いつもの体調不良1
水曜日の昼過ぎ、お義母さまから、カナの熱がようやく下がったとメールが届き、ものすごくホッとした。
火曜日の夜以降、カナからのメールはなかったけど、お義母さまからスマホとパソコンを取り上げたと聞いていたので心配はしていなかった。むしろ、朝も起きて来ずに爆睡していると聞いて、ホッと胸をなで下ろした。
きっと、わたしの事であれこれ頭を悩ませたり、誰かに連絡を取って頼んだりができなくて、半強制的に頭を空っぽにできたのだと思う。
『夕食後、十五分だけ返却するから、その時は電話に付き合ってやってね~!』
お義母さまからのメールはそんな言葉で締めくくられていた。
スマホとパソコンを返してと交渉するカナの姿と、軽やかに断るお義母さまの姿が思い浮かんで、思わず笑ってしまった。
木曜日、一限の一般教養の授業で一週間ぶりにしーちゃんと斎藤くんに会った。カナがインフルエンザでお休み中だと言ったら、ものすごく驚いていた。
だよね? こんな時期にインフルエンザなんて、本当に聞かないもの。
授業の時に約束して、その日のお昼ご飯はしーちゃんと斎藤くんと晃太くんの四人で食べた。
カナがいなくて、代わりに晃太くんがいるというのがすごく不思議な感覚だった。
「ったく、水くさいな~。叶太くんがいないんだったら声くらいかけてよ~」
お昼を食べながら、しーちゃんにそんな事を言われて困る。
それは、しーちゃんに送り迎えを頼むって事だろうか? まさか、ね?
そんなわたしを見て、斎藤くんが笑った。
「志穂、ハルちゃん困ってるぞ」
カナと結婚してから、牧村が二人になり、カナが広瀬じゃなくなったって事で、カナと二人、斎藤くんからも名前で呼ばれるようになった。
それと合わせて、斎藤くんはしーちゃんも名前呼びするようになった。しーちゃんが自分だけ名字は嫌だと斎藤くんに言ったのだって。
明るくて元気で、そして優しいしーちゃんと斎藤くん。二人とも教育学部。どちらも本当に、先生って職業にピッタリだと思う。
斎藤くんの言葉を聞いて、しーちゃんは
「ええ~? 困るようなことなんて言ってないよね、陽菜?」
と、本日の定食のコロッケをお箸で持ち上げながら、わたしに視線を向けた。
「……えっと、聞いても良い? …何を…声かけるの?」
「ええ~、そこからぁ?」
しーちゃんの言葉に晃太くんと斎藤くんが同時に吹き出した。
「一人じゃ寂しいからランチ一緒に食べようとかさ、色々あるじゃん?」
「……あ、そっか」
ランチを一緒にってのなら、確かに。
でも、大体、流れで木曜日は一緒に食べてたのもあって、わざわざ頼むってのは思いつかなかった。それに、カナが晃太くんに頼んでくれたから、結局、お昼は毎日晃太くんと一緒に食べていたし。
「志穂、文句言うなら叶太にだろ。あいつがお兄さんに頼んだから、ハルちゃんだってそれ以上は誰かに話そうと思わなかったんじゃない?」
「そうそう。ごめんね、志穂ちゃん」
わたしが謝る前に、なぜか晃太くんがしーちゃんに謝っていた。
ほぼ初対面のはずなのに、すっかりこの場に馴染んでる晃太くんは本当にすごい。カナもとても社交的だし、こう言うところ、兄弟だなぁと思う。
「あ、いえ、最初に私を頼ってもらえなかったのは寂しいけど、実際問題、私は学部も違うし、まだ授業いっぱいでお兄さん程は自由に動けないし、叶太くんが正解なんだと思います」
しーちゃんは晃太くんにそう笑顔で話した後、わたしの方を見て、お弁当箱のところに添えてあったわたしの左手を両手でキュッと握った。
「つまり、ね、寂しかったの。だから、陽菜、次に同じようなことがあったら、絶対に教えてよ~?」
真顔で言われて、戸惑いつつも頷く。
「……えっと…はい」
同じようなことはあって欲しくないけど、もしあったとしても、カナがお休みだって教えるくらいはできる。
しーちゃんの話は止まらない。
「ランチもさ、木曜日だけじゃなくてもっと一緒しようよ? 後、休みの日もたまには会いたいな?」
「うん」
そうだね。
同じ大学にいるんだもん。わたしだって、叶うことなら、もっといっぱい会っておしゃべりしたりしたい。
高校生の時は毎日会っていた。今もカナはずっと一緒だし(今週は違うけど)、新しい生活と勉強が忙しくて、高校時代を懐かしく思う間もなかったけど、こうやって他愛もない話をしていると、やっぱりとても楽しい。
それに、昔から良く知っている人に囲まれていると、どこかホッとして肩の力が抜けるような気がする。
しーちゃんと笑いあっていると、晃太くんが隣からトントンとわたしのほっぺたをつついた。
「ハルちゃん、お弁当食べないと、時間足りなくなるよ?」
「あ…ホントだ」
気が付くと晃太くんと斎藤くんはすっかり食べ終わっていて、しーちゃんも八割方食べ終わっていた。
「わぁ! ごめん、陽菜」
「ううん。これから頑張って食べるから大丈夫」
しーちゃんに笑顔を見せてから、わたしは慌ててお弁当に手を付けた。
夕ご飯を食べ終わった頃、カナから電話がかかってきた。
昨日の夜以来、ちょうど二十四時間ぶりになる。
カナがお義母さまにスマホとパソコンを取り上げられる前も、電話は大体一日一回だった。だけど、メールは何回も届いていた。今は、それもない。
「ハル? 元気?」
「うん。カナは? もう熱はない?」
「すっかり平熱。今は、人に移さないように謹慎中なだけだから、ホント元気だよ」
確かに、熱があると言っていた時と比べて、声に力がある気がする。
「ね、ハル、おねだりしていい?」
「ん? なあに?」
珍しいなと思っていると、カナは嬉しそうに、
「顔見て話したいな」
と言った。
あ、そっか。
パソコンだったら、ビデオ通話ができるんだった。
「うん、そうだね。……じゃあ、パソコンのところに行ってかけなおすから、ちょっと待っててね?」
「分かった! あ、慌てないでいいからね? ゆっくりね?」
カナは相変わらず心配性だ。
「うん、大丈夫。じゃあ、後でね」
電話を切って、居間から自分の部屋に移動する。
「あら、お嬢さま、もうおしまいですか?」
片付け物をしていた沙代さんが不思議そうに聞いてきた。
「あのね、お部屋のパソコンで話をするの。そうしたら、カナの顔が見えるから」
「あら、それは良いですね。夜は冷えますから、上着を羽織って下さいね?」
沙代さんはそう言いながら、にっこりと笑う。
「はーい」
部屋に入るとカーディガンを羽織って、それからパソコンの電源を入れた。
きっと、みんなみたいにスマートフォンを持てば、もっと簡単に顔を見て電話をできるのだと思う。
だけど電話をするだけなら、余分な機能がない昔ながらの携帯電話の方が使い勝手が良い。だから、まだ変えようとは思えないのだけど、世間は既にスマートフォン一色に染まっていて、そろそろ携帯電話サービスがなくなりそう。それがちょっと怖かった。
晃太くんに教わった通りに、カナの名前を呼び出して、ビデオ通話ボタンを押すと、程なくカナの顔が映った。
「お待たせしました」
「ううん。全然、大丈夫!」
画面の向こうのカナは満面の笑顔だった。
火曜日に見た時、カナはとても疲れた顔をしていた。昨日の夜は、ずいぶんとスッキリして見えたけど、まだやつれていると思った。病み上がりだなって感じで。
だけど今、カナはすっかり元のカナに戻っていた。インフルエンザで寝込んでいたとは思えないくらい元気そう。
そんなカナを見ると、本当にホッとする。
「ハル~! 会いたかった~!! って言うかさ、ああもう、本物のハルに会いたい。日曜日から会ってないんだよね。えーっと、」
カナは、日、月、火……と指折り数える。
「もう五日もハルと会ってない! 信じられない!」
去年の今頃はまだ、この部屋に一人で住んでいた。結婚してからだって、わたしは何ヶ月も入院していて、一緒にいられない日も多かったのだけど、それが平気だったのが嘘みたい。
今ではすっかり、カナがいるのが当たり前の生活になっていた。
「……寂しいね。わたしも、会いたいな」
だから、そんな元気そうなカナを見ると、なぜ、今一緒にいられないのだろうと、理不尽な怒りを感じてしまう。
こっそり会いに行きたい。だけど、絶対にダメだと言うのは分かっている。もしインフルエンザが移ってしまったら、笑いごとで済まなくなる。
ごめんね。
普通なら、奥さんが看病するよね。それで移って、二人ともかかっちゃっても、ひどい目にあったね、ってそれで終わる。
「え!? ハル!? どうした!?」
画面の中のカナは、少し慌てたようにわたしの顔を見つめてきた。
何でカナが慌てているのか分からず、何度か瞬きをすると、ツーっと涙が頬に流れてきた。
「ハル!」
「……あ、ごめん」
そうか、この涙がたまっているのを見て、カナは慌てたんだ。
「ハル、大丈夫!?」
「うん。……あの、ただ、カナに会えなくて寂しいなって、思っただけで……」
そう言いながらも、また次の涙がこぼれ落ちる。
カナが頭を抱えた。
「あーなんでオレ、今、ハルの隣にいないんだろう!」
「ごめんね」
カナの奥さんがわたしじゃなかったら、健康な人だったら、きっと熱を出したカナを看病してくれてたよね?
だけど、カナは顔を上げると、不思議そうに
「なんでハルが謝るの?」
と首を傾げた。
「とにかく、泣かないで? ね? 寂しかったら、えーっと、今日はお義父さんもお義母さんもいないのか、じゃあ、沙代さんとこ行ってくるとか。後、あー、兄貴! 兄貴を派遣しようか? あ、でも、沙代さんには抱き付いても良いけど、兄貴にはダメだよ!?」
カナの言葉があったかくて、側にいないのに守られている気がして、寂しいのだけど、とても寂しいのだけど、心がほっこりあったまる。
「ありがとう」
涙はまだ止まらなかったけど、カナの優しさが嬉しくて、わたしは泣きながら、カナに微笑みかけていた。
その後、程なくタイムリミットが来て、カナはスマートフォンとパソコンをお義母さんまに取り上げられて、通話は終了。
そして、その少し後に、本当に晃太くんが家に来たものだから、心底驚いた。
「寝る前に一曲、ピアノでもどう?」
大学でもずっと付き合ってもらっているのに、こんな時間までと恐縮していると、晃太くんは、
「どうせ家でも弾いてるから、大丈夫。聴いてくれる人がいる方が弾きがいがあるんだけど、ハルちゃん、少しだけ付き合ってくれる?」
そんな優しい言葉と一緒にふわりと笑った。
「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて」
その後、寝るまでの二十分くらい、晃太くんが練習中だという曲を聴かせてもらった。
あえてリクエストを取らずに自分が練習している曲を弾いたのは、きっと、わたしに気を使わせないようにとの晃太くんの優しさだと思う。
そして、練習中と良いながらも、晃太くんのピアノは本当に素敵だった。
わたしがあんまり、すごいすごいと言っていたら、
「ハルちゃんも弾いてみる?」
と、晃太くんが席を立った。
「え? 無理だよ、わたし、ピアノ弾けないもの」
小さいころ、晃太くんのピアノを聞かせてもらって、とっても素敵で憧れて、パパに頼んで習わせてもらったけど、すぐにやめてしまった。
晃太くんも知ってるよね?
「大丈夫。学校で、鍵盤ハーモニカとかやったでしょ?」
「……うん」
随分と前だけど、確か、低学年の時に教えてもらった。さすがに、ドレミがどれかくらいは分かる。
「カエルの歌、弾ける?」
「え?」
「ほら、かーえーるーの、うーたーが♪ って、あれ」
「ドレミファミレド?」
「そうそう!」
晃太くんはわたしをピアノの椅子に座らせると、横から、右手だけでカエルの歌を弾いてくれた。
「これなら、弾けそうでしょ?」
「うん」
さすがに、これくらいなら弾けると思う。
「じゃあ、弾いてごらん。さん、はい」
ドーレーミーファーミーレード♪
そこまで弾いて、次の音に入った瞬間、晃太くんの手も動いた。
「……え?」
「続けて弾いて」
言われるままに、続きを弾くと、わたしの『ミーファーソーラーソーファーミー♪』に合わせて晃太くんが『ドーレーミーファーミーレード♪』と弾く。
輪唱だ! すごい!
とても単純な音楽のはずなのに、音が重なって和音になると、一気に華やかになった。
わたしがつられそうになってリズムがおかしくなっても、晃太くんはピッタリ合わせてくれた。
ひと足先にわたしが弾き終わり、晃太くんも最後のフレーズを弾き終わる。
「晃太くん、すごい!」
振り返って、晃太くんを見る。興奮のあまり、声が弾む。
「ハルちゃん、上手だったよ」
晃太くんが弾く難曲とは大違い。とってもとっても簡単な曲。ピアノを習っていない小学一年生が学校で習って弾くような曲。
だけど、とても綺麗で、すごく楽しかった。
「もう一回弾く?」
「うん!」
「じゃあ、……さん、はい」
晃太くんの掛け声に合わせて、わたしはピアノの鍵盤を押した。
三回、一緒にカエルの歌を弾いてから、晃太くんは帰って行った。
「それじゃあ、おやすみ。また明日ね」
「うん。本当にありがとう!」
「いい夢を」
晃太くんはそう言って優しい笑みを浮かべると、わたしの頭をそっとなでた。
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