下がらない熱
火曜日の夕方、ハルとの初ビデオ通話に喜んでいたら、兄貴の帰るという言葉でサクッと通話終了ボタンを押されてしまい、オレはしばらく呆然とした。
頼むよ、兄貴!
と思ったけど、そもそもハルの顔を見て話せるようにしてくれたのが兄貴だから、文句を言うのも違うと思って、一人悶々とした。
夜、ハルに身体は大丈夫か心配するメールを送ったら、少しして、メールではなくビデオ通話の着信があった。
普段、電話をしてこないハルの気遣いがどこにあるのか理解していたつもりだから、驚きつつも喜んで電話に出ると、開口一番叱られた。
「カナ! わたしのことはいいから、ちゃんと身体を治すために、頭も身体も、心も休めて!」
発症から間もなく丸三日。恐ろしいことに、まだ熱が38度より下がらない。
熱が下がらないのは確かだし、もしこれがハルだったら大事だとは思う。
だけど、自分に関して言えば、熱があるだけで元気な訳で、ハルがなんでこんなに怒っているのかが分からない。
「えーっと、ハル?」
それにしても、ハルは怒った顔も可愛い……って言ったら、怒るかな?
なんてバカなことを思いつつも、オレを本気で心配してくれているらしいハルに、何だか申し訳なくなってくる。
抱きしめて慰めたい。
そんな事をのんきに考えていると、一転、ハルの声は小さく弱々しくなった。
「……カナ」
「うん」
画面の向こうのハルが、真顔でオレをじっと見つめてくる。
「自分の身体のことを、一番に考えて?」
「えーっと」
言葉の意味は分かる。だけど、それをしている自分のイメージがまったく湧かない。
ハルは何を伝えたら安心してくれるだろうか?
「あのさ、ハル」
「……うん」
「熱は下がらないけど、オレ、割と元気だよ?」
だけど、ハルは納得してくれない。
「元気じゃないでしょ? 熱が下がらないって、カナの免疫力がウィルスになかなか勝てないって事だよね?」
……なの?
「その辺のことはよく分からないけどさ、ご飯も普通に食べてるし、昼間はテレビ見たり、雑誌読んだり、えーっと、たまに教科書見たりとか……あ、ハル、授業のノートありがとう! まさかメールで届くと思ってなかったから、ムチャクチャ驚いた!」
夕食の後くらいかな、昨日と今日の分の講義レポートをハルが送ってくれたんだ。ちゃんとワードで入力してあって、更にメールにはボイスレコーダーで録ったという音声まで添付されていたから驚いた。
スマホを持っていないハルは、大学入学時にボイスレコーダーを買っていた。体調が悪くて授業をちゃんと聞けなかった時でも、後から聞き返せるようにって。
今までも何度か使っていたし、使い方はもちろん分かっている。だけど、パソコンに音声データを入れるなんて事、ハルはできなかったはずなのに。
と言うか、ハルが送ってくれた講義レポートはものすごく分かりやすくて、それだけで十分理解できたから、わざわざ音声を聞く必要性を感じないくらいだった。
「ハルが自分で打ったんだよね? 時間かかっただろ? 無理しないでね? 授業のノートを見せてくれるだけで十分なんだから」
ハルのノートは字も綺麗だし、先生の言っていることが多少散漫でも、しっかり要点をまとめて書いてあるから、本当に分かりやすい。
それにパソコンの苦手なハルが丸二日分の講義ノートを打ち込むって、相当時間がかかったはずだ。
ただでさえオレがいなくて無理が続いているはずのハルに、これ以上の負担をかけたくない。
「……あのね、カナ、わたしだって成長してるんだよ?」
「ん?」
成長? ハルの方が頭の出来が良いのは分かってるよ?
何かを学ぶとき(運動以外なら)、オレよりハルの方が遥かに早く習得する。それを成長というのなら、ハルの成長速度はとっても速い。
大学の勉強だって、事前の予習で大きく溝を開けられた上に、普段の授業でも吸収力がまるで違うらしくて、ハルにはまったく敵わない。
結局、レポートや課題でもハルに論点をアドバイスしてもらったりして、オレはようやくこなしている感じだ。
「わたしね、パソコン、ちゃんと使えるようになろうと思って、練習してるの」
「ハル!?」
待って!? オレがいないところで、なに突然無理してるの!?
だけど、ハルはそれが当然の努力というように話す。
「わたし、いつもカナに頼りっぱなしで申し訳ないなって思って。それで、パパにタイピングソフト、入れてもらったの」
「……それ、いつから練習してるの?」
「日曜日だよ。まだまだ、上手くできないけど、前よりは大分早くなったよ」
ハルは嬉しそうに教えてくれる。その声がとても楽しげに弾んでいたから、ダメともやめてとも言えなかった。
だけど、
「ハル、疲れてない? 頭とか痛くなってない? 清書くらい、オレがいくらでもするから、本当に無理しないでね」
と言いつつ、隔離されてる現在、オレはハルの課題を手伝うことはできない。
それに何より、オレはパソコン関係ではハルを手伝うけど、肝心の内容部分ではハルにお世話になっている。
お互い助け合ってる関係が、ハルが自立することで、一方的に頼る事になりそうなのが少しだけ怖かった。
「カナ」
「ん?」
「あのね、わたしのことはいいの」
不意に我に返ったらしく、ハルの表情が固くなる。
あ、電話の冒頭のハルだ。
だけど、
「よくないって!」
オレ、ここは譲れないよ?
「えっと、だから、あのね……無理はしてないから、そこは大丈夫だから」
オレの語気の強さにひるんだのか、ハルは困ったように語調をゆるめた。
「だったらいいんだけど」
「だからね、わたしは元気だし、ちゃんと勉強だってできてるから、カナは自分の身体の事だけを考えて? ね?」
「えーっと」
困った。
だって、本当に思い浮かばないんだ、ハルのことで頭がいっぱいじゃない自分が。
「とにかく、明日から、わたしの事で何かするの禁止!」
「え!? ハル!?」
「晃太くんにお願いするのも禁止」
「いや、だってハル!」
「ダメ」
ちょっと! 兄貴! これ、どうしたらいいの!?
「本当はね、送り迎えとか、お昼休みを付き合ってくれるのとか、全部いらないって晃太くんにも話したの」
「あ、あのね、ハル……」
それはダメだよ。ハルが一人になる時間は絶対に作りたくない。
急に具合が悪くなった時に、側に誰もいなかったら、事情が分かった人がその場にいなかったら、一歩間違うと命取りだ。
ハルはたった一週間だと言うだろう。自分で気をつけるから大丈夫だと言うだろう。
でも、去年、手術の前の時期、ハルは一人歩きを禁止されていた。人目のないところに一人では行かないようにと言われていたんだ。何かあったら命に関わるからって。
今はそこまでは言われていない。
だけど、高一の春、校舎裏で一人倒れていたハルが脳裏に浮かぶ。中一の冬、ハルが一人倒れて肺炎を起こしたのを思い出す。どちらも、ハルの体調が特別悪くはない時のことだ。
オレは自分が過保護なのも心配性のも分かってる。だけど、それは決して的外れなものじゃないんだ。
そして、オレの心配を正直にハルに言ったら、きっとハルに辛い思いをさせてしまう。ハルは誰かの自由を奪うのを嫌がるだろうから。
だけど、続く言葉に、ハルはもしかしたら、言わないだけでオレの心配をちゃんと理解しているのかもしれないと思った。
「だけどね、一人で大丈夫って言ったんだけどね、晃太くん、付き合ってくれるんだって。……すごく申し訳ないけど、わたし、ちゃんと付き合ってもらうから」
「え?」
オレが思わず嬉しそうな声を出してしまった瞬間、画面の向こうでハルは少しばかり怖い顔をした。
あ、責められてる、そう思った。
「でも、晃太くんとは、わたしが自分で話すから」
「あの……ハル?」
ハル、兄貴と自分で話すって言った? よ、ね?
それはいい。ハルが兄貴を邪魔に思って避けるんじゃなきゃ、いい。むしろ二人で話してくれるなら、ありがたいんだろう。
だけど、兄貴はハルの病状を甘く見てる。と言うか、詳しくは知らない。ハルは状況を分かっていても、そこにあるもの以上は求めない。
だからやっぱり心配で……。
「カナ、三歳になって」
「……え?」
ハルの突然の言葉に思わず間抜け顔をさらす。
「三歳。わたしに会う前に戻って」
「……え~っと?」
「あのね、それくらい昔、カナ、何考えてた?」
「あの、さ……ハルはそれ覚えてるの?」
思わず聞くと、ハルは我に返ったようで、大きな目を何度か瞬かせた。
「……覚えてない、かも」
だよね?
「オレだって同じだって!」
「……そっか」
そう言って、ハルはくすくす笑った。
だけど譲る気はないらしい。
「じゃあ、十歳くらいに戻って」
「なんで、十歳?」
「だって、カナ、その頃はまだ他のものも見えてたと思う」
「ええ~!?」
他のものを見ていた覚えはないけど、確かに今ほどハル一色じゃなかった気もする。
抵抗むなしく、とにかくハルのことを考えないと約束させられた。いや、それは絶対無理だと主張したから、ハルのことを忘れる時間を作るか、他のことを考える時間を作るか?
……できる気がしないけど、ハルと約束したからには試さなきゃいけない。
憂鬱だ。
ハルとそんなやり取りをした後、部屋にやって来たお袋からも言われてしまった。
「あなた、本当に疲れがたまっていたのね」
体温は38度ちょうど。やっぱり下がらない。
「いや、5月のインフルウィルスのたちが悪いだけだよね?」
「いやね。本当にたちが悪かったら、この高熱でこんなに元気な訳がないじゃない」
「そう?」
「そうよ~。インフルエンザって、本当に辛いもの。関節は痛いし、寝ていても起きていても、身の置き所がない感じだったわ」
お袋が眉をひそめて、とっても嫌そうに経験談を語る。
「あれ? 薬は?」
「最初、ただの風邪だと思ってたのよね。病院に行ったときには薬が効く時期が終わっちゃってたのよ」
「ああ~、それはしんどそう」
「本当につらかったわ。あれ以来、とにかくおかしいと思ったら検査してもらうようになったもの」
それを考えたら、オレだって検査してもらって正解だったんだろう。こんな時期だし、関節痛もなかったし、普通なら何もせずに寝てるところだった。
「それにしても、あなた、本当に体力あるのね。だけど、やっぱり顔色が良くないわよ?」
「そう?」
「ええ。食事だってちゃんと食べてはいるけど、家を出るまではもっと食べていたし」
「そりゃ寝てばっかで運動も何もしてないから」
動かないから、そう腹も減らないし、おかわりまではしないよな。
「晃太が笑ってたわよ」
「え? 何を?」
「叶太の頭の中は、陽菜ちゃん一色だって。すべての道は陽菜ちゃんに通じてるって」
「ああ、そりゃそうだよね?」
頭の中はいつだってハルで埋め尽くされてるし。
いつもなら笑われるところなのに、今日に限って、お袋は小さくため息を吐いた。
「私もね、それがあなたの通常運転だって分かってるわよ? だけど、あえて親として言わせてもらうわね?」
お袋はそこで一息ついて、オレの顔を真顔で見つめた。
「四六時中、気を張りすぎじゃないかしら?」
「……ん?」
「二十四時間、365日体制で、陽菜ちゃんの身体を気にしてるでしょう?」
「もちろん」
そりゃそうだ。
ハルの心臓は、去年の手術で大分良くなったけど、そうは言っても走れるようになったわけでも、薬が必要ない状態になったわけでもない。ただ、不整脈の数が減って、心臓の動きが少し良くなって、幾らか身体が楽になったくらいだ。
今でもしょっちゅう熱を出すし、胃も壊すし、季節の変わり目も暑いときも寒いときも心臓の調子は悪くなる。熱の出始めは夜中のことも多いし、結婚の後押しをしてくれた夜中の不調だっていつ来るか分からない。
だから、眠っている時だって、ハルの様子を気にかけているのは当たり前だ。
学校でだって、放っておくと誰かに合わせて階段を上り下りしたりするし、誰かの歩調に合わせてしまう。授業中に具合が悪くなっても、ギリギリまで我慢しようとする。
兄貴からの報告を聞いていると、案の定、兄貴がいなかったら、無理をしていただろうシーンが満載だった。
「叶太」
「……あ、うん」
「あなたが今、何を考えていたのか分かる気がするけどね、それ、病気の時くらいやめなさい」
「え!?」
「気が休まってないから、いつまで経っても熱が下がらないのよ?」
「まさか」
「あら、じゃあ、こんなに体力があるあなたが、なんでこうも治らないの?」
「だから、インフルウィルスが……」
「はい却下。ウィルスのせいにしない。疲れがそれだけたまってるから、心も身体も休めなさいって、身体からのサインです」
お袋は左手を腰に当て、右手でオレのおでこのジェルシートをコツンと叩いた。
「結婚前はこんなこと一度もなかったでしょう?」
「……うん」
何年かに一度、風邪引いて自主的にハルの側に寄らない日もあったけど、熱を出すことすらまれだったし。
「結婚前は、眠ってる時まで陽菜ちゃんのことを気にしてなかったでしょう?」
「……うん」
どんなにヤキモキしても、結婚するまではいつも一緒にいられた訳じゃないから。
お袋はオレの肩をポンポンと優しく叩いた。
「あのね、陽菜ちゃんを守りたいんだったら、まずはあなたが健康じゃなきゃダメなの。それは分かってるわよね?」
「うん」
「明日も熱が下がらなかったら、また一日会える日が先送りよ」
「……ん」
ホント、それはいい加減勘弁して欲しい。
「知らない内に疲れをため込んで体調を崩して、こんな風に強制的に隔離されるのが嫌だったら、もう少し気を緩めなさいな。嫌でしょ? 陽菜ちゃんに会えないの」
「……うん」
嫌だ。もし毎年、こんな状態になるなんて言われたら、オレ、耐えきれる自信ないし。
だけど、気を抜くって、どうやるの?
ハルを頭の中から追い出すなんて、オレにできる?
お袋はオレの頭をくしゃっとなでた。
「とにかく、陽菜ちゃんの事は晃太が考えるから」
「え!? 兄貴が!?」
「できる限りの事はしてくれるって。だから、考えるのは晃太に任せて、あなたはその熱を下げる事だけ考えなさい」
兄貴が本気で手を貸してくれるなら、大学があるのは残り三日だし、何とかなるかな? 同じ棟で授業受けてる時なんかは志穂にも応援頼んで……。
「叶太、あなた全然、分かってないのね」
お袋は呆れたようにそう言うと、盛大にため息を吐いた。
「そうね。これがいけないのよね、きっと」
「え?」
お袋は枕元においてあったスマホを手に取った。
「あの、……お袋?」
「治るまで、スマホとパソコンは没収」
「え!? ちょっと待って!?」
そのまま有無を言わせず、お袋は机の上に置いてあったノートパソコンにも手を伸ばした。
「明日、陽菜ちゃんと話せそうな時間に、十五分だけ返してあげるから安心して」
にこりと笑ったお袋の笑顔に絶句している間に、
「じゃあ、おやすみなさい。今度こそゆっくり休んでね?」
と言いおいて、お袋は部屋から出て行ってしまった。
スマホがないというのは、致命的であり、そしてとても効果的だった。
ハルの事を考えるのは自分がいさえすればできるけど、ハルのために何かするには、会えない今、スマホやパソコンが必須だったから。
呆然としながら、この夜、熱を出してから初めて、ハルのために何をしようと頭を悩ませることなく眠りについた。
夜九時前には眠り、起きたら、もう水曜日の昼だった。
そうして、その日の夕方、しつこかったオレの熱は、ようやく平熱に戻った。
だけど、
「熱下がったから、スマホ返して?」
と笑顔で手を出すと、お袋からは
「バカ言うんじゃありません」
と突っぱねられてしまった。




