カナのいない日
GW最後の日、朝起きたらカナがいなくて、沙代さんからカナは発熱で実家に帰ったと知らされた。
「きっと、すぐに戻られますよ」
わたし、そんなに不安そうな顔をしていたかな? 沙代さんが笑顔で慰めてくれた。
「お嬢さまは大丈夫ですか?」
沙代さんはわたしの額に手を伸ばす。心配そうな表情はないので、念のための仕草。顔色が悪かったら、最初から体温計を渡されるもの。
GW中、ゆっくりしたおかげで幸い体調は上々。
「うん。大丈夫」
むしろ、わたしのせいで、熱が出たのにゆっくり寝てもいられなかったカナに申し訳なくて仕方なかった。
もしかしたら、久々の実家も気楽でいいのかも……みたいには思えない。結婚してもうすぐ9ヶ月。それくらいには、カナに愛されている自覚はあった。
昼食前、カナからインフルエンザだったと連絡があり、最低でも一週間は会えない事が決定した。何事もなく熱が下がったとして、会えるのは来週の月曜日だという。
……カナ、大丈夫かな?
そんな心配と同時に、寂しいという気持ちがふつふつと私の中を満たす。
今日はお休みで家にいるパパが、
「陽菜、間違ってもコッソリ会いに行ったりしたらダメだぞ?」
と真顔で言った。
寂しさが顔に出ていたのかな?
もちろんと頷く。
「陽菜じゃなくて良かった」
パパはわたしをハグしながら、優しく頭をなでた。気持ちは分かる。だけど、素直には聞けなかった。
「パパ」
思わず厳しい顔で見上げると、
「ごめんごめん。だけど、叶太くんもそう思ってるぞ?」
とパパはまたわたしを抱きしめた。
小学校低学年の頃、インフルエンザで二回死にかけた。それ以来、クラスでインフルエンザの子が出た瞬間から流行が終わるまで学校を休まされるくらいには、家族に心配をかけている自覚はある。
家にはすべての部屋に医療施設用の空気清浄機が置かれているし。
「まあでも、叶太くんもたまには実家でのんびりしてくると良いんじゃないかな」
「……うん」
「彼は少し気を張りすぎだからね。疲れが出たんだろう」
「……そう、だね」
パパの言葉が胸にトプンと石のように沈んでいく。
誰のために気を張っているのか、痛いほど分かったから。
パパはもう一度、わたしの頭をくしゃっとなでて、ぎゅっとハグしてくれた。
大学に入ってから、レポートや課題の提出などでパソコンを使う必要が出てきた。
パソコンでレポートを書いて、そのままメールで提出する授業があるのだ。
そんな訳で必要に駆られて、パソコンを買ってもらった。ブルーライトをカットするフィルターも付けてもらったし、ブルーライトカット眼鏡も買った。そのおかげか、多少疲れているくらいの状態なら、パソコンを触れるようになった。
だけど、操作についてはまだカナに頼りきり。
レポートの入力だって、カナは直接パソコンで打っているのに、わたしは紙に書いた下書きを見ながらパソコンで清書。
カナがいつも途中で、
「打ち込んどくから、ハルは寝な? もう遅いよ」
と助けてくれる。
図表だって、カナが別のソフトを使って作ってくれる。
それだけじゃなくて、高校までと同様、カナは毎朝毎晩、学校にいる日中どころか眠っている時間さえもわたしの事を気にしてばかりいる。
深夜、体調が悪くて目を覚ました時はもちろんのこと、夜中、ただトイレに行く時でさえ、カナは一緒に起きて、わたしを気遣ってくれる。
カナに心の安まる時間なんて、あるのだろうか?
わたし、カナに甘えてばっかりだ。
これじゃ、カナも疲れるに決まってる。
じゃなきゃ、何年も風邪すら引いていなかったカナが、こんな季節外れにインフルエンザなんて拾ってくるはずがない。
……自立しなきゃ。
取りあえず、パソコンくらい自分で扱えるようになろう。
何をするのが一番早いだろう? ここで誰かに頼るのは違う気もするけど、素人が一人で頭を悩ませるより、きっと聞いた方が早い。
パパは今日はお休みで一日家にいる。パパから溺愛されている自覚はある。聞きに行ったら、きっと喜んで教えてくれる。
わたしはノートパソコンを手にすると、久しぶりに二階への階段を上がった。
夜になってもカナの熱は下がらなかったみたいで、下がらないどころか上がっていると言う。
情報源はお義母さま。カナはきっと寝ているだろうし、身体を休めるのを邪魔するなんてできなかった。
そんなわたしの気持ちをお見通しのお義母さまが、折りに付けてカナの様子をメールで教えてくれるのだ。
会えない分だけ心配は募るけど、食欲もあるし元気にしていると聞いてホッとする。
それどころか、カナから届いたメールの内容はわたしを心配するもので、文面を読んだ瞬間、思わず言葉をなくした。
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TO:ハル
件名:体調どう?
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ハル、こんばんは!
元気?
喉が痛かったりしない?
熱は出てない?
少しでもおかしなところがあったら、すぐに
病院行くか、お母さんかじいちゃんに言って
診てもらってね?
絶対我慢しちゃダメだよ?
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39度の熱を出している人のメールとは思えない。
わたしのことより、カナのことを知りたいのに……。
だけど、カナがそんなひどい状態じゃないのは分かっていたし、ただでさえ高熱で寝込んでいるカナの気遣いを無碍にできる訳もなく……。
わたしはじれったさを感じながらも、カナに返事を送った。
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TO:カナ
件名:RE:体調どう?
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わたしは大丈夫だよ。
カナこそ、大丈夫?
まだ熱が下がらないって聞いたけど。
無理しないで、ゆっくり休んでね?
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返事を打った後、寝る時間まで、パパに入れてもらったタイピング練習ソフトを使ってブラインドタッチの練習をした。表計算と文章作成とプレゼンテーション用のソフトの使い方を教えてくれる動画講座も入れてもらったので、今日の午後から見始めている。
カナが戻って来るまでにどこまでレベルアップできるかは分からない。だけど、カナの半分でもいいから自分でできるようにりたい。
梅雨に入る前には、一人で何でもできるようになれたらいいな……。
そして、もっと先、一年後くらいには、カナの手伝いができるようなところまで行けたなら、と思う。
最終目標までの道のりは遠いけど、まずはカナがいない間の宿題は一人で全部こなそう。
そう決意して、わたしはまたパソコンに向かってタイピングの練習をするのだった。
☆ ☆ ☆
翌朝になってもカナの熱は下がらなかった。
本当に疲れがたまっていたのだと思う。
結婚後すぐに、わたしは心臓の手術で3ヶ月くらい入院した。術後しばらくの間、そして心臓の状態が悪化した時は無理だったけど、いつもの病室にいる時はカナもずっと病院に泊まり込んでいた。その後の何度かの入院の時も、カナは必ず病室に泊まってくれている。
病室にはテレビもお風呂もミニキッチンもあるけど、寝るのはソファベッドだし、定期的に看護師さんやお医者さんが入室する。あんなところに長期間寝泊まりするのは、相当負担だったはずだ。
いつだって、自分の事は後回しで、わたしの事ばかり考えているカナ。
申し訳なくて仕方ない。胃の辺りがズンと重くなる。
しかも、カナは高熱が下がらない状態なのに、相変わらず、わたしの事ばっかり気にしている。
カナが頼み込んだみたいで、今日から一週間、晃太くんが登下校に付き合ってくれるという。
あり得ないと断りたかったのに、当日の朝言われたのじゃ、晃太くんに断りの連絡をする時間すら取れなかった。
だから晃太くんに会ったら、ちゃんと自分一人で大丈夫だと伝えないと……。
そう思っていたのに、晃太くんの笑顔は優しくて、行きの車で送迎なんかはいらないよと話すはずが、聞かれるままに質問に答えている間に大学に着いてしまい、話しそびれてしまった。
そんな訳で、一限目も二限目も送り迎えをしてもらった。
それだけでも申し訳ないのに、昼休み、なぜか晃太くんと晃太くんのお友だち、更にえみちゃんも一緒にご飯を食べることになっていた。
わたしをお友だちさんに紹介すると晃太くんはご飯を買いに行ってしまった。
えみちゃんはパンを買ってきてあると言い、お友だち……和田悠真さんは待ってる間に買って来ておいたとのことで、テーブルの上には豚カツ定食らしきものが置かれていた。
晃太くんは「先に食べててね」と言いおいていったので、わたしもお弁当を取り出した。
すると、えみちゃんが隣の席からわたしのお弁当箱を覗き込み、
「ハルちゃん、お弁当ちっさー。それで足りる?」
と驚いたような声で言った。
上尾えみちゃんは大学から一緒になった女の子。明るくてハキハキしてて、とても人なつっこい。肩の上でくるんとカールした髪は明るい茶色で、釣り目がちな目とくるくる変わる表情が妙に猫を連想させる。
「本当だね。ダイエット…じゃないよね?」
和田さんは晃太くんと同じ大学院生だという。晃太くんに頼まれて、食堂の席を取っておいてくれた人。
「えっと、ダイエットはしてないです」
和田さんに先に答えて、それから、えみちゃんの方を向いて
「これで、十分足りるよ?」
と言う。
どちらかと言うと、と言うか見るからにと言うか、悲しいことに自分が不健康なほどに痩せている自覚はある。
決してダイエットの結果ではなく、小食で栄養が行き届いていないからであり、運動ができず筋肉がないからでもある。
「え~、ウソだ~! 絶対足りないって~!」
小食だといつも言われるし、自分でもちゃんと食べられていないのが分かっている。
だけど、あんまり突っ込まないで欲しい。この量でも食べきれない日があるなんて、とても言えない雰囲気だ。
でもそれはつまり、えみちゃんがとても健康的で、ごく一般的な感性を持ち合わせているって事に他ならない。
なんて答えようか悩んでいると、
「お待たせ~。あれ? まだ食べてなかったの?」
タイムリーに晃太くんが昼食の乗ったトレーを持って戻ってきた。
「おかえり」
和田さんが晃太くんのために隣の椅子を引く。
「ありがと」
晃太くんのお昼は天ざる定食。天ぷらの盛り合わせと小鉢、ざるそば。
わたしはお弁当なので食べたことがないけど、うちの大学の学食は、どこも結構美味しいらしい。
「待たせてごめんね。じゃ、食べよっか。いただきま~す」
間髪入れずに発せられた明るい晃太くんの声に合わせて、みんなで一斉に
「いただきます」
と手を合わせて食べ始めた。
今日のお弁当は小さな俵おにぎり二個とつくね団子とイカ大根と人参ともやしのナムル、デザートにイチゴとキウイ。
少しずつ色んなおかずが詰めあわされた沙代さんのお弁当は、今日もとても美味しそうだ。
だけど、お弁当箱のふたを開けてお箸を手に取ると、えみちゃんがまたお弁当の中身を覗き込みながら声をかけてくる。
「やっぱり、少な過ぎでしょ」
そう言うえみちゃんの前には、菓子パンが3つとサラダ、パックの野菜ジュース。
確かに、えみちゃんのパン一つでわたしのお弁当箱はいっぱいになってしまうと思う。
「パン、半分分けてあげようか?」
「……え? あの、大丈夫」
えみちゃんとは、4月のオリエンテーションで一度同じグループになったくらいの関係。それ以降も話す機会もほとんどなくて、だから、多分えみちゃんはわたしの身体の事をほとんど知らない。階段が苦手、くらいは知っているみたいだったけど、それを知っているのも驚いたくらい。
ただ、とても人なつっこい子だから挨拶は交わしていたし、専門ではほんとんど同じ授業を取っているから、会えば話しくらいはする。そして、今日の二限目は本当に席を取っておいてくれたから、初めて一緒に授業を受けた。
そんな程度の仲だったものだから、なぜ今一緒にご飯を食べているのか、とても不思議で……。正直、どうすればいいのか、わたしは戸惑うばかり。
「それだけじゃ、お腹空かない?」
好意で言ってくれているのは分かるけど、本当に食べられないのだし、これで十分足りている。これ以上、どう言えば分かってもらえるのだろう?
返す言葉に困っていると、お蕎麦をすすっていた晃太くんが助け船を出してくれた。
「あのさ、ハルちゃん、昔からホント小食だから。あんまり突っつかないであげて?」
穏やかな笑みと一緒に言われた言葉だったけど、どこか強い力が働いていて、えみちゃんは驚いたように目を見開いた後、「はい」と頷いて、それきり黙ってしまった。
そうして、今度はこの気まずい空気をどうしたものかと思っていると、えみちゃんはすごい勢いでパンを食べてしまい、
「ごちそうさまでした」
と、パチンと両手を合わせて食後の挨拶をする。
そうして、
「それじゃ、ハルちゃん、またね~! 叶太くんのお兄さん、お友だちさん、お邪魔しました!」
と元気に挨拶をして、席を立って行ってしまった。
なんて言うか……すごく強い風が通り過ぎていったみたいな感じ?
呆気に取られていると、晃太くんはふっと笑みを浮かべた。
「気にしなくて大丈夫。まだ時間あるし、ゆっくり食べたらいいよ」
「えっと……はい」
時間があると言っても、薬も飲まなきゃいけないし、移動もある。授業前にトイレにも寄りたい。そう考えたら、余裕たっぷりという程の時間はもうなかった。
わたしは改めて、沙代さんのお弁当に手を付ける。
と、和田さんが申しわけなさそうに声を上げた。
「……ごめんね、変な話題振って」
ちょうど口におかずを入れたところで声が出せず、ふるふると左右に首を振る。
口に入れたつくね団子を咀嚼しながら、ふと晃太くんと和田さんを見ると、二人はもうすっかり食べ終わっていた。
「ハルちゃんてホント、丁寧に食べるよね」
晃太くんがにこりと笑う。
「うん。一口三十回噛むってお手本みたい。食べるの自体もゆっくりだし、だから満腹中枢、その量でも満足するのかな」
続いた和田さんのその言葉に絶句。
しっかり噛まなきゃ、ただでさえ大量の薬で荒れてる胃への負担が大きい。そう思って、やっていたけど、もしかして、そのせいで食が進まないの……!?
だったら、噛まずに急いで食べたら、もう少し食べられて体力が付くとか!?
……まさか、ね。
胃を壊して、ひどい目にあうのがオチだよね。
「えーっとハルちゃん、何を考えてるか想像つくけど、取りあえず食べちゃおうか?」
晃太くんはまたくすくす笑いながら、そう言った。
「あーごめん、俺なんかまた余計なこと言ったかも?」
和田さんは実に申しわけなさそうに頭に手をやった。
わたしは恥ずかしさで顔が上気するのを感じながら、慌てて残りのお弁当に手をのばした。
「あのね、晃太くん」
帰りの車の中で、今度こそと切り出した。
「うん、どうした?」
晃太くんは優しく微笑んでわたしの言葉を待つ。
「明日から、わたし一人で大丈夫だから」
「ん? 明日は全部は無理だけど、行きは一緒に行けるし、お昼も大丈夫だよ?」
晃太くんはにっこりと笑う。
「えっと、朝も一人で行けるし、お昼も適当に食べるし……」
「え? ハルちゃん、俺と食べるの嫌だった?」
「そ、そんなことないよ!」
「じゃあ、明日も付き合ってよ」
晃太くんは優しい。
わたしが断れないように、上手く話をしてくれる。
一体、カナは何といって頼んだんだろう?
確かに、専門課程の方では同じ授業を受ける同級生に、高校から一緒の子は少ない。もちろん、高校から一緒の子もいるのだけど、特に仲が良い子がいないんだ。
高2の時、カナが交通事故にあってお休みをした。その時、カナはしーちゃんや斎藤くんに色々頼んでいた。多分、そんな風に気軽に頼める友だちは、経営学部にはいない。
だけど、一般教養の授業では週に何度かは去年のクラスメイトも一緒になる。しーちゃんや斎藤くんと同じ授業の日だってあるのだし、そこまで心配することはないと思うのだけど。
何より、5つも年上で院生の晃太くんに頼むことではないと思う。
「あ、そう言えば、明日の一、二限はハルちゃんの授業に助手で入るよ」
「え!? 本当!?」
「うん。演習のサポート要員だけど」
「うわぁ! 楽しみにしてるね!」
「ありがと。で、授業終わったら、ランチね?」
「えっと……はい」
晃太くんは、まるで、いい子だとでも言いそうな感じで笑いながら、わたしの頭をくしゃりとなでた。




