初レッスン
初めてのピアノレッスンの日、
「ハルちゃん、楽譜読めるんだ」
晃太くんが驚いたようにわたしを見た。
「……学校で習うよ、ね?」
なぜ晃太くんが驚くのかが分からず、わたしは小首を傾げて、まじまじと晃太くんを見つめてしまった。
「ああうん、習うね。だけど、和音なんかは楽器とかやってなきゃ、普通読めないんだけど。……ってか、ハルちゃんって苦手科目ある?」
「え? 苦手? ……体育」
思わず声のトーンが下がってしまう。
わたしが苦手なものって言ったら、聞くまでもなく、それしかないよね?
実技なんて、一度もやったことがないし。
だけど、わたしの答えを聞いて、何故か晃太くんは吹き出した。
「あはは。……そっか。苦手なものはなしか。さすがハルちゃん」
何がさすがなのか、まったく分からない。体育が苦手だと言ったのに、苦手はなしとか言われてるし。
困っていると晃太くんは笑いを納めてくれた。
だけど、晃太くんの笑いのツボがどこにあったのかは分からないまま。
「ごめんごめん。うん。じゃあ、……はじめようか」
そうして、晃太くんが何に笑ったのか分からないままに、初めてのピアノレッスンは始まった。
「ハルちゃん、上手!」
「筋がいいね!」
「うん、いい音!」
晃太くんはとっても誉め上手だった。
素敵な言葉をたくさんもらって、何だか心がほっこりして、言われるままに楽しく弾いている内に、あっと言う間に時間が過ぎていく。
小学一年生の時の一ヶ月なんて習った内に入らないから、わたしは完全な初心者だ。そんな訳で、晃太くんの褒め言葉のすべてを本当だとは、とても思えない。
だけど、それでも、やっぱり嬉しかった。
晃太くんはきっと先生に向いている。小さな子どもだったら、嬉しくなって、もっともっと褒めてもらおうと思って頑張ると思う。で、頑張った結果、きっと楽しみながら上手になるんだ。
教えてもらいながら、たどたどしいながらも、何とか最初のページを弾けるようになった辺りで、ダイニングに繋がる引き戸が開かれた。
「晃太さん、お嬢さま、お食事の準備が整いましたよ」
沙代さんのそんな言葉に手を止める。
時計を見ると、ちょうどレッスンスタートから三十分が経っていた。
晃太くんのピアノ教室は三十分のお約束。だから、沙代さんは多分、終わりの時間に合わせてご飯を準備していて、そして、延長しないように声をかけてくれたのだと思う。
わたしが疲れないように……だよね。
もしかしたら、カナに頼まれたのかも知れない。
晃太くんがわたしの後ろから、
「ありがとうございます」
と明るい声で返事をした。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
次いで、晃太くんはわたしに視線を移してレッスン終了を告げた。
「はい」
ゆっくり立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました」
すると、晃太くんは嬉しそうに笑いながら、楽譜を閉じてピアノの上に置き、慣れた仕草で鍵盤にフェルトを乗せた。慌てて手伝おうとすると「大丈夫」と笑顔で断られる。
……反省。次からは、自分でちゃんとやろう。
だけど、晃太くんは気にする様子もなく、ピアノの蓋を閉めながら、
「とっても上手だったよ。ちょっと驚いた。ハルちゃん、ホント筋が良いよ」
と、またしても褒めてくれた。
「まさか!」
即座に返したわたしの言葉に、晃太くんは笑いながら、
「あれ? 先生の言うことを疑うの?」
と言う。
慌てて、左右に首を振って、
「そんなこと! ……ない、けど」
と前言を撤回……したんだかしないんだか、という微妙な言葉を口にすると、晃太くんはクスクスと楽しそうに笑った。
「本当に上手だよ。自信持っていい」
改めて晃太くんはそう言って、わたしの頭をポンポンと優しく叩いた。
……そっか。
もしかして、初めての割には上手って意味かな。
そう思うと、誉め言葉をありがたく受け取ることができた。
6歳で習った時と違って、今は楽譜は読めるし鍵盤ハーモニカやリコーダーの経験はある。小さな子が初めて習うのに比べたら、少しばかり上手なのは当たり前だ。
「……ありがとう」
小声でお礼を言うと、晃太くんはにこりと笑った。
「じゃ、続きは来週に。もし、次回までに弾くことがあったら、先に進んでも良いし、今日のところを弾いても良いよ」
4ページの曲で、今日は最初の2ページを教えてもらった。宿題は今日のところの復習で、残り2ページは次回に教えてもらうのかと思ったら、晃太くんはわたしの好きにしていいと言う。
だけど次の瞬間、晃太くんは
「あ、もちろん、無理に練習する必要はないからね? 弾きたければ、ってことだよ」
と言葉を続けた。
晃太くんの言葉の中にカナの意志を感じて、思わず苦笑する。
わたしの苦笑の意味を感じ取ってか、晃太くんも苦笑い。
「まあ、これくらいの曲を楽しんで弾く分には、そう体力使うわけでもないから、ホント、ハルちゃんの好きにして良いと思うよ?」
「うん」
そして、晃太くんはクスクス笑いながら言った。
「どうせ、ハルちゃんが無理しようとしたって、叶太が許さないだろうし?」
……だよね。カナ、心配性だし。
晃太くんは笑顔のままに食堂の方に視線を向けた。
「沙代さんのご飯、久しぶり。今日はなんだろうね?」
「えっとね、今日は和食だって言ってたよ」
「いいね! 沙代さんの料理、本当に美味しいよね」
楽しげにそう言うと、晃太くんはわたしを促し、足取り軽く食堂に向かった。
お兄ちゃんがいた頃は、晃太くんもよく遊びに来ていて、ご飯もよく食べていった。
今日はカナ、最後まで空手をやって来る。パパもママもまだ帰っていない。だから、ご飯は晃太くんと二人で食べる予定。
カナもお兄ちゃんもいないところで、晃太くんと2人で夕食を食べるというのが、何だかとても不思議だった。不思議なのに、何故か妙に懐かしかった。
お風呂上がりに食堂を覗くとカナが帰ってきていた。
「おかえりなさい」
カナは夕飯の途中なのに、お茶碗とお箸を置くと立ち上がって、わたしのところに駆け寄ってくる。
「ただいま、ハル」
それから、カナにギュッと抱きしめられる。
「いいにおい」
「お風呂上りだから」
「……あ、オレ、汗臭くない?」
「全然」
それから、
「空手、楽しかった?」
「ピアノ、楽しかった?」
二人同時に言って、思わず顔を見合わせて笑う。
ひとしきり笑ってから、カナが最初に答えてくれた。
「いい汗かいたよ。今日は黒帯の先輩が二人来てて、オレいらないんじゃないかと思ったけど」
カナに促されて、カナの隣の席に座る。
「黒帯の先輩たちと淳と、割と真面目に組み手やって来た」
「わあ、見たかったなぁ」
「う~ん。結構激しかったし、ハルはいなくてよかったかも」
カナは笑いながら言う。
見てみたかったのは本当。だけど、カナがわたしがいないことでのびのびと楽しめたのなら、それで十分嬉しい。
話しながら、カナの前のご飯はどんどん片付けられていく。
「ハルも教えてよ。ピアノ、兄貴、ちゃんと教えてくれた?」
カナはからかうように言う。
「うん。……えっとね、わたし、全然上手に弾けないんだけど、でも、すごく楽しかった!」
「そっか。よかった。今度、聞かせてくれる?」
「うん。えっと、もっと弾けるようになったら、ね?」
「楽しみに待ってるね」
カナの言葉に頷いたけど、考えてみたら、一日のほとんどをカナと一緒にいるのだから、練習しようと思ったら、聞かせるつもりがなくても、カナに聞かせる事になっちゃうんじゃないかな?
「ごちそうさま! 沙代さん、美味しかった~!」
気が付くと、カナは夕飯を食べ終わって、お皿を重ね始めていた。
「お粗末さまでした」
キッチンで片付け物をしていた沙代さんが顔を出した。
「遅い時間にごめんね」
「いえいえ、お気になさらず。奥さまも旦那さまも遅い日は遅いですからね」
カナと沙代さんの会話を聞きながら、思わずあくびをすると、カナが目ざとく気が付いて心配そうな顔をする。
「ハル、疲れただろ? もう今日は寝る?」
「……ううん。お勉強、しなきゃ」
そう。一つ片づけておきたいレポートがあるんだ。まだ夜8時半。一時間くらいは起きていても良いかな?
だけど、もう一度、あくびをするとカナに問答無用で抱き上げられた。
「今日はもう寝よう? 明日も学校行きたいだろ?」
「行きたいけど。……大丈夫だよ?」
……ああ、でも、……カナ、あったかい。
運動した後だからか、ご飯を食べたところだからか、カナの体温はいつもより高いみたいで、そのぬくもりに触れていると、何だか妙に眠くなる。思わず目を閉じると、
「歯磨き、もうしただろ? このまま寝てもいいよ?」
カナは笑いながらそう言って、そのままわたしを寝室へ運んだ。
ベッドに降ろされ、布団をかけられたと思ったら、額にキスが降って来た。
「おやすみ、ハル」
まだ、おやすみしたくなくて、返事をせずにいると、わたしの考えている事に気が付いたのか、カナがクスッと笑った。
だけど、もう目がとろんとして、もう一度起きて何かするのは無理そうだった。
仕方なく、
「……おやすみなさい」
と口にすると、カナは満面の笑みを浮かべて、もう一度、
「おやすみ」
と、今度は頬にキスが降ってきた。
翌日の夕方、ピアノの練習をしようとしたら、カナに「絶対に無理しないこと。長くても一日に三十分まで」と約束をさせられた。
だけど、約束するまでもなく、体力的に三十分は厳しくて、ピアノに触れられるのはせいぜい十分か十五分。それでも、きっと毎日の積み重ねが大切だと思って、少しでも弾くようにした。
わたしがピアノを弾いているのを見て、パパがとても驚いていた。だから、晃太くんにピアノを教えてもらう事になったと話したら、パパは、買ってもらってから十数年、やっと日の目を見たピアノに目をやり、
「弾けるようになるといいな。無理せず楽しむんだよ」
と、わたしの頭をなでてくれた。
木曜日と金曜日は、学校に行って講義を受けて、帰ったら、ほんの少しだけピアノの練習をして、夜は大学で出た課題を片付けて。
土曜日には病院に行って、「疲れが出てるから、無理しないように」と言われて、カナに無理やりお昼寝をさせられて。寝る前に少しだけピアノを弾いて。
日曜日は半日だけ寝て過ごして、それから、少しだけピアノを弾いて、溜まった課題を片付けて。
また同じように、講義を受けてピアノの練習をして課題を片付ける月曜日と火曜日を過ごしたら、あっと言う間に一週間が過ぎていて、晃太くんのピアノレッスンの日が来た。
最初に一回弾いてみてと言われて、弾いてみせると、晃太くんは
「すごいね、ハルちゃん、練習したんだ!」
と、驚いたような声を上げた。
「あの……練習って程はできなかったのだけど、少しだけ……」
一日十分を一週間頑張ったって、合わせて一時間にしかならない。
練習したと言えるレベルではないよね?
驚かれて、逆に恥ずかしくなる。
「いや、でも、弾いてたよね?」
「……一日、十分とか十五分とか、ホント、それくらいだけど」
「毎日?」
「うん」
頷くと、晃太くんは嬉しそうに笑った。
「教えたところを練習したんだよね? 続きは?」
「そこまではできなかった、です」
ごめんなさいという気持ちを込めて言うと、晃太くんは、
「了解。全然問題ないよ。じゃあ、もう一回弾いてみて」
と優しく言った。
ピアノを教えてもらった後で、一緒にご飯を食べながら大学の授業の話をした。
食事の後、求められるままに、一番最近、山野先生にもらった課題を見せると、晃太くんは早速、プリントを読み始めた。
珍しく怖い顔の晃太くんは、眉根を寄せたままにプリントをめくる。
課題のプリントにはキーワードにマーカーを引いていたり、ちょっとした言葉を書き込んだりしていた。
そんなに変なこと書いてしまったかと思って、焦っていると、数分後、
「……ハルちゃん、これやってるの?」
と晃太くんは幾分こわばった声で言った。
「うん。あの、わたし、何かおかしなこと、書いてた?」
「え? ……あ、違う違う!」
わたしの不安そうな声に気が付いて、晃太くんは急に表情を緩めると、いつもの優しい顔に戻った。
「ハルちゃん、今までもらった課題って取ってある?」
「うん」
「見せてもらってもいい?」
「うん。待っててね」
本棚に手を伸ばして、これまでもらったプリントを閉じたバインダーを渡すと、晃太くんはまた真面目な顔でめくり始めた。そっちは、過去のものだから、先生からのコメントや評価も書かれている。
少し待ったけど、晃太くんはプリントから目を離さなかった。一つを見終わると、次の物もまた真面目な顔で読んでいる。
「晃太くん、お茶、入れてくるね?」
「……あ、ごめん。おかまいなく」
晃太くんは一瞬だけ、わたしの方を見て、すぐにまたプリントに視線を落とした。
沙代さんがいなかったので、ティーバッグで紅茶を入れる。ミルクとレモンを用意して、紅茶の入ったマグカップと一緒にお盆に乗せて部屋に戻ると、晃太くんはようやくプリントから顔を上げた。
「ありがとう。ごめんね、気を使わせて」
「ううん。えっと、わたしが入れたティーバッグの紅茶だから、そんなに美味しくないかも。よかったら、ミルクかレモンを入れて飲んでね?」
晃太くんの前に紅茶を置きながらそう言うと、晃太くんはくすくす笑う。
「ありがとう。ハルちゃんはミルクティなんだ。じゃ、俺もそうしようかな?」
そう言って、晃太くんはミルクポットに手を伸ばした。
「……課題、面白かった?」
「そうだな。うん、なかなか興味深い、かな。……ねえ、ハルちゃん、同じ授業の課題、叶太のもある?」
「カナの?」
「うん。もしよかったら、見せて欲しいな」
「えっと、……少し待っててね?」
とカナの机に向かう。
同じメーカーの色違いのバインダーを使っているから、すぐに分かる。
晃太くんになら、見せても良いよね?
「はい、お待たせしました」
晃太くんがちょうど紅茶を飲んでいるところだったから、取り出したバインダーは机の上に置いた。
「ありがとう。見せてもらうね」
晃太くんはマグカップを机に置くと、今度はカナの課題を読み始める。
わたしがもらうのとは枚数が違っていて、カナのバインダーの中身は大分薄い。
カナの椅子に座って覗き見ると、晃太くんが丁寧に読んでいるのは、先生からの評価やコメントが書かれているページだった。
たまに、カナに質問されるから、わたしもカナのもらっている課題を見ることはある。確かに、晃太くんが気にするのも道理なのかも知れない。それくらい、カナがもらっている課題は簡単だった。
ううん。そうじゃなくて、カナの方が普通。
他の子たちがもらっているのも、カナと同じようなものだもの。
課題の提出期限はもらってから二週間以内。だけど、一週間で提出できたら、次の課題をもらえるというシステム。やる気満々の子は毎週次の課題をもらい、先へ先へと進めている。でも、少しでも楽したい子はできていても二週間目に提出しているみたい。
わたしは最初の課題を提出した時にもらった課題までは、みんなと同じだったけど、その2つ目の課題を提出する時から、一人分厚い別の課題を渡されるようになった。
「一回目の課題の出来が素晴らしかったの。ちょっと難しいかも知れないけど、あなたならきっとできると思って。頑張ってみて?」
山野先生はにこりと笑って、一回目の課題を返すと同時に、十枚つづりの課題を渡してくれた。返されたレポートには「AAA+」と書かれていた。
「……ルちゃん、ハルちゃん」
晃太くんの声に我に返る。
「……あ、ごめんなさい!」
「大丈夫? 疲れちゃったよね?」
心配そうに覗き込まれながら、首を左右に振る。
「ううん。平気。ごめんね」
「いや、俺はいいんだけど」
ただ、物思いにふけっていただけなのに、晃太くんはわたしのおでこに手をやった。
「熱はないみたいだけど、今日はもう寝た方が……」
「あの! ただ考え事してただけだから!」
慌てて言うと、晃太くんは「あっ」と言って何度か瞬きした。
「そっか。ごめんね。俺がずっとこれ見てたから、退屈だったよね」
それから、晃太くんはスッと真顔になった。
「ハルちゃん、これ、大変じゃない?」
「課題? ううん。面白いけど」
確かに考えることはいっぱいあるけど、課題自体は面白い。
正直、最初にもらった単純な課題より、枚数が増えた3回目以降の課題の方が、読んでいても、解答を書いていても楽しい。
小首を傾げてそう答えると、晃太くんはぷっと吹き出した。
「……ハルちゃんって、ホント、勉強好きなんだな」
晃太くんはわたしの書棚の、経営学関係の本が並んでいる一角を眺めながら笑った。
「あれを一ヶ月や二ヶ月で読んで理解できるんだもんな。……てか、増えてる?」
「あ、うん。少しだけ」
課題を解いていると、まだまだ分からない事が出て来る。その疑問にヒントをくれそうな本を何冊か買い足して読んでいた。
「うーん。ハルちゃんが楽しいなら良いのかも知れないけど……」
晃太くんはもう一度、わたしの課題に目を落とした。
「ハルちゃん、これさ、ホント、普通じゃ考えられないくらい、難しいのをもらってるよ。解くの、時間かかるでしょう?」
「……んー、それなりに、かかるかなぁ」
確かに、他の授業で出る課題とは比べ物にならないくらいには時間がかかってる。
「山野先生、なんて言って、これくれるの?」
「課題をもらう時?」
「うん」
「えっとね、『あなたなら出来ると思う』とか、『頑張ってみて』とか、それから、『期待してるわよ』……とか、」
言いながら、何だか恥ずかしくなってくる。
その他にも色々言われたけど、そんな言葉に嬉しくなって、つい頑張ってしまったとか、何だか子どもみたい。
思わず赤くなって俯くと、晃太くんはくすりと笑った。
「ハルちゃんが楽しいなら、まあ、良いんだけどね。何か困ったことが出てきたら、いつでも言ってね? 相談に乗るからさ」
晃太くんはそう言って、わたしの頭をぐりぐりとなでた。
最近、晃太くんに頭をなでられることが多いな、とふと思った。




