ハルちゃんの病気2
「正直、叶太くんには甘えすぎてたかなって思ってるんだよね」
おばさんは豆をひくところから入れたという香り高いコーヒーを口にし、小さくため息を吐いた。先日の紅茶に引き続き、今日のコーヒーもすごく美味しかった。
「甘えてますか? ハルちゃんがそんな風に叶太にべったり甘えるイメージ、ないけど」
「ああ、そうじゃなくて。陽菜は甘えないんだけどね、私たちが」
俺が何のことか分からずにいると、おばさんは説明してくれた。
「陽菜はさ、まあ、あんな感じで端から見れば、ひどく弱くて脆くて、うっかり触ると壊れそうな感じじゃない?」
「……えーっと、そうですか?」
確かに身体は弱いし細すぎるくらい細いけど、ハルちゃんの芯は結構強い印象がある。
それを伝えると、おばさんはなるほどねと頷いた。
「そっか。晃太くんにはそう見えるのか」
そうして、おばさんはコーヒーをぐいっと豪快に口にすると、ハルちゃんの病状を少し詳しく教えてくれた。
最初の手術が生後すぐだとか、既に何度も余命宣告を受けていて、死にかけた事は両手の指の数でも足りないのだとか。
「陽菜はさ、無理をすると周りに迷惑をかけると分かっていて、だから、そんな無茶なことはしないんだよね。例えば、体調が悪いのに学校に行って、授業中に具合が悪くなったら、授業を止めることになるでしょ? そう言うのが嫌みたいで、小学何年生の頃からかな、無理そうだと思ったら最初から休むようになったんだよね」
なるほどと頷く。気遣いの塊のようなハルちゃんらしい。
「まあ、さすがに高校生くらいになると、多少の無理も押してって事もあったけどね。それは学業的にも仕方ないのかなと思って、私たちは割と自由にさせていたのだけど、叶太くんにはそれでも無理してるように見えるみたいで」
多分、幼い頃から、家族の誰より、外にいるハルちゃんと一緒にいて、ハルちゃんを見つめ続けているのが叶太だ。
家ではハルちゃんも自分のペースでゆっくり過ごせていたのかも知れない。だけど、健康な子どもに囲まれる学校ではそうはいかず、叶太にはハルちゃんが無理をしているように見えたのかも知れない。
この一週間、ハルちゃんと一緒に過ごして、叶太の心配が何となく分かった。
「……中一の冬、陽菜が学校帰りに倒れて肺炎を起こしたのって、晃太くん知ってる?」
「詳しくは知らないですけど、一応」
当時、オレは高校三年生。明仁が深刻な顔をしていて、叶太がちょっとないくらいに動揺していたから、ハルちゃんの具合が相当悪いのだろうと思った。叶太がその後、部活をやめてしまったのもあって結構記憶に残っている。
「あの時、陽菜、何度か心停止して、本当に危なかったんだけどね」
おばさんは事も無げに言うが、俺は驚いて声をなくす。
「ああ、やっぱり驚くよね。うん、だけど、割とよくあることなんだよ。あの子の場合、外でいきなりとかはなくて、手術の後とか、本当に調子悪くて入院してる時とか、そう言うのだから、ちゃんとこれまでも救命できている」
いや、おばさん、ちょっと待って!
さっき、軽い口調で何度も死にかけたって言ってたけど、心停止と言ったら、比喩じゃなく本当に一歩間違ったら死んでたって事だよね!?
だけど、俺の驚愕をよそに、おばさんは淡々と話を続ける。
「あれは本当に叶太くんに申し訳ないことをしたと思っているんだけどね、その中一の時、叶太くん、陽菜の心停止の場に居合わせて、」
……え!?
「更に、蘇生の場も見ちゃって」
「……蘇生」
「ああ、つまり心臓マッサージと電気ショックね」
おばさんはそこで小さくため息を吐く。
「面会謝絶で、家族しか会えないような状態だったんだけど、叶太くんはもう家族同然で、あの日も陽菜の病室に来てくれて」
確かに、ハルちゃんが入院している時は叶太はほとんど毎日、病院に行っていた。既にお見舞いというレベルを超えていた。
うん。付き添いって言った方がきっと相応しいくらいには、日参していた。
「それで、陽菜の具合が急に悪くなって、叶太くんがナースコールしてくれたんだけど、看護師が駆けつけた時にはもう心室細動を起こしてて、すぐにドクターが呼ばれて急きょその場で心肺蘇生が始まって」
おばさんは当時の状況を思い出したのか、眉根を寄せて厳しい顔をした。
「ちょっと冗談じゃないくらい慌ただしくなっちゃって、誰も叶太くんがその場にいる事に気付かなかったの」
あの冬の日の、叶太の焦燥ぶりを思い出す。まだ十三歳だ。衝撃は計り知れなかっただろう。
「ほら、あの部屋広いでしょ? 叶太くん、邪魔にならないように端っこに移動してて。私と院長もすぐに駆けつけたんだけど、叶太くんには気付きもしなかった」
おばさんは深い深いため息を吐いた。
「一度、心拍が戻って、ホッとした空気が流れた次の瞬間、ホント十秒かそこらしか経たない間に、もう一度、心臓が止まってね」
俺はもう言葉もなく、おばさんの話を聞く。
「それで、また心臓マッサージと電気ショックを何度か繰り返して、ようやく陽菜は息を吹き返した」
息を吹き返すといわれるくらいの状態……。医学についてはド素人でも、事の重大さは考えるまでもなく分かる。
そして、そんな一部始終を目の当たりにした叶太。
「そのまま、そこで呼吸器を付けて、ICUに運ぶために部屋を出たところで、後片付けに残った看護師がようやく叶太くんの存在に気が付いて、慌てて叶太くんを外に出した。
まだ、陽菜の容態は結構深刻で、私も院長も陽菜に付いて部屋を出たから、その事は全く知らなかった。
随分、後になって、陽菜がいつもの部屋に戻れるくらいになってから、その看護師から忘れていて申し訳なかったと、叶太くんの事、報告を受けたのだけど」
おばさんはふとハルちゃんの部屋のドアに目をやった。
「それから慌てて、あの時は怖い思いをさせて申し訳なかったと、叶太くんに話をしたのね。トラウマとかPTSDみたいになっているといけないから、ちゃんとケアしようと思って」
……確かに、それはトラウマになりそうだ。
世界一大切にしている女の子が、急に具合が悪くなって、自分の目の前で心臓が止まって、心肺蘇生を受けているなんて。俺にはまだそういう子はいないけど、想像しただけで胸がつぶれそうだ。
「でもね、叶太くん、すごいんだよね」
「ん? 叶太がすごい?」
「そう。叶太くん、陽菜がICUにいる間に、消防署に行って救命救急の講習受けてきたって言うの」
「……え?」
「心肺蘇生法も、AEDの使い方も覚えてきたって言うんだよ」
「……叶太が?」
「そう。しかも、消防署の人に頼み込んで、何回も通って、こんな時はどうするとか、もしこうだったらどうするとかも教えてもらったらしいよ」
おばさんは呆気にとられている俺を見て、にやっと笑った。
「驚くでしょ?」
「……はい」
いやホント、我が弟ながら末恐ろしい徹底ぶりだ。
「実のところ、ここに医者がいるのに、なんでわざわざ消防署行くかなぁとは思ったんだけど。まあ病院じゃ講習はやってないからね、それは置いといて。
そんな訳で、叶太くんのタフさには驚いたんだけど、やっぱり、一種のトラウマになったみたいで」
「……トラウマ、ですか?」
今一つ、話がつながらない。
「叶太くん、それ以来、ものすご~く過保護になったの」
「ああ、なるほど!」
そう来るか。
「確かに、それまでも叶太の世界の中心はハルちゃんだったけど、それ以降は叶太の世界自体がハルちゃんで埋め尽くされた感じですね!」
そう。中一の冬を境に、叶太の行動が随分変わった。
中高生で彼女ができたら、彼女に夢中になるのも普通のことだと思って気にもしていなかったけど、なるほどだ。
「ははは。面白いこと言うね」
「いえでも、ホント、そんな感じでしたよ。あいつの目にはハルちゃんしか映ってないのかと思うくらいで」
俺の言葉を聞いて、おばさんは面白そうに笑った。
「……そっか。でもね、叶太くんには申し訳ないと思ってる」
「なんでですか?」
確かに、中学一年生が目撃するには衝撃的すぎる場面だったと思う。だけど、最初から叶太はハルちゃん一筋だったし、結果的に二人は結ばれて、晴れて夫婦にまでなった。
だから、それはそれで、よかったのではないだろうか?
「今回の叶太くんの不調……こんな時期にインフルエンザ拾ってきて、三日も熱が下がらないとか、陽菜のことで気を張りすぎた疲れからだと思う」
「でもまあ、あいつの頭の中はハルちゃんでいっぱいだから」
「だけど、四六時中、陽菜の具合ばっかり気にしてたら、心が安まる暇がないでしょう」
「あ…そうか」
「そうなの。叶太くんが陽菜を好きで好きで仕方なくて、陽菜と何して遊ぼうとか、陽菜を抱きしめたいとか、そんな事を考えてるなら、別にいいの。
問題は、そう言うことを考える合間に、ずーっと、寝ている間まで陽菜の体調に問題ないかと気を配り続けてるところ」
「……それは、疲れそうですね」
「でしょ?」
おばさんは不意に真顔になり、視線を落とした。
「でもね、そんな叶太くんが側にいるから、私たちも陽菜を自由にさせてあげられているってところもあって……」
おばさんの言葉に、何日か前に思い浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「もしかして、ハルちゃんが大学に通えているのって、叶太が一緒だからですか?」
おばさんと視線がガッツリ合った。
「……そうだね。叶太くんが一緒じゃなかったら、迷ったかも知れないね」
「迷った?」
「去年の手術のおかげで、大学に通うのを禁止するほどには状態は悪くない。だけど、無理をすれば、すぐに通えなくなるのは間違いなくて。
大学の勉強は高校までとは違うし、授業も長くて教室移動も多いし、課題だって相当量出るよね?」
確かに、90分授業で毎回教室を移動するのは、健康な人間でも疲れるものだ。しかも課題もレポートも本当にかなりハード。
おばさんはここで一つ息を吐いた。
「じゃあ、体調が悪くなってから辞めさせるくらいなら、最初から行かせない方がいいのかって思うでしょ? だけど、進学率100%の高校で、学年でもトップクラスの成績を取っているのに、あの子だけ大学に行かせないとか、考えられないもの」
確かに、杜倉学園の高等部で進学しないやつなんて聞いたことがない。例外は、パティシエになるんだと言って、フランスに行ってしまった変わり種くらいか?
そして、おばさんは大きなため息を吐く。
「でもね、陽菜には叶太くんがいたでしょ? 叶太くんなら、陽菜が無理するなんて絶対に許さないだろうし、叶太くんがいるなら、通いきれるかもって思ったのは確か。
結果、叶太くんが無理をして、体調崩して……。本当に、私たち、叶太くんに甘えすぎだよね。なんか、申し訳なくって」
おばさんはテーブルから湯飲みをとって、ごくごくと飲み干した。
いつの間にか、俺の前にもお茶が置かれていて、俺も湯飲みに手を伸ばす。ゴクリと飲むと、程よくぬるくなっていたので、おばさん同様に一気に飲み干した。
「……えっと、でも、おばさん、叶太、どう考えても好きでやってる事ですよ?」
「ん?」
「あいつ、本当にハルちゃんの事しか考えてないし、周りが止めても聞かないんじゃないかな?」
「まあ、陽菜のことが好きで仕方ない、気になって仕方ないってのはそうかも知れないけど、気を張りすぎるのは身体に悪いとは、気付いてないんじゃないかと思うけど」
まあ、そうだろうな。
けど、そこはもう大丈夫だろう。
「今回、ハルちゃんがかなり怒ってて」
「陽菜が?」
「はい。叶太にもっと自分の身体を大切にしろって。自分のことはちゃんと自分で考えるから、わたしのことは気にするな、そんな感じかな」
「ははは。言うね~、陽菜も」
「でもって、お袋にもちゃんと心も身体も休めろって言われて、スマホとパソコン取り上げられてますよ」
「え? 本当に!?」
「はい。そうすると、さすがにどこにも連絡取れないんで、強制的に休めるじゃないですか。で、その翌日には熱も下がりました」
「あはは! 美歩さん、すごいね! 話して良かった!」
「あれ? おばさん、お袋に何か話したんですか?」
美歩さんとはうちの母親。専業主婦のお袋と超多忙なおばさんとは、なかなか会う機会はないけど昔から仲が良い。
「そりゃ話すよ? 叶太くんから実家に帰ってるって連絡があった日の朝に。大切な息子さんを頂いたのに、病気になったら追い出したみたいになって、ホント申し訳ないですって」
「ああ、なるほど」
大人の事情ではそうなるのか!
叶太なんて、ほとんど押しかけ婿みたいなもんだと思っていたけど。
「あ、もちろん美歩さん、笑って受け入れてくれたよ? 叶太はいくらでも預かるから、陽菜ちゃんの事を気にしてあげてって」
うん。お袋ならそう言いそう。
大体、久々に叶太の世話するのだって、楽しそうだし。
隣の家にいるんだから、しょっちゅう会ってるのだけど、やっぱり寝泊まりすると違うらしい。
「で、その後、叶太くんの熱が全然下がらないって聞いて、改めて連絡したんだよね。もしかして、陽菜のせいじゃないかって」
「むしろ、叶太ならハルちゃんのために熱なんて気合いで下げそうですけど」
そう言うと、おばさんは面白そうに笑った。
「美歩さんも最初同じ事を言ってた。……だけど、叶太くんが私に送ってくるメールとか見ても、気にしすぎ! ってくらいだったしね。晃太くんとこには、もっと激しかったんじゃない?」
そう言われて、
「ええ……まあ」
と苦笑いすると、おばさんも苦笑した。
「そんな訳で、あんまり下がらないから、美歩さんもやっぱり気疲れって思ったんじゃないかな?」
「そうかも知れませんね。……でも、火曜日の夜からはスマホとパソコンを返してもらえるのは、一日十五分だけなんで、ハルちゃんと話して終わりですね。ハルちゃんの事を考えても、ハルちゃんのために何かするだけの時間はないはずです」
そう言って笑うと、おばさんもくすくす笑う。
「そんな訳だから、叶太は大丈夫だと思いますよ。結局、自分が体調を崩したら、ハルちゃんを一人にすることになるって、嫌と言うほど分かったと思うし」
「ああ、確かに」
「あいつには、それが一番効くんじゃないかな」
二人でひとしきり笑ったところで、俺は牧村家をおいとました。
ハルちゃんの身体のこと、思いがけず色々と教えてもらった。
心臓に持病があって身体が弱いけど、穏やかで心がとても綺麗で、とびきり可愛いハルちゃん。今までは、それくらいの認識だった。
だけど、『心臓に持病がある』くらいじゃ済まないというのがよく分かった。おばさんにはああ言ったけど、叶太の気持ちもよく分かる。そりゃ、心配もするだろう。
うん。
今年一年しかないけど、俺も引き続き、大学でのハルちゃんを気にかけよう。
後、救命救急講座を受けてこようかな。おばさんは、入院するような体調じゃなきゃ大丈夫と言っていたけど、もしもの時に何もできないのはさすがに嫌だ。
家に帰るために歩きながら、俺はそんな事を考えていた。




