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異国の空に想う  作者: 細井雪
故郷編
4/14

謝罪と異国のお茶





 逃げるように奉公先に戻った後、頭から布団を被って一晩中不安な気持ちで過ごした。


 時間がたって落ち着いて考えてみれば、彼は転びそうになった私を支えようとしてあんな体勢になったのだと理解できた。

 それなのに、私は驚きのあまり彼を押し返して逃げてきた。

 彼の方も驚いた様子だったから、意図したわけではなかったのかもしれない。

 もしそうだとすれば、まるで乱暴者扱いしてしまったことになる。

 彼は怒って私の振る舞いを奉公先の主に抗議するかもしれない。

 商売相手を怒らせた奉公人など、すぐに暇を出されるだろう。

 奉公先の主にいつ呼び出されるのだろうかと、一晩中その不安が頭から離れなかった。


 けれど、翌日になっても私は主から呼び出されることはなかった。

 そのことに安堵しながらも、もしかしたら明日呼び出されるのだろうかという不安が延びた。

 それに、私は彼を長椅子の上から突き飛ばしてしまった。

 怪我をさせてしまっていないだろうか。

 ぐるぐると、色んなことが頭の中を巡り続けた。


 そうしている内に、再び異国人居留地へ行く時がやってきた。

 居留地内の一番奥にある薄水色のお屋敷が見えてくると、同じ色の瞳を思い出した。

 足が重くなって、お屋敷の前で立ち尽くしてしまう。

 どれだけそうし続けていただろう。

 これ以上時間が過ぎてしまえば、また遅いと怒られてしまう。

 意を決して扉の前に立ったその時、突然扉が開いた。


「っ!」


 驚いて顔を上げると、つい今しがたまで思い出していた薄水色の瞳があった。

 あの日の触れそうなほどに近づいた距離が脳裏に蘇る。

 恥ずかしくなって思わず後ずさった。


「すまなかった……っ」


 けれど次の瞬間に聞こえたのは、予想もしていなかった言葉だった。

 視線を上げると、薄水色の瞳が苦し気にこちらを見ている。


「え……?」

「恐がらせてしまって本当にすまなかった。乱暴な真似をするつもりはなかったんだ」


 彼の口から謝罪の言葉が繰り返される。

 その姿は、私の知っている不機嫌な顔とは違って、思わず別人だろうかとさえ思ってしまった。


「どうかあの日の詫びをさせて欲しい」

「い、いえ……、私が勘違いをしてしまったことで……」

「俺があんな迫り方をしたのが悪かったんだ。二度とあんな真似はしないと誓うから、お茶を飲んでいかないか?」


 その意味が分からなかった。

 私より立場が上の彼は、許しを得る必要なんてないのに。

 けれど、戸惑っている間にお屋敷の中へと促されてしまった。

 あの日に通された応接室に血の気が一瞬引いたけれど、彼は私を座らせると待っているようにと告げて、足早で部屋を出て行った。

 少ししてから戻ってきた彼の手には、異国の茶器が乗った盆があった。


 花の絵が描かれた白い茶器。

 同じ絵柄の湯飲み。


 それを卓上に並べてお茶を注いだ。

 甘い香りが広がる。

 私はそれをじっと見つめた。

 しばらくそうしていると、向かいに座った彼が同じ茶器から注いだものを飲んで見せた。


「怪しいものは入っていない」


 私が毒でも入っていることを警戒していると思ったのだろうか。

 けれど、お茶に手をつけなかった理由は中身を心配していただけではない。

 初めて見る飲み物に手を出す勇気がなかっただけだ。


 顔を上げなくても感じるほどの視線に、観念して恐る恐る手を伸ばした。

 異国の湯飲みは不思議な形をしている。

 器の側に細い持ち手がついている。

 彼はそれを片手で器用に持ち上げていた。

 けれど慣れない私にはそんな真似もできず、落とさないよう両手で包みながら意を決して飲んだ。


 甘い味が口の中に広がる。

 不思議な味。

 不味くはない。


 異国のお茶は今まで味わったことのないものだった。

 普段飲んでいる渋いお茶とは味も香りも違う。


「菓子もどうだ?」


 湯飲みと同じ花の描かれたお皿を差し出される。

 お皿の上には丸い形をした薄黄色のお菓子が乗っていた。

 こちらも初めて見る。

 先ほどみたいに彼が食べるのを見てから一つ頂いた。

 少しだけかじると、柔らかく割れて甘味が口の中に広がる。

 異国はお茶もお菓子も甘いらしい。


 気づけば私はお菓子を一つ平らげていた。

 そこでようやくこの状況に気付く。

 何で私は呑気にお茶とお菓子を口にしているのだろう。

 そう思いながら視線を上げると、薄水色の瞳と目が合って慌てて反らした。

 顔を上げなければ良かった。

 そんなことを思ってももう遅いけれど。

 沈黙が部屋の中に流れる。

 先にそれを破ったのは彼の方だった。


「この間は本当にすまなかった。この国では女性に気安く触れてはいけないことを知らなくて、俺が手をつかんだから驚いたんだろう?」


 彼が私の手をつかんだのは、悪気があったわけではなかったらしい。

 なぜ急につかんだのかは分からないけれど。

 彼の手を振り払った私はすごく失礼に思えただろう。


「いえ……。私の方こそ、振り払ってしまい申し訳ありませんでした。それに、突き飛ばしてしまって……」

「いや、恐がらせた俺が悪いんだ。おまえが謝ることは……ぁ、っと……その、名前を聞いても良いか……?」


 名前。

 思わず目を瞬かせて彼を見上げた。

 なぜ私の名前を聞くのだろう。

 主の取引相手である貿易商人と、使用人が名前を知る必要なんてないはずなのに。

 そう思ったけれど、向け続けられる視線に耐え切れず、観念して口を開いた。


「……サエ、です」


 小さな声で伝える。


「サエ」


 どこか癖のある発音だった。

 ふと、誰かに名前を呼ばれたことなんていつぶりだろうと考えた。

 奉公先で親しくしている人もいないから、名前を呼ばれることなんてほとんどない。

 それなのに、異国から来たこの方に名前を呼ばれるなんて。

 不思議だった。

 けれど、なぜか耳に残った。

 耳の奥でいつまでも響いている気がする。


 お茶を飲み終えると、彼は送っていくと言った。

 断ったけれど、送ると言い張られてしまう。

 結局、その日も居留地の門まで送ってもらうことになった。

 前と同じように歩いている間は何も話さなかった。

 前後に並んで歩き、地面を踏む音だけがする。

 ただ、前ほど落ち着かない気分ではなかった――。





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