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異国の空に想う  作者: 細井雪
故郷編
10/14

別れ(1)





 年が明け、寒さがいっそう深くなってくる。

 奉公先のお屋敷で、他の女中たちの話し声を聞いたのは偶然だった。


 ――あの若い下働きの娘、反物屋の若旦那に捨てられたらしいわよ。

 ――甘い言葉でほだされて舞い上がっていたけどねぇ。

 ――子ができた途端知らぬ顔されたそうさ、立場が違うんだ。


 聞こえた内容に思わず足を止めた。

 少し前まで働いていた、最近見かけない下働きの娘のことらしい。

 立場の違う相手に夢中になっていて、誰の目から見ても遊ばれている話は知っていた。

 それに気づいていなかったのは当の本人だけだった。


 気づけば私はその場から逃げ出していた。

 与えられている部屋に戻り、戸を閉めて思わずしゃがみ込む。

 それほど走り回ったわけでもないのに、息が上がって胸が苦しい。

 なぜか締め付けられているようだった。


 先ほどの話が頭の中を巡る。

 女中が奉公先の主人や身分が上の商売相手とそういった関係になることは少なくない。

 けれど妾になれたらまだ良い方。

 ほとんどは、知らぬ顔をされて捨てられてしまう。

 初めから向こうは町娘に本気ではない。

 甘い言葉で絆されて思い違いするのは町娘の方。

 身分の違う相手にとっては遊びでしかない。


 下働きの娘の話だ。

 それなのに、なぜか耳にいつまでも残った――……。







 その日は、いつもの薄水色の瞳ではなく、異国人の使用人が扉を開けた。


「お取次ぎいたしますので、お待ちください」


 異国語でそう言われて、いつも通されている応接室へと案内された。

 お屋敷の使用人に案内をされるのは、初めて応接室へ通された日以来だ。

 あの日と同じように待つように言われて、何だか落ち着かない気持ちになった。


 どれくらい時間が過ぎただろう。

 奥から声が聞こえた。


「……分かった。日程が決まったらまた教えてくれ」

「ええ。じゃあね、ギルバート」


 一つは聞き慣れた声、もう一つは異国の女性の声だった。

 背の高い人影がこちらに気づき、薄水色の瞳と目が合う。


「サエ?」


 彼の声に女性の方も私を振り返った。

 その拍子に、赤色の裾が揺れるように舞った。

 美しく洗練された異国の女性。

 その姿は華やかという言葉がよく似合う。

 彼女は異国語で彼と別れの言葉を交わすと、側を通り過ぎていった。


「もう来ていたのか」


 部屋の扉が閉まり、二人だけになる。

 聞こえた声はいつもより固く感じられた。

 訪れたときにいつもと雰囲気が違っていた様子から、何となく胸が騒いだ。

 胸の奥で響く音が、まるで部屋中に響いているように感じる。


「近いうちに帰国することになったんだ」


 鳴り響いていた音が一瞬で止まった。


「本国から連絡が来て、急きょ戻らないとならない。次の船でこの国を発つ予定だ……」


 金色の髪に薄水色の瞳を持つ彼は、この国の人ではない。

 いつかは本国へ帰る人だと分かっていた。

 それなのに驚いたのは、あまりにも突然だったからだろうか。


「そうですか……」


 こういう時どう返していいのか分からなかった。

 ただそんな相槌だけが、乾いた唇から零れた。


 異国の貿易商人達は、大勢この国に来てまた去っていく。

 何年もい続ける人もいれば、すぐに他の国へと行く人もいる。

 そんな人達を大勢見てきた。

 それはよくあることで、何も不思議なことではなかった。


 それなのに、どうしてこんなにも胸の奥がどくどくと激しく鳴るのだろう。

 何だかとても息苦しい。

 まるで、あの日のようだ。

 偶然聞いた女中たちの言葉が蘇る。


 ――立場が違うんだ。


 あれは下働きの娘の話だったはず。

 それなのになぜかまるで自分に言われているような気がした。

 ほら、と誰かが頭の中で言っているようだった。

 思わず自分の手を強く握りしめる。

 手の内側に爪が食い込んだ。


「サエ……」


 この方は異国の裕福な貿易商人だ。

 私とは、生まれた国も立場も異なる。


 いつかこの国を去る方だと分かっていた。

 私はあの娘とは違う。

 あの娘のように思い違いなんてしたりしない。

 私の名前を呼ぶことに意味などきっとない。

 何一つ思い違ったりはしていない。

 耳元で響いて離れない言葉を振り払うように、声を上げた。


「どうぞ、国へ帰ってもお元気で」


 そう言うだけで、まるで走った後のように息が切れた。

 握りしめた手が震える。


「それだけか……?」


 彼の言葉の意味をどう取れば良いのだろうか。

 乾いた唇が震えるのを強く噛みしめる。

 顔を見ることができなくて、初めて応接室に通された日と同じように、思わず逃げるように薄水色のお屋敷を後にした。

 彼はこの国にやってきた貿易商の一人だ。

 それだけ。

 そう、それだけでしかない。

 私の名前を呼んでも。

 異国の色んな話をしてくれても。

 触れる手がどれほど暖かくても。

 忘れてはならないことがあった。


 彼は異国からやってきて。


 私たちの間には、大きな海があるということを……。







 翌日、急な使いで街を出ることになった。

 目的の場所は少し遠かったので、途中で一泊する必要がある。


 その夜に街で起こることを、この時の私は知る由もなかった――。






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