いつもの体調不良2
金曜日。
三限目の英語論文読解の授業の途中から、少しずつ体調が不安定になってきた。
胃がやけに重い。
そして、倦怠感が身体にまつわりつく。
今日も晃太くん、しーちゃん、斎藤くんの四人でお昼を食べた。やっぱり、気が付いたら一人遅れていたから、最後は急いでお弁当を片付けた。それがいけなかったのかな……まさか、ね。
……ここのところ、ちょっとパソコンの練習とかを頑張りすぎたの知れない。昨日も、晃太くんが帰った後、少しだけタイピングソフトで練習をした。
無理はしないようにと気をつけていたけど、毎日の練習で、ずいぶん早く打てるようになったのが嬉しかったのもあって、カナに送る講義レポートも半分は昨日の内に片付けてしまっていた。
授業で出される課題やレポートも、カナがいないから一人でやっていた。締切はまだ先だったけど、少しでも進めておかないと、何かあった時に全く時間が足りなくなる。
もちろん、睡眠時間はちゃんと取っている。毎日、九時には寝るようにしている。
だけどもしかしたら、カナがいた時には、もう少し早くベッドに入っていたかも知れない。カナは過保護だから、少しでもわたしの顔に疲れが見えたら、寝るようにと促されるから。
……疲れがたまっているのかな。
GWでゆっくり休んだばかりなのに。
後、三十分。……長いなぁ。
高校の授業なら、もうとっくに終わっている時間。
三限は何とか大丈夫。だけど、四限目は無理だ。帰った方がいい。
授業が終わったら家に電話をして車を呼ぼう。ああそれから、晃太くんに先に帰るって言わなきゃ。
だるい。
知らず知らずの内に呼吸が荒くなる。
ご年輩の男の先生の穏やかな声がやけに遠くに聞こえて、ろくに耳に入ってこない。
「ね、牧村さん、大丈夫?」
この時間、同じ授業だったのは田尻さん。いつもは手を振り合うくらいだけど、今日はカナがいなかったから隣に座った。
その田尻さんが、私の顔を覗き込みながら小さな声で聞いてきた。
「……ん、…大丈夫」
少しずつ、倦怠感が強くなる。机に突っ伏してしまいたい。
本当はあんまり大丈夫じゃない。
今なら、まだ一人で帰れるかな? もう教室を出た方がいい気がする。
「えっとさ、聞いといてなんだけど、多分、大丈夫じゃないよね? 医務室行った方がいいよ」
田尻さんは少し怒ったような声でそう言うと、わたしの返事を待たずに、
「先生! すいません!」
と大きな声を上げた。
広い教室で自分たちに視線が集まるのを感じたけど、それを嫌だとか恥ずかしいと思う余裕もなかった。
そんな自分の思考から、ようやく自分が思っているより調子が悪いのだろう事に気付く。
「どうしました?」
「牧村さん、体調悪いみたいなんで、医務室に連れて行っても良いですか?」
田尻さんの手がわたしの背中に置かれた。
「ああ、ありがとう」
先生が近付いてきて、わたしの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 気分悪い?」
「……少し。あの、ごめんなさい」
「そんな事は気にしなくて良いんですよ。こう言うのはお互い様だからね」
優しい先生の声が身に染みる。
「牧村さん、歩ける?」
小さく頷いたけど、田尻さんは疑わしいと思ったのかな?
「えっと……幸田くん! 付き合って!」
と、少し離れた席にいた、去年のクラスメイトに声をかけた。
「了解!」
ガタンと椅子を引く音がして、幸田くんが手早く荷物を片付けて、駆け付けてくれる。
ああ、完全に授業の邪魔してる。
申し訳なくて仕方なくて、居たたまれない思いをしながら、緩慢な動作で席を立つと、田尻さんが支えてくれた。
「……ごめんね」
「気にしない」
「じゃ、俺、荷物持つわ。先、行ってて」
幸田くんはうっかりしまい忘れたわたしの教科書類を鞄に入れて、教室を出る辺りで追いついてきた。自分の分と田尻さんの分も一緒に持ってるから、結構な量だ。
……途中で抜けさせてしまった。
「授業……ごめん、ね」
少し歩いただけなのに息が切れる。
謝ると、幸田くんが
「半分寝てたから、全然大丈夫!」
と即答してくれ、田尻さんも
「あの授業、眠いよね」
と笑った。
「あのさ、ハルちゃん」
数メートル歩いたところで声をかけられて足を止める。
「歩くの、しんどいだろ? 俺、おぶってくから乗れよ。田尻、荷物頼むな」
その言葉とともに、幸田くんは足元に荷物を置いて、わたしと田尻さんの前に出てしゃがんた。
「了解!」
田尻さんは置かれた荷物じゃなくて、まずわたしを幸田くんの背に乗せるようにと背中を押した。
「……でも、重いから」
「牧村さんが重かったら、私とかどうなるの。大丈夫だから、そんなの気にしない!」
半ば強引に、田尻さんはふらつくわたしを幸田くんの背中に乗せる。
「あの…ありがとう。よろしく、お願いします」
覚悟を決めて、幸田くんの背中に身体を預けて肩に手を回す。
「任せて!」
幸田くんは危なげない動作でスッと立ち上がった。
「てか、ハルちゃん、マジで軽いんだけど」
「だよね? 心配する必要ないし」
そうかな……だけど、いくら軽いって言っても、四十キロ近くはあるし、十分重いと思う。
だけど、正直なところありがたかった。おぶってもらったおかげで、呼吸が大分楽になったから。
カナ以外の人におんぶされるなんて、どれくらいぶりだろう?
カナとは違う感触が、なんだかすごく変な感じだった。
「えーっと、医務室ってどこだっけ?」
エレベーターを待ちながら、幸田くんが田尻さんに話しかける。
「7号棟、1階」
「田尻、よく知ってるね。使ったことあるの?」
「最初の学校案内で教えてもらったじゃん」
「……そうだっけ?」
「ちゃんと覚えときなよ。いざって時に困るよ」
「だね。今日、これから覚えるわ。……来た来た」
エレベーターに乗り、独特の浮遊感に涙が浮かぶ。
「ハルちゃん、大丈夫? しんどい?」
手に力が入っていたのかな? 幸田くんが心配そうに聞いてくれた。
「……少し」
「牧村さん、7号棟、意外と近いから頑張って」
「……ん」
だけど、頑張るもなにも、わたしは幸田くんにおんぶされて運ばれるだけなのだけど。
なのに……気持ち悪い。
おぶられて揺られて、酔ったのだと思う。
胃の辺りがムカムカする。
「こっち」
田尻さんの声が聞こえる。
もう、目を開けられなかった。
「ほら、あそこの一階。案内あるでしょ?」
「ホントだ。あ、……なんか四月に来た気がする」
「遅いよ。てか、まだ一ヶ月しか経ってないじゃん」
「いやだって覚えること多すぎてさ」
幸田くんと田尻さんは情報学部。仲が良さそうでよかった、そんな事をふと思う。
「牧村さん、分かる? もう着くよ」
「……ん」
ささやくように答えると、田尻さんがそっと背中をさすってくれた。
それから少し後、幸田くんが立ち止まった。
トントンというノックの音の後、田尻さんの声が聞こえてきた。
「こんにちは~!」
同時に耳に届くドアを開ける音。
「どうしました? ……っと、陽菜ちゃん? 大丈夫!? えっと、取りあえず、そこのベッドに寝かせよう。井村さん!」
先生が奥にいるらしい看護師の井村さんを大声で呼んだ。
「はい! すぐ行きます」
ここの医務室はお医者さんと看護師さんの二人体制。入学前にも挨拶に来たし、入学後、既に何度もお世話になっている。
そんな大袈裟にしなくても大丈夫ですと言いたいのだけど、声にならなかった。
心臓がどうかした訳じゃない。だから、少なくとも救急車を呼んでもらうような事態にはならないはず……。
先生に身体を支えられて、ベッドに身体を横たえられる。
急ぎ足で奥の相談室から出てきたらしい井村さんが靴を脱がせてくれた。
布団をかけられた後、指先に酸素濃度計を付けられた。
「血圧と体温も測って」
お医者さんが常駐しているだけに、まるで病院の処置室みたいで、なんだか居たたまれない。腕に血圧計を巻き付けられながら、
「……あの、…大丈夫、です」
と絞り出すように言うと、
「陽菜ちゃん、全然、大丈夫じゃないでしょ。顔、真っ青だよ。後、ほら、バイタルも良くない」
と言う。
「酸素濃度も低いし、血圧もかなり下がってる。これは結構つらいでしょ。気持ち悪くない?」
「……少し」
「吐きそう?」
「……大丈夫」
と言うか、田尻さんと幸田くんにこんな姿を見せたくない。
だけど、大丈夫だと言ったのに、井村さんは枕元に容器を用意するし、先生はわたしの身体を横向きにする。……吐いた時に喉を詰めないように。
「授業中に具合悪くなったのかな?」
「……はい」
胸の音を聞かせてね、と先生は服の間にそっと聴診器を滑り込ませた。
と同時に、ベッド周りのカーテンが閉められて田尻さんたちが見えなくなる。
「大丈夫。あっちで井村さんがここに来る前の陽菜ちゃんの様子を確認して、ちゃんと次の授業に間に合うように帰してくれるから」
「……はい」
先生は真剣に胸の音を聞く。だけど、良い音がするわけがない。体調の良いときですら、わたしの心臓はかなりおかしな音がするのだから。
だけど、先生もそれは承知しているからか、胸の音については何も言わなかった。続いて、脈も取られたけど、それにもコメントはなかった。
「今日はもう授業は無理だね。家の人に来てもらおうか。それまでは寝ているといい。吐きそうになったら、呼ぶんだよ? 間に合わなかったら、ここに」
と枕元の容器を示し、先生はわたしの背中をさすった。
「は…い」
横になっているのに、とにかく怠くて、そして息苦しくて仕方なかった。
先生と入れ替わりに、田尻さんと幸田くんがカーテンの中に入って来た。
「私たちはもう行くけど、牧村さん、ゆっくり休んでね」
田尻さんが心配そうな顔で言う。
「……ん。いろいろ…あり、がと」
「ハルちゃん、またね。早く元気になってね」
幸田くんがわたしの頭をそっとなでた。
「…あり…がと。……また、ね」
二人が出て行き、わたしは晃太くんに連絡していないのを思い出した。
……わたしの鞄。ベッドの下かな。
手荷物は大抵、籠に入れてベッドの下に置かれているから。
だけど、身体を起こそうと動いた瞬間に訪れた激しいめまいと吐き気に、それどころではなくなった。
……吐く。
先生を呼ぶ間もなく、慌てて容器を手に取った。
「……ゲエェッ!」
「陽菜ちゃん!?」
胃の中身を容器に戻した瞬間、勢いよくカーテンが引き開けられ、先生と井村さんが飛び込んで来た。
「…ゲッ……ゲボオッ」
井村さんが背をさすってくれる。
「気持ち悪かったね。ごめんね、気が付かなくて」
先生に再度、酸素濃度を測られる。
「酸素、準備しよう」
吐いてる最中は普通に呼吸ができないから酸素だって吸えない。だから今、酸素濃度が低いのは吐いているせいで、嘔吐が治まったら酸素濃度も落ち着くから大丈夫だと伝えたいのに、まともに言葉にならない。
「……だ、じょう…ぶ」
それでも必死で声を上げたけど、結局、これだけじゃ何も伝わらなかった。
「陽菜ちゃん、全然大丈夫じゃないと思うよ?」
先生は一度わたしの側を離れて、酸素投与の準備をする。
「陽菜ちゃん、ゆっくり息吸おう」
続く嘔吐で呼吸が怪しくなってきたわたしの背をさすりながら、井村さんが声をかけてくれる。苦しさから溢れ出る涙も拭ってくれた。
嘔吐と嘔吐の合間に、マスクを当てられ、酸素を吸わされて、まるで病院にいるような気分になる。
「こんにちは~」
ノックと同時に、遠くで人の声がした。吐いてる最中でよく聞き取れなかった。
だけど、続く言葉にそこにいるのが晃太くんだと分かった。
「……ハルちゃん!?」
驚いたような慌てたような声。
「大丈夫!?」
ああ、こんな姿、晃太くんには見せたくなかった。せめて、大丈夫だと強がれる状態で会いたかった。
だけど、その瞬間、わたしは井村さんに介抱されながら、また胃の中身を盛大に戻していた。
「君は?」
「あ、大学院二年の広瀬晃太です。陽菜ちゃんの義理の兄です。医務室にいると聞いて、迎えに来ました」
「そうか。それは良かった。……この状態だと、今はまだ動かせないけど、治まったら病院に連れて行くか、早めに帰った方がいいと思う。家に電話してくれるかな?」
「はい、分かりました」
耳鳴りの向こうで、晃太くんの声が聞こえて来る。
晃太くんも、4限目、授業があったんじゃなかったかな。そんな事していたら間に合わないよ、そう言いたいのに、言葉にはならなかった。
その後、ようやく嘔吐が治まり、当てられた酸素マスクで一息ついていたら、なんと夜勤明けで家にいたママが迎えに来てくれた。
病院に行くと言われたけど、大丈夫だと何とか断った。変な動悸も不整脈もなかった。ただ疲れから来る体調不良だったから、一晩寝ればそれで治まると思う。
幸い、今日は金曜日。明日、土曜日にゆっくり休めば、日曜日には十分、動けるようになっているはず。
それに今はもう、息苦しくて、ただひたすら気怠いだけ……。
「もうしゃべらなくていいよ。しんどいでしょ」
ママはわたしの頭をなでると、先生の方を向いて何か話し始めた。
……眠い。
……ああ、そうだ。
晃太くんに、……授業行ってって、言いそびれてしまった。
今、何時だろう……。
まだ、間に合う、かな……。
そんな事を思いながら、わたしの意識はブラックアウトした。




