愛人
早足で向かう。
この前は遅くなって機嫌が悪かったので、今日はいつもより急いで回った。
運よく他の貿易商に声をかけられて足止めされることもなかった。
そうして最後の一軒、異国人居留地の中でも一番奥にある薄水色のお屋敷へ辿り着いた。
屋根は瓦で覆われているけれど、薄水色に塗られた壁は遠くからでも目を引く。
大きな硝子窓。
張り出した庇と、何本も並ぶ柱。
この国の建物とは違う。
きっと異国の造り方なのだろう。
出てきた使用人に異国語で取り次ぎを依頼すると、今日は先客がいたらしい。
せっかく早めに来れたけれど、仕方ない。
先客が終わるまで外で待っていようとしたら、なぜか呼び止められた。
「ご案内いたします」
異国語で促され、疑問に思いながらもその言葉に従った。
廊下を進みながら、室内の雰囲気に思わず目を奪われる。
硝子窓から差し込む陽ざしで室内は明るい。
廊下には窓の格子影が長く伸びている。
貿易商で奉公をしているので他の人々より異国のものは見慣れている私でも、異国情緒のある室内に落ち着かない気分になった。
一つの部屋の前で立ち止まると、ここで待つように告げられる。
室内に通されて、応接室と思われる立派な部屋に驚いて思わず声を上げた。
「あ、あの……っ」
私のようなただの遣いが待つには過ぎた場所だ。
けれど、案内をしてくれた人はすぐにどこかへ行ってしまった。
一人で残されて、部屋の中で立ち尽くしてしまう。
勝手にお屋敷内を歩き回るわけにもいかない。
室内を振り返って、豪華さに思わず圧倒された。
もしかしたら他の来客と間違われていないだろうか。
それを確かめたくても、周りに人がいないので尋ねることもできない。
仕方なく、部屋の中で待っていることにした。
部屋の中央には長椅子があるけれど、赤い布張りの豪華な見た目にとても座る気にはなれない。
室内に土足で上がるということにも落ち着かなかった。
床を汚していないだろうか。
そんなことばかりが気になって、草履を履いている足元を何度も見た。
それを繰り返していた時、奥から声が聞こえて顔を上げた。
このお屋敷と同じ薄水色の瞳をした彼と、初めて見る年配の異国人男性が姿を現した。
「……もう来てたのか」
彼は私の存在に気づくと、眉をひそめてそんな言葉を呟いた。
遅れないように来たけれど、やっぱりそれに関係せず私は嫌われているらしい。
二人は私の知らない異国語で話をしていた。
年配の男性は見たことのない方だったけれど、ここにいるということは同じ貿易商だろうか。
その時、年配の男性が私の方へと近づいてきた。
何かを話しかけてくる。
「あの……?」
けれど私の知らない異国語なので、言葉の意味が分からなかった。
一方的に話をされて困惑していると、彼が私に背中を向けて割って入ってきた。
二人が知らない異国語で話し出す。
彼が何かを言うと、年配の男性は片眉を上げて私の方を見て笑った。
年配の男性は再び私に知らない異国語を投げかけてから部屋を出て行った。
一体何だったのだろう。
扉が閉まり、彼と二人だけで残される。
「……あのお方は、何と言っていたのですか?」
初めて会う人だったけれど、何を言っていたのだろう。
会話をしていた彼なら内容を分かるはず。
「何でもない」
けれど、いつものように不機嫌そうな声でそっけなく返された。
年配の男性は私に対して話しかけていた。
知られたら都合の悪いことなのだろうか。
余計に気になって彼を伺っていると、少ししてから更に不機嫌そうに口を開いた。
「おまえを愛人にしたいと言ってたんだ」
「愛人……?」
異国人お抱えの娼妓がいることは知っている。
彼女たちは唄や芸事に優れていて、美しい顔立ちをしていた。
私にはそんな才能も容姿も備わっていない。
つまり、ただ揶揄われただけらしい。
そんなことを考えていると、彼の声が聞こえた。
「なんだ? あの男の愛人になりたかったのか?」
もちろんそんな気はなかった。
自分にそんな魅力がないことは分かっている。
先ほどの年配の男性の言葉が冗談だということも理解している。
それに、異国人はいずれ自分の国へ戻っていく。
彼らは正式な妻には同郷の女性を選ぶ。
この国の女性は滞在する間の妾にすぎないことも知っている。
異国人がこの国を去るときに捨てられた娼妓を何人も見てきた。
そのことを知っているから、見初められたと思い込む初心な娘のように舞い上がるつもりはない。
けれど、彼にそんなことを言われる筋合いはないはずだ。
冗談を本気にしていると思われているようで、不愉快な気分になって背を向けた。
「本当にその気があるのか?」
「……っ」
彼は突然詰め寄ってくると私の手を引っ張った。
強く握り締められて驚く。
異国人は男女で腕を組んで歩いたりするけれど、この国では男女が簡単に触れることは良く思われない。
驚きのあまり思わずその手を振り払ってしまった。
手を打つ音が部屋の中に響く。
その瞬間、彼は目を見開いて私を凝視した。
「俺には触れられるのも嫌なのか……」
驚きで動揺していたせいか、彼が何かを言った気がしたけれど聞き逃してしまった。
どこか苦々しい顔をしながら再びこちらへ近づいてくる。
怖い。
反射的にそう感じた。
咄嗟に後ずさった瞬間、足がもつれて体が後ろへと傾いた。
「あっ……!」
「危ない……!」
床に体を打ちつけることを覚悟した。
けれど、その痛みは感じなかった。
恐る恐る視界を開いて見れば、赤い布地が見えた。
側にあった長椅子だ。
柔らかい椅子の上に倒れたから、怪我をせずにすんだらしい。
そう思って安堵しながら、視界の端に色の白い手が見えた。
体の上に重みを感じる。
視線を上げると、薄水色の瞳がすぐ近くにあった。
そうしてようやく、彼が私の上に乗りかかっている状況だと気づいた。
お互いに驚いたように目を見合わす。
金色の髪が揺れて私の額にかかった瞬間、一気に顔に熱が上り、思わず彼を両手で押し返した。
「……っ!」
背の高い体が音を立てて床へ倒れ込む。
その隙に私は逃げた。
背後から声が聞こえたけれど、振り返らずに走った。
胸の奥がうるさいくらいに鳴り響いている。
つかまれた手に残る感触と、乗りかかられた重みが肌から離れない。
震えた足が何度もつまずきそうになりながら、必死に奉公先へと戻った。