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15年目の小さな試練  作者: 真矢すみれ
15年目の小さな試練
22/42

兄貴の忠告

「叶太、ハルちゃん、大丈夫?」

 水曜日の夜九時過ぎ、兄貴から電話がかかってきた。

 そして開口一番兄貴が言ったのが、この言葉だった。

「え? ……何が?」

 ハルは少し前に先にベッドに入った。

 週の半ばの水曜日。疲れが出やすい時期ではあるけど、特に体調が悪いと言うこともなかった。

 だから、兄貴の言葉はホント、思いもよらなくて、オレは兄貴の声を聞きながら首を傾げる。

「いや、大丈夫ならいいんだけど」

 兄貴はそう軽く返すけど、それで終わりにできるはずがない。

「ちょっと待って! ちゃんと教えてよ」



 空手部に入って二回までは、兄貴を頼んでハルも見学に来ていた。だけど、たまの一回ならまだしも、毎週帰りが夜の七時を過ぎるのはハルには負担が過ぎる。

 どうしようと思っていたら、何故か毎週水曜日の夕方、ハルが兄貴にピアノを教えてもらうという事になっていた。

「だから、カナは空手、行ってきてね」

 ハルはにっこり笑って言ったけど、オレは青天の霹靂で目が点。だけど兄貴に聞いても、それで間違いないというし、ハルを連れ歩くよりも、家で一人で置いておくよりも、ハルが楽しめるなら兄貴とピアノを弾いている方がいいのは間違いなくて。

 ものすごく微妙だったけど、オレは兄貴にハルを頼むことにした。

 何故か、夕飯も兄貴とハルの二人で食べることになったらしく、

「だから、カナは最後まで練習してきてね?」

 そう言うハルの言葉には有無を言わせない何かがあって、オレは納得いかないながらも、頷くしかなかった。



 そんな訳で、今日は四回目の空手部、ハルの二回目のピアノの日だった。

 夕方、ピアノを教えてもらって、そのまま夕飯を一緒に食べて、それから二人でお茶を飲みながらおしゃべりしたと言っていた。

 その中で、オレの知らない話が出ていたとしたら、「ハルちゃん、大丈夫?」の言葉にはとても重い意味がある。

「うーん、何がどうって訳でもないんだけどさ」

「それでも良いから。……ハル、そんなに疲れてた?」

 いや確かに疲れているんだ。

 大学に入学してから、やたらと課題やレポートが多く出る。どれもハルは楽しそうにやっているけど、とにかく量が多くて、就寝時間がこれまでの九時から徐々に十時に伸びつつある。

 そして土日も、一日身体を休められる日はほとんどなくなっていた。高校時代は土日のどちらかは、ほぼ丸一日寝て過ごす生活だったのに。

 ちなみにオレは更に時間がかかっていて、ハルが寝た後、各種課題を夜中までかけて片付けている。この辺りに、頭の出来の違いがしっかり出ている。

「いや、ハルちゃんは楽しそうだったけど、ちょっとあれは尋常じゃないって言うか……」

 兄貴は言葉を濁したけど、それは多分、習熟度別に出されている課題の事だろう。

「山野先生の演習のこと?」

「そう、それ。今日、ハルちゃんに今出てる課題ってのを見せてもらったんだけど、ちょっと一年生がやるには難しすぎるだろうって思って、さすがに心配になった」

「……正直、オレには訳わかんない感じなんだけど、やっぱり難しい?」

 量は確かに、同じ一回の課題とは思えないくらいで、オレがもらってるものの数倍の量。信じられないくらい多いと思う。ただ、ハルは毎回、きっちりと提出していて、新しくもらう度に増えているから、難易度が上がると同時に量も増えるんだなと思っていた。

「ああ、俺が出されたんだとしてもおかしくないんじゃないかな」

「え、そんなに難しいの!?」

 院生の兄貴が解くような問題って、どんなんだよ。オレたち、二ヶ月前に入学したばっかりだぞ!?

 オレの声が結構大きかったのか、兄貴は

「いや、さすがに俺は普通に解けるけどな?」

 と少し慌てたように言った。

 その言葉に少しほっとする。

「……だよね」

「だけど、こんなハイペースで行ったら、夏休み前には院生が頭を悩ませるような課題に入るんじゃないかな」

「……そんなに?」

 でも、ハル、楽しそうにしてるんだよな。

 無理できない身体で、高校時代は先生たちもかなりハルには気を使っていた。宿題だってできなければ無理はしなくていいって、いつも言われていた。

 今、山野先生の授業ではそういう手加減がないのを、ハルは喜んでいる節すらある。ちなみに他の授業でも、高校時代みたいな気遣いはないけど、ハルは難なくこなしているから、まったく問題ない。

「まあ、さ、大丈夫そうなら別に良いんだ。ただ、ちょっと求められてるレベルが高すぎて、驚いて」

 だよね。

 兄貴は、あんまり知らないよな。過去、何度もハルは頭がいいと言ってきたけど、五歳も離れていたら、その頭の良さに触れることはなかっただろう。

「ハル、本当に頭いいだろ?」

「ああ。……明仁を思い出したよ。ハルちゃん、おっとりしてるし、全然違うタイプだと思ってたんだけど」

「明兄も、バカみたいに頭いいよね」

 オレの言葉に兄貴は吹き出した。

「お前、バカみたいに頭いいって、日本語おかしいだろ!」

 面白そうに笑いながら、兄貴は言う。

 確かに。

 思わず、オレも笑ってしまった。

「まあ、ハルちゃんが楽しければいいんだけどさ」

「うん。ありがとう。気を付けて見ておくね。……っても、ハルがやってる内容、実はよく分からないんだけど」

 オレの言葉に兄貴はまた笑う。

「そりゃそうだ。三年か四年になる頃に理解できれば十分だよ」

「うん。……ホント、なんか最近、兄貴に頼ってばっかりだよね。本当にありがとう」

 そこでふと心配になって、聞いてみる。

「あのさ……彼女さん、怒ってない? GW明けは一週間、毎日ハルの付き添い頼んじゃったし、その後も水曜日ごとに放課後付き合わせて」

 オレの言葉に兄貴はこともなげに答えた。

「ああ、今、フリーだから大丈夫」

「……え?」

 ちょっと待って!?

「兄貴、彼女いたよね!?」

「ああ、いたけど、別れた」

「別れた!? いつ!?」

「叶太、声大きすぎ」

 スマホを顔から離したのか、兄貴の声が少し遠ざかった。

「あ、ごめん。いや、でも別れたって!」

 今の彼女とは多分、オレたちの結婚前から続いていたはずだ。オレが知っている限り、今年の春はまだ付き合っていた。

 はっきり言って、兄貴はモテる。整った優しい顔をしているし、すらりと背も高いし、穏やかで性格も温厚、人当たりもすごくいい。多分、高校生の頃から彼女が途切れたことはほとんどない。

「うーん。別れたのは割と最近。もういいかなと思って」

「え、最近? って、ちょっと待って!? もしかして、オレのせい!?」

「いや、そんな事ないから、心配するな」

 兄貴は穏やかにそう言うけど、嫌な予感がする。こう言う勘って、けっこう当たるんだ。

「……多分、違うよね? それ、絶対オレのせいだよね? ごめん、兄貴! どうしよう、オレ、彼女さんに謝りに行こうか!?」

「叶太、落ち着け」

「いや、落ち着けないし!」

 兄貴は困ったように言葉を続けた。

「なんて言うかさ、潮時だったんだよ。だから、お前のせいじゃない」

「……いや、だけど」

 だけど、オレが無理なお願いしなかったら、別れたりしなかったんだよね?

 オレが察してしまったのを感じて、兄貴はそれ以上、オレのせいではないと言わなかった。

 もしかして、オレ、この話題に触れない方が良かった?

 何であれ、男女間の話に弟が口出すとか、おかしい?

「あのさ、叶太、こんな話をお前にするのは何だけど、普通に付き合ってたら、別れることって結構あるからな?」

「ん?」

「お前はハルちゃん一筋で、よそ見なんて一回もしてないだろうし、ハルちゃんと別れるなんて考えたこともないだろうけど」

「ああ、うん、そりゃもちろん」

 オレがそう言うと、兄貴はぷっと吹き出した。

「うん、そうだろうな。だから、別れたって聞いて動揺するんだろうけど、世の中ではよくあることだからな?」

「……そう、かも?」

 確かに周りではそう言う話もよく聞く。

 兄貴にしても、今までにも何人も彼女が変わっているのは知っていた。

「そうそう」

「でも、今回のは、オレのせい……だよね?」

 兄貴は小さくため息を吐いた。

 ごめん。やっぱり、ここ、突っ込んじゃダメなところ? もしかして、オレ、空気読めてない?

「確かに、きっかけ、にはなったね」

 兄貴は、それから思いもよらないことを口にした。

「俺さ、お前のハルちゃんへの一途な思いを、十年以上、同じ家で見続けて来たんだよな」

「……あー、うん」

 実家に住んでいた頃、オレがハルの話をするのはいつもの事だった。兄貴にはハルとの関係に悩んで相談した事もあるくらいだ。多分、親父やお袋より、兄貴が一番オレの熱い想いを知っているだろう。

「お前はハルちゃんが好きで好きで仕方なくて、いつもハルちゃんを一番に思っていて、自分よりもハルちゃんを優先していて。……その深い愛を目の当たりにして、いつもすごいなと思ってたんだ」

「そ、そう?」

 照れるじゃないか、兄貴!

「で、我が身を振り返ってみると、何となく告白されて、何となく付き合って、だけど、格別のめり込むように相手を好きになることもなく、って感じなんだよな。求められて、好きだって言われて。……ただ、自分の方に身を焦がすような熱いものがなくても、それはまあそれでいいと思っていたんだけどね」

 そこで兄貴は一度言葉を区切った。

「お前たちだって、叶太の方が明らかに暑苦しくハルちゃんを想っていて、ハルちゃんの方はもっと穏やかな感じだもんな」

 いや待って、兄貴。

 言いたいことは分かるけど、何その、まるでオレが愛されていないみたいな言葉。やめてよ、ハルは表に出さないだけで、ちゃんとオレのこと愛してくれてるからね?

 だけど、空気を読んで、オレはその想いを口に出さなかった。

 オレが言葉を飲み込んでいると、兄貴は少しの間の後、また話し出した。

「だから、温度差は仕方ないと思ってた。……だけど正直、弟と私、どっちが大事なの? とか、義理の妹より彼女の方を大切にしてよ、とか言われて、うんざりした」 

「……え?」

 彼女さん、それはちょっとまずいんじゃないかな?

 元はと言えば自分が引き起こしたことと思いつつ、オレはそんな事を思った。

「兄貴、事情は説明したんだよね?」

 ハルには結構深刻な持病がある。だからこそ頼んだんだ。しかも、ずっとじゃなくて、オレのインフルエンザが完治するまでの間だけの話だ。

 いや、もしかして、その後の水曜日がダメだったか!?

 一週間は我慢できても、それが毎週となると許せないとか?

 思い起こせば、空手部の初日、付き合ってはくれたけど、兄貴は練習の後に用事があるからと車で出かけて行った。二回目は行き先は一緒だからと家まで送ってくれたのに。あの時も彼女さんと約束があったとか?

 いや、それ以前に彼女さんにも自分を優先してほしい事情があったのかも? そこはきっと考えなきゃいけない。

 だけど、ごめん、兄貴。もしもう一度あの日に戻っても、オレは多分、兄貴を頼っちゃうよ。ハルに何かあったらと思うと、他の選択肢は思いつけない。

 オレが絶賛混乱している間に、兄貴は言葉を続けた。

「もちろん説明したよ。それを聞いた上で、その言葉だからね。何て言うか、そういう人間だったんだなと思ったら……冷めた」

 最後の言葉でぐっと温度が下がった。

 そこに兄貴の静かな怒りを見た気がして、息を飲む。兄貴が怒っているところなんて、初めて見た気がする。

「一年以上付き合ってそんな関係しか築けなかったのは、残念だったけどね。『ごめんね、どっちが大事とか言う問題じゃなくて、ただ困ってる弟の力になりたいだけだったんだけど。きっとまた同じことがあったら、俺は同じことをしちゃうと思うから、それが耐えられないなら、別れよう』……って言って、それで、おしまい」

「え!? 兄貴から振ったの!?」

「そう。ああ、この子は自分しか見えてないんだなと思ったら、なんか嫌になったんだよな。謝ってきたけど、もう生理的に受け付けなかったし。そういう訳だから、お前のせいじゃないよ」

「……いや、オレのせいだよね?」

 そんな風にもめた後で、その相手と付き合い続けるかどうかはともかくとして、別れることになったきっかけは間違いなくオレだろ。

「むしろ、ありがとう、だよ。薄っぺらい人間関係しか築けなかったのは情けなかったけど、そういう人間だって、早く気付けて良かったと思う」

 兄貴は自嘲するようにそう言った。

 穏やかな兄貴がそこまでの嫌悪感を抱くくらいには、元彼女さんは嫌な言葉を口にしたのかも知れない。

 きっと、オレには言わない何かがあったんだろうな、と思うと本当に申し訳なくなる。

「えーと、なんか色々ごめんね?」

 こんなの話していて気持ちいいものじゃないだろう。

 だけど、兄貴はオレが気にしていたから教えてくれた。オレの頼みを何だかんだ言って聞いてくれるところとか、こう言うところとか、本当に優しいと思う。

「いや、遅い時間に長電話、悪かったな」

「ううん。オレは全然、大丈夫。ホント、ありがとう」

「いや。じゃ、また」

「うん。おやすみ!」

「おやすみ」

 兄貴との電話を切って、ふと思う。

 いつか、兄貴にも本当に愛し愛される相手が見つかるといいな、と。

 そして、ハルとの出会いが本当に得難い、かけがえのないものなのだと改めて実感する。

 今日はもう寝よう。

 無性にハルの温もりが恋しくて、オレはやろうと思っていたレポートを放置する事に決め、いそいそと寝室に入るとそっと布団をめくって、ハルの隣に潜り込むのだった。

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