紅葉見(2)
少し歩くと、木々に囲まれた庭園にたどり着いた。
ちょうど紅葉が見ごろで、園内は鮮やかに彩られている。
人の移りも早い花街だけど、そこは昔と変わらないままで懐かしかった。
「素晴らしい庭だな」
庭園を見た彼は、感嘆した様子で呟いた。
異国人はこの国らしいものが好きだ。
けれど、その割にはこの国にないものを持ち込みたがる。
そのあたりは私には理解できなかった。
「奥はどうなっているんだ?」
「池があります」
「池もあるのか」
池を見たがっている声音に、その方向へと足を進めた。
庭園内には他に人はいないようで、周囲を気にせずに眺めることができた。
私もこんな風にゆっくりと景色を見るのは久しぶりだった。
花街に住んでいた頃は、母が働いていたお店の人達と紅葉狩りに来たりもした。
そんなことを思い出していると、彼がなんだか真剣な表情で気まずそうに声をかけてきた。
「……何でここにいたんだ? その……何か困っているのか……?」
その言葉の意味をしばらく考えて、彼が勘違いをしていることに気づいた。
理由は私が花街の中にいたからだろう。
おそらく、お金に困って花街にいたと間違えているのだ。
「亡くなった母がここで働いていたので、お世話になった方々に挨拶に来ていたのです」
そう答えると、彼は薄水色の瞳を瞬かせて表情を少し崩した。
「そうだったのか。他に、家族はいないのか?」
「幼い頃に父が死んだ後、母が身を売って私を育ててくれましたけど、その母も病で死んでしまい今は一人です」
母が春売りをしていたことを隠したくはない。
隠してしまえば、母を否定している気がするから。
そのことでひどいことを言う人もいたけれど、懸命に育ててくれた母を私は誇りに思っている。
でも、この方にそこまで説明する必要はなかったかもしれない。
私の身の上まで聞きたかったわけではないだろうに。
喋りすぎてしまったことを後悔していたときだった。
「大事に育てられたんだな」
その言葉に、思わず顔を上げて彼を見つめた。
表情は決して口先だけの労わりや、ましてや母を蔑視しているものではなかった。
「どうして、そう思うのですか……?」
「サエがそんな風に誇らしげに話すから、きっと良い家族だったんだろうと思ったんだ」
思ってもいなかったその言葉に、胸の奥がつかまれたように苦しくなった。
家族のことをそんな風に言ってくれた人は初めてだった。
違う。
誰かに家族のことを話したことさえなかった。
花街の女将さんたちでなければ、もう誰も母のことを知らない。
父の記憶は私でさえほとんど思い出せない。
だから思い出の中にしまってきた。
でも大切な思い出だった。
そんな大切な存在を、良い家族だったと、そんな風に言ってもらえたことが嬉しかった。
胸の奥から感情が込み上げてきそうになる。
上を向いてその気持ちをどうにか静めた。
「……こちらです」
「美しいな」
木々の間を抜けて池へとたどり着くと、彼の視線がそちらへと向いてくれて助かった。
池には赤い橋も架かり紅葉の色と相まって、その言葉の通り美しい光景だった。
「サエ。段差がある」
池にかかる橋の手前で彼が振り返った。
また手が差し出される。
橋の段差はわずかで、手を借りるほどではない。
「誰もいない」
確かに人前ではと言ったけれど、人がいなければ良いという意味ではなかった。
彼の言葉通り、庭園内には他に人の気配はない。
でも、いつ誰が来るともしれなかった。
きっと、異国人にとっては何ともない行為の一つなのだろう。
異国人男性は女性に親切だから。
彼も女性になら誰にでもそうしているだけなのだ。
きっとそうに違いない。
決して特別な意味などありはしない。
そう思いながらも。
気づけば、私はその手に自分の手を伸ばしていた。
温もりが伝わってはっとしたけれど、次の瞬間にはすくわれるようにして手を握られてしまった。
自分のしたことに慌てたけれどもう遅く、握られたまま手を引かれて進む。
ほんのわずかな段差なのに、なぜか足が動かしづらくてつまずきそうになってしまった。
私の遅い歩調に合わせるかのように、彼はゆっくりと歩いてくれた。
「良い眺めだな」
「はい……」
風がないので、池の水面にも紅葉が鮮やかに映っていた。
けれど、私にはそれを眺める余裕もなかった。
橋の真ん中まで来ても、なぜか手を握られたままだった。
段差はもうないし、手を離しても良いはず。
「あの……、そろそろ手を離してください」
「嫌なのか?」
「い、嫌とかそういうことではなくて……、この国ではこういったことはあまり……」
話が通じている気がしない。
どうして説明する私が恥ずかしくならないといけないのだろう。
これが文化の違いというものなのだろうか。
「嫌ではないんだよな?」
彼の声が耳の奥に響く。
その言葉が頭の中を巡った。
嫌。
言葉の意味がよく分からない。
握られた手の温もりが気になって、たったそれだけのことをうまく考えきれなかった。
「……なぁ、名前を呼んでくれないか?」
彼の言葉に、思わず目を瞬かせた。
なぜ急にそんな話になったのだろう。
「アーネストのことは呼んでいただろう」
「ウィリアムズ様ですか?」
「ああ。俺のことも名前で呼んでくれないか?」
そう言われて考えた。
この方を名前で呼んだことはなかったのだろうか。
意識したことがないので思い出せなかった。
もちろん名前を知らないわけではない。
「……ラングフォード様……?」
「ファーストネームで」
苗字でなく名前。
そう言われて、彼の名前を口にした。
「ギルバート様……」
異国の名前。
それを口にした瞬間、握られた手に力がこめられた。
その力強さに驚いて息が止まりそうになった。
決して振りほどけないほどの強さではない。
けれど、指先を包み込まれるように握りしめられて、手だけでなくて全身が身動きできなくなった。
触れた指先が、まるで火が付いたように熱いと、そう思った――。