だけに、何かおかしなことをしでかしたかと思って、ドキッとして柚希ちゃんを見てしまった。
「いや、天然とは違うでしょ。そうじゃなくてさ、何ていうの、ほら……」
河野くんはまた、わたしの天然説を否定してくれていた。
人が人をどう思うかなんて、見られる側から指定できるものではない。だから、どう思われていても仕方ないと思うのだけど、それでも、変な風に思われていなかったらいいなとは思ってしまう。
河野くんの言葉を受けて、
「癒し系?」
カナが言うと、
「そう、それ!」
と河野くんはポンと手を叩いて、にこりと笑った。
「それなら、高校の時とか、たまに言われてたよ」
カナもにっこり笑ってそう言った。
本当に? わたし、聞いた事ないんだけど……。
「叶太くん、なんかハルちゃん、変な顔してるんだけどー」
柚希ちゃんの言葉に慌てて、言葉を紡ぐ。
「え? あの、変な顔って言うか……。ただ、そんな風に言われたこと、ない気がするんだけど……って思ってただけで」
首を傾げると、カナはくすくす笑った。
「ハルの前では言わなかったかもな。でも、言われてたよ」
「うん。確かに癒し系かも」
海堂くんが言い、美香ちゃんも続けた。
「そうだね。癒し系のがピッタリだよね。……でもさ、こんなフワフワして女の子らしくて、癒し系なのに、超絶頭が良いとか、ヤバくない?」
頭がいいんじゃなくて、ただ予習していたから、みんなより進んでいるだけなのだけど……。
そう言いたかったけど、天然とか癒し系とか頭が良いとか、なんか、自分を話題にされている状況に慣れなくて、会話に入っていけない。
思えば、高校までは幼稚部や初等部、中等部からの持ち上がりの子が周りにたくさんいて、こんな風に誰がどうだとか、話すことはあまりなかった気がする。大体、みんな知り合いだったし。
「ホント、ハルちゃん、頭いいよな? 同じ一年とは思えないし」
「山野先生の課題、ハルちゃんだけ次元が違う問題もらってるでしょ? あれ見せてもらって、私、本当に驚いたもん」
カナはわたしが困っているのに気が付いて、苦笑いしながら、まだ湯気が立っている紅茶を飲むように身振りで勧めてくれた。
会話に入る勇気もなくて、勧められるままにティーカップに手を伸ばした。
ミルクティは程よい温度に冷めていた。お砂糖なしだけど、ほんのりミルクの甘みが感じられてはとても美味しい。お腹の中からぬくもって、ほっこりする。
「ハルさ、入学前に予習してたんだよ、経営学」
「え?」
「予習?」
カナの言葉にみんなは不思議そうな顔をした。
「いや、頭良いのは昔からそうなんだけど、経営学については、家にすっごいたくさん本があって、入学前から自分で勉強してたから、進みが早いんだと思う」
「入学前に!?」
一斉にまるで珍獣を見るような目で見られて、思わず身を引く。
そんなにおかしいかな?
「2月くらいからだったよな?」
と振られて、
「うん」
と頷くと、なおさらみんなに驚かれる。
「2月!?」
「……あ、そうなの。わたしたち内部進学で、受験ないし、時間もあったから」
「いや、同じだけ時間あっても、勉強してたのはハルだけだからね?」
とカナが横から口を挟むと、
「知ってる知ってる。叶太くんは、私たちと同じような課題もらってるしね」
と柚希ちゃんが言って、みんなが笑った。
「だけどさ、正直なところ、大変じゃない?」
海堂くんの言葉に首を傾げる。
「大変?」
「いやだって、一人だけ時間かかる難しい宿題出されて、グループワークでも宿題出るようになって、こうやって集まって片付けなきゃならなくなってさ、しんどくない?」
「分かるー。なんで自分だけ難しい問題渡されるのよって、思うよね? 遊ぶ時間もなくなっちゃうじゃんね」
そう言ったのは美香ちゃん。
「習熟度別の課題って、今年からなんでしょ? しかも4月の途中から突然始まった感じだし。そもそも、ハルちゃんだけだよね、そんな難しいのをもらってる子。なんかさ、一歩間違えたらパワハラ?」
柚希ちゃんが何だか過激な発言をする。
けど、パワハラって、そういう意味だっけ?
「まあ、それは言い過ぎかも知れないけどさ、嫌だったら言った方がいいと思うよ」
河野くんがわたしの目をしっかり見つめて、真顔で言った。
何だか話がおかしな方向に向かっている。
「あの……でも、面白いから、大丈夫なの。心配してくれて、ありがとうね?」
そう言うと、みんなは
「あれが面白いのか」
とか
「信じられない」
とか
「ハルちゃん、プラス思考だね~」
とか口々に言い、笑った。
そして、隣のカナがくしゃりとわたしの頭をなでてきた。
「あのね、楽しそうにやってるの分かってるけど、オレも心配。最近、寝る時間も遅くなってきてるだろ? 無理は禁物だよ? 本当はさ、もう充分に進んだんだから、オレたちが追いつくまで、ハルは課題なしにしてくれって交渉してもいいと思うんだよね」
「……それは嫌」
そう言うと、
「ハルちゃん、もしかして勉強好き?」
と河野くんが聞いてきた。
「うん」
頷くと、なぜかみんなに笑われた。
……勉強、楽しいよね?
困っていると、海堂くんが笑いながら、
「じゃ、さ、そろそろ続きやろうぜ」
と声を上げてくれて、長かった休憩時間は終わり、課題の続きの議論が始まった。
最近、色んな人から「大丈夫?」と聞かれている気がする。
そして、勉強が好きだと言うと変な顔をされる。
晃太くんも、そして、河野くんや海堂くん、柚希ちゃん、美香ちゃん……。
そんなに、おかしいかな?
だけど、一番心配性のカナは心配そうにしながらも、無理には止めずに見守ってくれていた。
確かに、大丈夫だった。
課題を解くことに関しては。実際、みんなに言っていた通りに楽しかったから。
☆ ☆ ☆
水曜日。週の真ん中。
どうにも全身の気怠さをぬぐえない中、何とか一日の講義がすべて終わった。
教科書やノートを片付けていると、早々に片付け終わったカナが、とても真面目な表情でわたしの方を見た。
「ねえ、ハル」
「なあに?」
手を止めて、カナの方を見ると、
「今日はオレも一緒に帰るから」
と言いながら、片付け中だったわたしの荷物を、そのままカナが片付けてしまう。
「……え? なんで?」
水曜日は空手部の日。
だから、今日はカナの荷物はいつもより多い。今朝、カナはちゃんと道着を準備していたもの。
「ハル、すごく疲れた顔してる」
カナは心配そうに、わたしの頬に手を触れた。
「早く帰って、身体、休めよう」
「え、でも」
わたし一人でも身体は休められるし……。それに、確かに怠いけど、いつもに比べて特別という訳ではない。だから、晃太くんのレッスンだって受けるつもりだし……。
だけど、何か言う前に、カナはスッと二人分の荷物を肩にかけ、わたしに手を差し伸べた。
カナが部活に行く時も、毎週、お迎えの車までは送ってくれる。それもあって反射的にその手を取ると、カナはニコッと嬉しそうに笑ってくれた。
「ハルが大丈夫なら、ピアノのレッスンは止めないよ。だけど、オレも見学させてね?」
「あの、でも、カナ……」
背中をそっと押されて、そのまま歩き出しながら、訳も分からず言葉を返そうとすると、カナは有無を言わさぬ様子で続けた。
「今日は空手は休み。ハルだって空手の見学しただろ? オレにもたまには見せてよ、ピアノのレッスン」
「……え…っと」
本当に空手、休むの?
わたしの体調が良くなさそうで心配だから、と言うのなら断った。
だけど、わたしが空手の見学をさせてもらったのと同じように、ピアノのレッスンを見せて欲しいと言われると、断ってはいけない気がする。
だって、見学させてもらえて、わたし、本当に楽しかったから。
「今日で4回目だっけ?」
「うん」
答えてから思い出す。
「でも、カナ、いつもわたしが弾くの、聞いてるよね?」
レッスンの見学こそしていないけど、わたしが練習するのをカナはほぼ毎日聞いている。
だけど、カナは楽しそうに笑うと、
「ハル一人の練習は見せてもらってるけど、兄貴とのレッスンは別物だろ?」
と言って、わたしの髪をくしゃりとなでた。
晃太くんのレッスンでは、まず最初にわたしが一人で弾いて、その後に晃太くんが気になるところを教えてくれる。そこを直してまた弾いて、教えてもらって、というのを何度か繰り返す。
ちょっとしたアドバイスなのに、晃太くんの言う通りにすると、バラバラだった音がちゃんと曲になる。本当に不思議。
「いいね! すごく良くなったよ!」
初めての日から変わらず、今日も晃太くんは誉め上手。
いつもと違って、リビングのソファにはカナもいるから、何だかとても恥ずかしい。
何度目かの演奏の後、晃太くんは
「これなら、今日で仕上がりそうかな?」
と言った。
「え、ホント?」
思わず、晃太くんを見上げると、晃太くんはとても優しく笑ってくれた。
「うん。ハルちゃん、ホント、よく頑張ったね」
その言葉に、ふわりと心が温かくなる。そして同時に、お腹の底からふつふつと嬉しさが沸き上がって来た。
「いい笑顔」
晃太くんはニコッと笑うと、わたしの頭にふわりと手を置いた。
「じゃあ、もう一回弾いてみようか?」
「はい!」
晃太くんに注意されたところをしっかり心に思い浮かべ、わたしは鍵盤にそっと手を置いた。
あっと言う間に時間が過ぎて、
「うん。すごく良くなった! じゃあ、次で最後にしよう。思いっきり、楽しんで弾いてみて」
と晃太くんが言う。
ああ、そうか。
これで最後という事は、もうこの曲は終わりなんだ。
来週には、違う曲って事だよね?
何だか、とても名残惜しい。
だって、ほとんど毎日、弾いていたんだよ?
心を込めて弾こう。晃太くんが言う通りに、楽しんで弾こう。
自然と、そう思えた。
そうして、私は静かに曲を奏で始めた。
最後の一音の余韻が消えると同時に、部屋の中には拍手が鳴り響いた。
「ハル、すごい!」
気が付くと、カナが斜め後ろに立っていた。
「すごく綺麗だった!」
カナは興奮気味にそう言ってくれた。
わたしも、初めての曲にしてはちゃんと形になったと思う。
だけど、正直、カナの言葉があんまり大げさだったから、逆に恥ずかしくなってしまう。
次に聞いてもらう時には、もっと上手になっていよう。
「えっと……精進します」
「え? なんで、そうなるの?」
カナは不思議そうに首を傾げしながらも、楽しそうに笑った。
「お嬢さま、本当にとても素敵でしたよ」
知らぬ間に、沙代さんまでリビングにいて、なぜか涙ぐんでいた。
「お嬢さまがピアノを習いたいと言った時のことを思い出してしまいましたよ」
それは、小学校に入る前のことかしら?
沙代さんは、わたしが生まれる前から家にいて、ママよりもわたしのことをよく知っている。沙代さんの言葉に昔のことが思い浮かび、わたしも目頭が熱くなる。
あの時は、ピアノまで買ってもらって音楽教室に入れてもらったのに、結局、一ヶ月も通うことができなくてやめてしまった。
だけど、十年以上経った今日、ようやく曲らしい曲を弾ききることができた。
こんなくらいでおかしいよと自分で思うのに、なぜか目頭が熱くなる。
「……沙代さん、いつもありがとう」
そう言うと、沙代さんはとても優しい笑顔を浮かべた。
「ハルちゃん、お疲れ様」
晃太くんは二人との会話が終わるのを待ってから、声をかけてくれた。
「晃太くん、本当に……本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げると、晃太くんは
「俺の方こそ、ありがとう」
と、しゃがみ込んで、ピアノ椅子に座っているわたしと視線を合わせてくれた。
「今日はここまでにして、来週から、また新しい曲を頑張ろうか?」
「はい!」
「次の曲は、来週までに選んでおくね」
「よろしくお願いします」
晃太くんに頭を下げながら、そうだ、今度お休みの日に、パパにも聞いてもらおうと思った。今更だけど、ようやく日の目を見たピアノを買ってくれてありがとうというお礼も言おうと……。
とっても充実した、本当に楽しい時間を過ごしたのに、その夜、わたしはまた熱を出した。




