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15年目の小さな試練  作者: 真矢すみれ
季節外れのインフルエンザ
11/42

遠慮深い妹1

 火曜日、行きの車の乗るやいなや、ハルちゃんが真面目な顔をしてこう言った。

「晃太くん、やっぱり明日からは、お迎えとかしなくて大丈夫だから、ね?」

 昨日、気にしなくていいと話して納得してくれたと思ったのに。ハルちゃんはやっぱり申し訳なくて仕方がないと思っているらしい。

「ん? なんで?」

 しかし困った。

 叶太からはくれぐれもと頼まれている。一度OKしたものを、二日目にして、じゃあそうしよっかと気軽に止める気にはなれなかった。

「だって、晃太くんだって忙しいのに……」

「できる事しかしてないよ?」

 ハルちゃんは困ったように眉を寄せた。

「今日の帰りは、ハルちゃんのが一時間早いから付き合えないし」

 ニコリと笑いかけるとハルちゃんもつられたように笑顔を見せてくれた。だけど、急に何かを思い出したように表情を曇らせた。

「じゃあ、晃太くん、帰りの車……」

「ああ、大丈夫。友だち、昨日の和田に乗せてもらうから」

「和田さんも車なの?」

「そうそう。高速乗って通学してる。だから家は通り道だし」

「……迷惑じゃない?」

「いや全然。飲み会の日に和田が家に泊まってくこともあるし、お互い様だよ。それにしゃべってたら、十分なんてあっと言う間だから」

 それは本当。

 ふと思い出して、話題を変える。

「そうそう。今日、帰ってからハルちゃんちに行っても良い?」

「え? うちに?」

「昨日話してた参考書、見せてよ。おじさんがどんなのを選んだか知りたいし」

 その言葉にハルちゃんはふわっと笑った。ようやく、本物の笑顔を見ることができてホッとする。と同時に、ハルちゃんがおじさんを大好きなんだろうなと言うのが見て取れて、妙にほっこりする。

 俺だって親父を尊敬してはいる。だけど、こんな風に無条件な好意を表には出せない。男女差なのか、親子関係の差なのか?

 うん。少なくとも、明仁がおじさんにこんな笑顔を見せるとは思えないし、女子大生で父親を心の底から敬愛してる子がそういるとも思えない。だから、きっとおじさんの愛の賜物だろう。もしくは、素直極まりないハルちゃんの資質。

「じゃあ、待ってるね」

 満面の笑みを浮かべたハルちゃんは冗談抜きで可愛かった。

 この笑顔を守りたいと思う叶太の気持ちが、少し分かってしまった。

 思わず頭をなでると、ハルちゃんはまたふわっと蕾が花開くように、優しい笑みを見せてくれた。



 一、二限目の演習1、山野先生の授業で、実習助手としてグループワークの手伝いに入った。普段は自分の研究室の先生の授業にしか入らないから、ちょっと珍しい事だ。たまたま人数が足りなかったらしくて、うちの教授経由で依頼があった。

 最初は座学。そこは後ろの方で出番待ち。今日はマーケティングらしく、基本的な知識を先生が説明する。

 懐かしい。

 マーケティングについての細かなところは入門の授業で習うけど、この授業のグループワークに必要な事は授業の頭に簡単に説明してくれる。今聞くと、とても基本的で簡単な内容だと感じるけど、5年前の入学当時は俺だってよく分からなくて、かなり真面目に聞いていた。今年の一年生もちゃんと真剣に聞いている。もちろん、ハルちゃんも。

「では、グループワークに入ります」

 今日の課題の説明の後はいよいよグループワーク。学生たちが一斉に机を班の形に移動し始める。実習助手をしている院生も一斉に教室の中ほどに移動する。俺はさり気なくハルちゃんのいるグループの近くに陣取った。

 一気に教室内がにぎやかになる。

 火曜日の午前中、一限と二限続けての長時間授業。最後には班ごとに発表と講評もあるせいか、結構、緊張感もある。

 ホント、懐かしい。

 一度決まった班は半期同じ。仲が良ければ楽しいけど、悪ければ、かなり辛いのも演習の特徴。叶太がいなくて、今日は5人のハルちゃんの班は、和気あいあいと楽しそうに進められている。

 二年の前期まではクラス全体での演習を行い、二年後期からは、少人数のゼミになる。この一年半で、自分が何を専門に勉強するか、どの先生の研究室に入りたいかを考える必要もある。……なんてこと、まだ、ここにいる学生は意識していないかも知れないけど。

 ハルちゃんと叶太はどの研究室を選ぶのだろう?

 人気の研究室は、成績優秀かつ先生の覚えがめでたくなければダメだって、叶太に言っとかなきゃな。どうせ、あいつはハルちゃんと同じところを希望するだろうし。

 複数グループの進捗状況を見て、たまにアドバイスなども挟みながら、ハルちゃんの様子をそっと観察。

 ハルちゃんは前に出るタイプではなかった。それは予想通り。だけど、丁寧に人の話を聞き、時間に目を配り、ふとした瞬間、キーとなる言葉を言う。それで場の流れが変わる。そんなシーンを二回見た。

 穏やかに見えて実は鋭いハルちゃんの言葉を受けて、他のメンバーが

「なるほどね~」

「面白いね。じゃ、そしたらさ……」

 などと言い、その後、議論が深まって行く。

 ハルちゃんは本当に、……本当の意味で頭が良いのだというのがよく分かった。

 きっと、この程度の課題、ハルちゃんは一人で最適解を出せている。だけど、決してそれを表には出さない。それだけでもすごいと思うのに、誰かが言う摩訶不思議な推論だったり、的外れな言葉も真摯に聞いて検討材料にする。

 人の話をしっかり聴いた上で、誰かの言葉を引用し取り入れて話すから、メンバーの誰もがハルちゃんの言葉を素直に受け入れていた。

「先生!」

 声をかけられて、

「はーい。ちょっと待っててね」

 と呼ばれたグループへと向かう。

 ハルちゃんのグループからは一度も声がかからなかった。多分、ハルちゃんがいれはサポーターはいらないだろう。

「先生、これって……」

 本当は先生じゃないんだけどね。だけど、助手に入ると先生と呼ばれてしまう。

「ああ、ここはね……」

 入学してすぐの5月なんて普通はこのレベルで質問入るよな、と思いながら、質問してきた男子学生ににこやかに答えた。



 夕方、ハルちゃん(と叶太)の部屋を訪ねた。

 ハルちゃんがまだ中学生の頃にお見舞いに来て以来だ。ベッドが二つになって、デスクと本棚が新調されていた。

 改めて、広い部屋だと思う。大体、普通は子ども部屋にセミダブルベッドを二台置く事なんて無理だろう。だけど、ハルちゃんの部屋はこれでもまだ余裕がある。

 ああ、もしかして……。

 ハルちゃんが小さい頃、具合が悪い時に付き添いの人のための簡易ベッドを入れるためだったのかも知れないと思い当たる。そんな事情のせいか、この部屋には専用のトイレと洗面所まである。

 うん。

 事情を知らなきゃ、このサイズと設備は新婚さんにピッタリかも。

「えっとね、経営学の本はここに置いてあるの」

 ハルちゃんは天井まである大きな作り付け本棚の、デスクにほど近い一角を指さした。

 見ると、家にもある大学の教科書と並んで、様々な専門書……と言うかビジネス書が並んでいる。

 経営戦略入門、経営戦略の歴史、経営戦略ケーススタディ、事業立案虎の巻、問題解決基礎の基礎、マネジメント入門、実践マーケティングリサーチ術、株価と市場経済、医療現場のマーケティング、ファイナンス入門、管理会計を考える、決算書の正しい読み方、粉飾決算実例15、リスクマネジメント30の考え方、企業における情報システム、人事担当者のための人財育成、伝わるプレゼンテーション、ロジカルシンキングのススメ、現場で使えるクリティカルシンキング、すぐ分かるゲーム理論、これからのCSR……等々。小難しそうな本が合わせて三十冊近く。

 いやいやいや。

 何この本棚。俺すらろくに勉強してない分野も混ざってるし?

 てか、大学四年間で教えてもらう以上の物が並んでいる気がする……。

「えーっと、ハルちゃん、これ全部読んだの?」

「ううん」

 だよね~。とホッとしたのは一瞬だった。

「CSRの本はまだ読みかけだよ」

「あ~、じゃあ後は全部?」

「うん。完璧に理解しているとは言えないかも知れないけど、一応読んだよ」

 一応で読めるものなだろうか、これ。

 て言うか、ハルちゃん、実は完璧に理解……できてるんじゃない?

「いつから読み始めたの? すごい量だよね?」

「えーっと、学部の希望を出した後からだから2月から……かな?」

「3ヶ月ちょっとで、これ全部、か。すごいね」

「え? それだけあったら、これくらいは読めるよね?」

「……え?」

「あれ? あ、もしかして、晃太くん、本あんまり読まない?」

「……あ、そっか。ハルちゃん、読書が趣味だっけ」

「うん」

 ハルちゃんはニッコリ笑う。

「元々、興味があると分野問わずに何でも読むの。だから、この本も面白かったよ」

 子どもの頃に読んだらしい児童書やハードカバーの小説やルポ、ノンフィクションまで、ハルちゃんの本棚には色んな本が並んでいる。よく見ると、経営学の本の少し上の段には心理学関係の本が簡単そうなものから小難しそうなものまで、数十冊も並んでいた。

 ああ、なんか納得。心理学の本にしても翻訳ものの小難しそうなタイトルのなんか、普通、高校生が読むとは思えないものだった。そんな本を趣味で読んでいたハルちゃんだ。内容が経営学になったとしても、読むには支障ないのだろう。

 あれ? でも、じゃあ……。

「ハルちゃん、心理学の本がいっぱいあるんだけど、なんで心理学部にしなかったの?」

「ん~、えっとね、本、いっぱいあるでしょう? 読んだだけで、結構満足しちゃって。……後ね、」

 そこで言葉を切り、しばらくの沈黙の後、ハルちゃんは恥ずかしそうに言った。

「なんて言うか、経営学を勉強しておいたら、いつか……いつか、少しでも、カナとかお兄ちゃんとか、それからね、晃太くんの……役に立てるかも、って思って」

 そう言いながら頬を赤くしたハルちゃんは、慌てたように、

「あ、あのね、厚かましいこと言って、ごめんね」

 と俺の顔をあおぎ見た。

 そこでようやく、ハルちゃんの言った言葉が身に染みてきて、ストンと自分の中に落ちてきた。

 何の打算もない穏やかな好意を向けられて、心がほっこりと温まる。

 気が付いたらハルちゃんを抱きしめて、ハルちゃんのふわふわの髪の毛をくしゃくしゃにして撫で回していた。

 ハルちゃんはベッドに座っていて、俺は立っていたから、ハルちゃんの頭は俺のお腹の辺りにある。

 ハルちゃんの髪から、ふわっとラベンダーの香りが漂ってきた。

 頭ちっちゃ、でもって髪の毛サラサラのふわふわ。そして、ハルちゃんは力を入れたら折れそうに細かった。

 細いのは知ってたけど見た目以上にほそっこい。もう病的な細さだ、ってか正真正銘、病気なんだけど……。

 女の子らしい柔らかなラインの服とかふわふわの髪とか、ほんわかした見た目にごまかされてた。筋肉どころか脂肪だって、ほとんどないだろ?

 これは、叶太も心配になるわ。

 人を疑うことを知らない純粋さにしても、目の前のことをそのまま素直に受け止められる心の在り様にしても、気負わず自然に人のために動けるところにしても、ハルちゃんを一人にしたら誰かに傷つけられるんじゃないかと心配になる。

 身体のことがなければ、それもまた人生の一幕で済むのかも知れないけど。

 それにしても、気持ちいい。

 ああ、癒される。

「えっと、……晃太くん?」

 ……あ。

 やっば。こんなのバレたら、叶太に何言われるか。

 俺はそっとハルちゃんから手を離す。そうして、満面の笑みを浮かべて、ハルちゃんの顔を覗き込んだ。

「ありがとう」

「え?」

「嬉しかった。……いつか、って俺が親父の会社に入った後だよね」

 取りあえず、来年はまだ親父の会社には入らずに他社で修行予定。それでも何年か後には、間違いなく親父の会社に入ることになる。

「う、うん」

「楽しみに待ってるね、ハルちゃんのアドバイス」

「え!? ち、違うよ!? アドバイスなんて大層なことは考えてないの」

 ハルちゃんは慌てて両手を振る。

「えっとね、経営学を勉強していたら、話を聞いたり愚痴を聞いたり、それくらいならできるようになるかなって思っただけで……」

 もちろん、分かってる。ハルちゃんはそう言うところ、本当に控えめだから。

 だけど、慌てるハルちゃんはやけに可愛くて、思わずまた頭をなでてしまう。

「晃太くん、お茶! お茶用意するから、居間に行こう! ね?」

 ハルちゃんは何故か真っ赤になって話題を打ち切ると、ゆっくり立ち上がった。

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