別れ(2)
街で火事があったのだと。
それを知ったのは、泊まっていた宿を出る直前だった。
急いで戻って目にした光景は、焼き尽くされた街の跡だった。
「はぁ、はぁ……」
茫然と立ち尽くすしかなかった。
目の前に広がるのは、昨日までの知っている街の風景ではない。
乾いた風で火は瞬く間に広がったという。
多くの家々が燃えて死傷者が出て、人々は寒空の下に焼け出されてしまった。
焼き尽くされた街をさまよっていると、同じ奉公先の人と偶然会った。
奉公先の主人と多くの奉公人が火事の犠牲になり、かろうじて逃げ延びた人もこれからの当てすらない状況だという。
親戚のところに避難するのだという言葉を聞いて見送り、再び当てもなく歩いた。
どれだけ歩き続けただろうか、徐々に日が暮れて暗くなってきた。
焼き尽くされた中で逃げ延びた人たちが木材を集めて、何とか風をしのぐ場所を作っている。
その人だかりから少し離れたところで腰を下ろした。
「……」
焼き尽くされた街で、言葉すら出なかった。
家族もいない。
奉公先もなくなってしまった。
頼れる人もいない。
わずかだった持ち物さえも火事で焼けてしまった。
何もなくてこれからどうすれば良いのだろうか。
全てを失って考える気さえも起きない。
宿を出てから何も食べていない空腹と、寒さに身を震わせていた時だった。
数人の男たちの声が聞こえた。
思わず木の影に身を隠す。
混乱に乗じて乱暴を働く者がいると聞いたことがある。
女を浚って売り飛ばす人買いもいると。
身を潜めて伺っていると、男たちの会話が微かに聞こえた。
その会話は、どこか不穏なものだった。
ここにいると危ないかもしれない。
けれど、どこへ行けば安全なのだろう。
行く場所なんてないのに。
そんなことを思っていた時、男たちがこちらへと近づく気配がした。
この状況に不似合いな笑い声に、思わず背筋が震える。
「……っ」
恐怖の中で、不意に一人の姿が脳裏をよぎった。
透き通った薄水色。
私の名前を呼ぶ声。
男たちの足音がすぐ側まで近づいてきた瞬間、気づけばその場から逃げ出していた。
暗闇の中を夢中で走る。
なぜ彼の顔を思い出したのか分からない。
けれど、この暗闇の中で薄水色の瞳だけが鮮明に蘇った。
気がつくと異国人居留地に続く坂道へと足が向かっていた。
町の外れの高台は火事を免れたらしい。
行き慣れた道を暗闇に紛れながら走る。
許可もなく入ったことが見つかったら罪に問われるかもしれない。
けれど火事で人手が不足しているのか、見つかることなく入ることができた。
忍び入るような真似なんて、普段なら絶対にしなかった。
恐怖なのか後ろめたさなのか震えが止まらないけれど、ただただ真っ直ぐに目指した。
居留地の奥にある薄水色のお屋敷が見えてきて、思わず息を飲んだ。
あの方の瞳と同じ色。
「っ……」
息切れたまま、震える手で扉を叩いた。
こんな夜遅い訪問者を不審に思っているのか、扉の内側から警戒するような異国語が聞こえた。
おそらく使用人の声だろう。
「開けてください……」
うまく呼吸ができず言葉が震える。
それでも何度も異国語で繰り返した。
扉の向こうで戸惑う様子が伝わってきて、震えた声が小さくなってしまう
このまま開けてもらえなかったらどうしよう。
不審者だと追い返されてしまうかもしれない。
そんな不安と隣り合わせの時間はとても長く感じられた。
ややあって、中から足音が響いた。
床板を踏む靴の音と、早口の異国語が響いている。
勢いよく扉が開くと中から灯りが差した。
顔を上げた先に、薄水色の瞳が見えた。
「サエ……」
名前を呼ぶ声。
私の名前を呼ぶ人は、この方しかいない。
「……私も、一緒に連れて行ってください……」
まだ息が整っていないまま、その言葉を口にした。
自分でも信じられないことを言っていると分かっている。
異国へ帰るこの方に。
連れて行ってほしいなんて。
きっと常識では考えきれないことだ。
異国へ行くことは簡単なことではない。
それ以前に、この方が私を連れて行ってくれる確証なんてどこにもなかった。
それでも、あの瞬間に薄水色の瞳が思い浮かんだ。
私が頼れるのは彼だけだった。
彼にとっては私を助ける義理も得もない。
扉を閉められたらそれまででしかない。
けれど。
気づいたらここを目指していた。
「奉公先は潰れました……。家族もいません……」
働くところも。
家族も。
私には何一つ残っていない。
「お願いします……。一緒に連れて行ってください……」
見知らぬ異国の地が幸せかは分からない。
もしかしたら、母の願い通りではないかもしれない。
それでも、私の名前を呼んでくれる方だった。
「分かった」
手を引き寄せられる。
その瞬間、自分の手がひどく冷たかったことに気づいた。
彼が触れた先から温もりが戻ってくるようだった。
握られた手を引かれてお屋敷の中へと入る。
背後で扉の閉まる音が響いて、自分でも驚くくらい肩が震えた。
その音は、まるでこの国との繋がりが閉ざされたように聞こえた。
周囲の音が耳に入らず、自分の胸の音だけが響く。
その音がうるさいほどに耳を反響して、息もできないほどに緊張する。
それでも、振り返ることはできなかった。
二度と故郷の地を踏めない未来だと知っていても――。
次回から舞台が異国に移ります。




