29 世界にすら甘やかされる男
「はぁ……、はぁ……」
必死になってケルベロスから逃げ回る。
どうやらこの化け物は、闘技場関連施設の番犬として躾けられているようだ。
「ガゥゥッ……!」
ケルベロスが執拗に俺を追い回す。
人間くらい、ひと飲みに出来そうなほどに大きな口が、牙を剥いて襲ってきた。
だがしかし――
「ギャインッ⁉︎」
まただ。
また訳の分からない現象が起きた。
喰らえば必死の攻撃を回避しようと足掻くたびに、襲い来るケルベロスが見えない壁にでも弾かれたように、跳ね飛ばされるのだ。
そんな不思議な現象が、さっきから立て続けに発生している。
まるで世界が意思を持って俺の世話を焼き、守ろうとしてくれているような……。
そんな錯覚に陥った。
「グルルルゥ……!」
弾かれたケルベロスが怒っている。
3つの頭を揃えて俺を睨みつけ、涎を撒き散らす口からは荒い息を吐いている。
「ガォオオオッ!」
化け物が今度こそと、飛び掛かってきた。
「うわっ。
くるな!
こっちにくるなよ!」
俺は剣を構えることも忘れ、めちゃくちゃに腕を振って抵抗する。
すると、また不思議なことが起きた。
――キィィン……!
ガラスを引っ掻くような硬質な音が響いたかと思うと、今度は世界が割れ始めたのだ。
「な、なんだ⁉︎
この感じはいったい!
うっ。
頭が……」
世界の裂け目が、怪物を襲う。
ケルベロスの3つある首のうち、ひとつが音もなく胴体から切り離され、ボトリと地面に落ちた。
「ギャィィィインッ!」
悲鳴とともに鮮血が噴水のように噴き出す。
呆然とそれを眺めていると、突然視界がぐらぐらと揺れた。
「ぅ……。
うげぇ」
頭痛とともに、激しい吐き気が俺を襲う。
酷使しすぎた脳が休息を求めている。
足がふらつき、目の前がどんどん暗くなっていくのを感じる。
意識が飛びそうだ。
だがまだ気を失ってはいけない。
なぜなら俺は、ここにマリエラを助けに来たのだから。
首を落とされたケルベロスは悶え苦しんでいる。
いまがチャンスだ。
いまならマリエラの囚われた檻へ、近づくことができる!
ズキズキと痛む頭を手で押さえながら、頼りない足取りでマリエラへと走り寄っていく。
両手で檻を掴んだ。
「こ、これは……⁉︎」
マリエラは瀕死の重傷を負っていた。
全身斬り傷だらけで、そのうえ身体の至る箇所に霜が降りて体温を奪い、一部は凍りついていた。
「ぅ……。
ゆ、ユウ……」
「うわごと?
それよりも、ひ、ひどい……。
全身冷え切っている。
いったい誰が、こんなひどい真似を……」
可憐な少女を、こんな風になるまで痛めつけたやつの顔が見てみたい。
正直ドン引きである。
とにかくマリエラを回復させなければいけない。
俺は自らの懐をまさぐり、ライラさんから預かってきた万能回復薬を取り出した。
こんな希少なアイテムを持たせてくれるなんて、やはりライラさんは優しい女性だ。
檻の中へと手を差し入れ、エリクサーを彼女へとふりかけた。
途端に彼女を覆っていた冷気が霧散した。
死人のように血の気の引いていた褐色の肌が、暖かみを取り戻していく。
「ぅ……。
ぅあ……、ユウ……」
これでマリエラは大丈夫だろう。
安心したら一気に限界が訪れた。
「ぐ……」
もう意識を保っていられない。
俺は安堵の息を吐きながら、その場に崩れ落ち、気を失った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
意識を取り戻したマリエラは、しばし呆然としていた。
自分は檻の中に閉じ込められているようだ。
だがそれはこの際どうでもいい。
そんなことより、ずっと大切なことがある。
「……ぅぁ。
ユ、ユウ……?」
檻の外で倒れている人物がいる。
ユウクスである。
最愛の弟を目の前にした彼女の感情が爆発した。
全身からプラズマを発してしまいそうになりながらも、マリエラはユウクスを巻き込まないようぐっと堪える。
「ユウ!
ユウぅぅう!」
堅牢な檻をへし曲げて、ユウクスのもとへ駆け寄り、倒れた身体を抱き起した。
ちょうどそこに、首をひとつ失い、双頭となった番犬ケルベロスが襲いかかる。
「ガゥゥウッ!」
「うるさい!
だまれ!」
マリエラの腕から発せられた稲妻が、大気を迸り怪物へと襲い掛かる。
「ギャィィィイン!」
それだけで地獄の番犬ケルベロスは黒焦げになり、ぷすぶすと燻った煙をあげる屍へと早変わりした。
「ああ……。
ユウっ!
ぅぅ……、会いたかった。
お姉ちゃん、ずっとユウに会いたかった」
ぼろぼろと涙を流しながら、マリエラはユウクスの鎧を脱がし、胸に耳を当てた。
どくん、どくん。
大丈夫だ。
しっかりと脈打っている。
ユウクスの無事を確認して安堵した彼女は、――。
――
「ん……。
――。
――……」
――
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――
「――
……――」
――
――
「……――。
――」
――
――
――
「……――!」
――
「――。
――」
――。
――。
「……って⁉︎
な、なんだ⁉︎」
ようやく俺は我に返って、跳ね起きた。
「あっ。
じっとしなさい。
ほら、もう一度、横になる」
白髪褐色肌の少女が、ぽんぽんと地面を叩く。
「あっ、はい」
なんだか有無を言わせない雰囲気を感じて、思わず従ってしまった。
――。
――。
「ぁあ……。
ユウ。
あたしのユウ」
なんだか安心する。
――。
だが俺にはすぐわかった。
――。
例えばそう。
――さながら冒険者として成長の途上にある俺のようだ。
――。
――。
『背伸びしなくていいんだよ』
『一緒にゆっくり成長していこう』
『だからもう、無理にひとりで、がんばらなくていいんだよ』
――
「ユウ、ユウぅ……」
「んはぁ。
お姉ちゃぁん……」
褐色の細い身体に縋り付く。
「――はっ⁉︎」
俺はまた我に返った。
「ち、違う!
そうじゃないんですってば!
というか、お姉ちゃんってなんだ俺⁉︎」
「……どうしたユウ?
こっち来て甘える。
ほら……」
「いやそうじゃないんですよ!
ってなんでそんなに、俺を甘やかそうとするんですか」
「んー?
なんでって、あたしがユウのお姉ちゃんだから。
ほらぁ、ユウぅ。
お姉ちゃんに甘えにおいでぇ」
マリエラは両腕を広げて、蕩けきった幸せそうな顔を向けてきた。