異国の話
紅葉が終わると、途端に冷えるようになった。
吹き抜ける北風に、街の人々が身を震わせながら寒いと交わし合う声が聞こえる。
私も両手を擦り合わせながら、異国人居留地へのいつもの道を進んだ。
主の取引相手のお屋敷を一軒ずつ回り、最後に薄水色のお屋敷へと辿り着く。
開かれた扉からは、お屋敷と同じ色の瞳が現れた。
「サエ」
私の名前を呼ぶ声に、胸の奥が不思議な気持ちになる。
「手が冷たくなっている。寒かっただろう、早く中へ」
「っ……」
北風に当たって冷えた手を突然包み込まれた。
重ねられた大きな手はとても温かい。
逆に私の手に触れた彼は冷えてしまったのではないだろうか。
けれどそんな素振りもなく、彼は私の手を包んで離そうとしなかった。
あの日以来、彼はよく私に触れてくるようになった。
人目がないときに。
人前で拒んだ私に配慮しているのかもしれないけれど、誰もいなければ良いということではない。
それなのに。
この触れてくる手を私は拒むことができなかった。
彼が触れるたびに驚きながらもされるがままなことに、一番自分自身が戸惑っている。
それでも触れるこの手に、ただ温かさだけではない温もりを感じた。
そんな手に握られたまま、いつものように応接室へと案内された。
飲み物を取ってくると言って部屋を出て行った彼の背を見ながら、離れた手が再び冷えていくように感じた。
部屋の中は暖かいからそんなはずはないのに。
しばらく待っていると、彼はいつものように異国の茶器を持って戻ってきた。
卓上に飲み物が置かれたけれど、この日に出されたものはいつも飲んでいるものと違った。
「これは、何ですか……?」
異国の湯飲みの中には茶色い飲み物が入っている。
その色にまず驚いた。
いつもの橙色のお茶と違って、濃い茶色で底が全く見えない。
それに不思議な香りがした。
彼がこの飲み物の名前を教えてくれたけれど、異国の発音が強すぎて聞き取れなかった。
もう一度、湯飲みの中を覗き込んで色の濃さにたじろいだけれど、意を決して飲んだ。
「どうだ?」
「……美味しいです……」
驚くくらい甘い飲み物だった。
その味に思わずもう一口飲んでしまう。
見た目からの想像に反して、すごく甘い。
「異国の方は、いつもこのようなものを飲んでいるのですか?」
「まあ、よく飲むな」
異国には本当に不思議な物がたくさんある。
少しだけ、この国が新しいものを取り入れたがった理由が分かった気がする。
甘い飲み物をもう一口飲んだ。
「そうだ。ちょっと待っていてくれ」
彼は座っていた長椅子から離れると、何かを持って再び戻ってきた。
手にしていたものを私の肩へとかける。
視線を下げると、若葉色の肩掛けが見えた。
「そろそろ寒くなってきたから、これを使うと良い」
肩掛けは柔らかい布地でとても暖かかった。
触り心地の良さに、私は驚いてすぐにそれを彼の手に返した。
「このような物は頂けません……っ」
きっとこれは高価なものだろう。
店で出す商品と同じくらい。
そんなものを私が持つわけにはいかない。
「私みたいなのが、そんな高価なものを持っていては主に叱られます」
「ならおまえの主に俺から言っておく」
「困ります!」
思わず声を上げて拒否してしまった。
彼が機嫌を損ねたように薄水色の瞳を細める。
それを見て、少し胸が痛んだ。
寒くなってきたから善意で言ってくれただろうに。
それを突っぱねるような自分の態度に後悔した。
けれど、こんな高級な物を貰うわけにはいかない。
私には過ぎたものだ。
「何なら受け取ってくれるんだ?」
どうして受け取る必要があるのだろう。
その理由が分からない。
こんな高価な物を貰っては奉公先の主に咎められてしまう。
身分相応というものがある。
けれど、彼の真っ直ぐな視線に耐えかねて、色々と考えてから口を開いた。
「話を……してください。異国の話を、聞くのが好きです」
以前に、地図を見ながら彼がこの国まで来た話を聞いたときは面白かった。
私には縁遠い、知らない世界の話。
そう言うと、彼はそれまでの少し不機嫌そうだった表情を一変させた。
「そうか、分かった」
その表情が、嬉しそうに笑っているように見えて、私の胸の内は不思議な音を立てた。
それから、薄水色のお屋敷を訪れるたびに、彼は色々な国の話を聞かせてくれた。
彼の話はどれも驚くものばかりだった。
天才と呼ばれた音楽家の話や、万能の芸術家の話だったり。
世界一美しい広場や、遥かかなたまで続く砂の山の国など。
他にも偉大な船乗りの話もあった。
世の中は広いのだと知った。
私の知りえない世界が広がっていて、話を聞くのは楽しかった。
「あなたの故郷はどんな所なんですか?」
「俺の故郷か?」
世の中にはたくさんの国があり、多くの文化があるという。
彼の国も、私の想像を超えるところなのだろうか。
「そうだな……世界で一番発展している国だ。工業化が進んでいて、毎日たくさんの物が作り出されている、世界を引っ張っていく国だ」
薄水色の瞳が、自信に溢れたように輝いている。
発展ということや、工業化といったことは私にはよく分からない。
異国に港を開いてからは、この国にもまるでからくりのような不思議な物が多く持ち込まれた。
長く港を閉ざしてきたこの国は、異国には想像を超える物が多くあることを知ると、異国に学ぼうとしてこの数年は色んなことが変化してきた。
「すごい所なのですね……」
「ああ。けど、俺の住んでいる町は昔ながらの雰囲気も残っていて、静かなところだ」
静かなところだと、そう話した彼の表情は穏やかだった。
様々な国のことを語るときとは少し違う、どこか懐かし気な表情。
その様子に、どんなところだろうかと思い浮かべてみる。
この応接室に飾られている絵のような場所なのだろうか。
「春になれば薔薇が満開になって、町中が薔薇の香りに包まれる。とても綺麗な町だ」
私は知らないその景色を頭の中に描いた。
どんな景色だろうか。
どんな香りがするのだろうか。
彼の口から語られる異国の話を聞いて、それを想像することが楽しかった。
この時間を心待ちにするようになったのはいつからだろうか。
気がつけば、毎日同じ繰り返しだった私の日常の中に、彼の存在が大きくなっていた。
だから、私は忘れていた。
異国の話をする彼は、いつか異国へ帰る人だということを――。